風がヴギウギ

自由気ままな風の様に毎日を切り取っていく

故郷は・・・ 大正時代・パスポ-ト・・・

2020年06月18日 | 森田屋

生家の歴史や曾良庵について まとめ中

今回は 大正時代 渡米していた 祖父母のパスポ-トを載せます

今とは 相当違いますね・・・

祖母は 渡米した祖父を追い

ひとりで船旅をし 渡米したそうです

この時代 その 勇気に脱帽します

 

 

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じじいの庭仕事・・・ PPMを聞きながら

2020年06月17日 | 森田屋

今日は PPMを聞きながら 庭仕事&焼き芋を作りました

花は何処に行った ・ パフ みんな懐かしい

高校の修学旅行で TVの街頭インタビュ-に思い出

「PPMって何かしってる」

「ピータ- ポ-ル&マリ-でしょ」って答えましたが

よくよく考えたら その当時問題になっていた 汚染の表示だったのです

 

窓下 風船蔓だけだと 寂しいので

紅葉の植木などを持ってきました

 

茄子とトマトに隠れて出来ていた ピ-マン

色んな色が出来る品種ですが

初採りは 紫でした

先日1本採りましたが 今度は2本できてます

良いサイズになりそうです

ブラックは 色付きが広がってますが

この時期は メダカの家を覆ってしまうので手入れが欠かせません

 

千日紅も安定してきました

みかんも 順調 頑張れよううううう!

 

 

 

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故郷は・・・ 木堂来たる:再構成・・・

2020年06月17日 | 森田屋

生家の思い出:比べてください 白黒対総天然色

黒塀の生家も記憶にはあります

白黒写真は木堂氏が来た 御柱祭の時であろう 比較すると見難いですが殆ど変化していない 

塀が木製から コンクリ-ト塀へ そして 峠入り口のところにミラ-がついた 

 松の木の前に「峠入り口」の碑があったような気がします

戦国時代 高遠から 信長が諏訪大社へ馬で来たと聞いたことがあります

道しるべとして建てられたのかもしれません

山道の入り口には 馬頭観音の塔が苔むしています

 

写真は 道を挟んだ 「たびや」の 二階 又は 屋根から撮られているようである 

一目見ようと思ってか 家の前は人だらけ

面白いのは 家の玄関前に馬がいる事と何故か御柱のような 柱が左中央に立っている 

何となく 草履取りのようにも思えるが状況がわからない 

冒頭の写真は 下の写真と何となく年代が違いそうです 

一、左の松の木付近に黒塀が無く お勝手部分からある様に見える 

二、右側の黒塀の形が違うように見える

古物語にも掲載したが中庭での一枚です 

後ろには まだ焼失していない 浄瑠璃用の離れが写っている

犬養毅氏から 一太郎宛の礼状

拝啓 野菜御持贈□□□在候

専心に鳴謝併晏安を祷候

拝啓 野菜を ご贈 答 と し て 御 持 ち い い た だき

・・・・・・・・ 厚く御礼申上げます

 

 

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故郷は・・・ 弥平治翁・・・

2020年06月16日 | 森田屋

弥平治翁は 守矢 如瓢(ジョヒョウ)とも言われ

昭和4年 信陽新聞に 6月23日から10回にわたり掲載された

弥平治は晩年 目の病気を患い苦しんだようですが

浄瑠璃に打ち込んでおり 自分でも離れで 三百人程の門下生を持っていたらしい

(机は今 僕の家に・・・ 右端の琴は 叔母さんの家に・・・)

その離れも火事で消失 お蔵にも火が回ったようで梁の木などがすすけていた

 この時の 火事についても 多数お見舞いの書簡が残っている 

弥平治翁 最初は 緑内障だったようで目は不自由だったようであるが 

それでも浄瑠璃が祭りで行われると りょうさんに手を引かれて聞きに行った様です

 しかし周りからは「めくら めくら」とはやし立てられたらしい 

その後 病気は段々と悪くなり 一通の手紙が残っています

年代不明  拝 啓 仕 様  

御ぢ上義につき兼て御承知の眼病又々  

再発せられ 去る弐拾九日茅野の常盤屋へ参り  

宮川病院のしんさつを受け居り候所  昨日突然左眼飛出し非常のいたみを来し 

注射を以て痛をこらへをる次第に候  以前は(ロウナイショウ)の病名なりしが

  今度は(ハクナイショウ)と化し水晶体は(ハナ)の如く流出し 

茶目の部分は露出し しじう出血し 茅野にても 実に閉口仕る様子

 医師の言によれば今の所では当底手術の法は無之 

ニ三日間身体の健康を見て最後の手術(まやく)を以て 

(エグリ出ス)の他致し方無き由(たかね、とめ)は(はしか)にて臥し 

昨夜から民平腹痛にて 病床に有之候様な次第 

当書着次第  御用事御多忙には有之候へども 

御ぢ上が入院手術を終るまで一度御歸郷被下様願上げ候

            以上  

六月二日           りゅう 球治 

 ●先日 家に関する書簡を見ていたとき 一通の手紙を見つけました 

東京市中野区本郷町 笠原 球治 この人が親戚筋であれば可能性は濃い

次は 如瓢の新聞記事

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故郷は・・・ 「鹿乙」と「帳面」

2020年06月15日 | 森田屋

「猪・鹿 売並魚鳥招帳」 

当時 森田屋として売っていた 売掛帳がある

帳簿の表紙

文政元辛酉年(かのととり) 猪鹿売並魚鳥招帳 六月 吉日

「諏訪の薬食い」と言う冊子に この書面を持ち掲載された 父である

後ろは 生家のお蔵

お蔵には 男紋の左十字が漆喰で作られている

全てが 今では 思い出でしかない

 

数枚残る書面の一部 多分 明治14年没の六代目:弥平治の筆であろうと

父が、「家記考」と言う自作本の中で記載している。

内容については、古文書が読める方にお願いしたようである。

一応 父の本の一部を右に転写した 文章と掲載書面は違うかもしれません

 

弥平治を身近い感じれるのは この書面と下の 銃身の無い火縄銃である

その 銃身には 流石というか「鹿」と「言葉」が 記載されている  *銃身は 兄が所蔵している

弥平治の火縄銃 残っている銃把には 像眼がある  一つは弐匹の鹿  全体は金属 蹄の部分は貝

もう一つは句  「世の中は 道無き道を 思いやる」  他には梅の花 竹があしらわれているらしい

 

深く入れば入るほど 家系の呪縛に入っていきそうである

 

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