【丸山眞男】
「中央公論」2月号が特集「国立大学・文系不要論を斬る」を組んでいるのを知り、さっそく買ってきて読んだ。あきれた。編集部が送ったアンケートに対して答えた大学のうち、自分に都合がよい意見だけを掲載し、それに竹内洋(「教養とは」の類の本の著者)の巻頭言、経済学者佐和隆光、教育学者E.ヴィッカース、政治経済学者猪木武徳の論評を加えただけのしろものではないか。純粋の理系学者から、いまの日本の人文科学を擁護する意見がちっともない。
科学を科学たらしめる重要な要素に「データベースの共有」があげられる。かつて(あるいは今でも)文系の講座では重要な基本文献を抱えこんで一般公開せず、ましてや競争相手の研究者には見せず、論文や著書を書くのが当たり前だった。考古学的な発掘史料も文学部考古学教室では同様に扱ったから、広島大では帝釈峡で発掘されて鹿の角が、長い間「帝釈原人」として扱われていた。藤村新一が埋めた「旧石器」も、批判的な竹岡俊樹や角張淳一には見せなかったから、30年間インチキがばれなかった。
この基本データの囲い込みあるいは「秘密主義」が、著作における索引や引用文献の欠如と並んで文系の主張の再現性の乏しさ、信頼性の薄さ、ひいては「生産性の低さ」につながっていると思う。
山本義隆「私の1960年代」(金曜日、2015/10)を読んでいて、1969/1/15付(安田講堂の機動隊による封鎖解除の直前)の東大総長代行加藤一郎宛、丸山真男書簡に出くわした。読んで愕然とした。当時「東大法学部・明治新聞雑誌文庫」主任だったのが丸山である。
「明治新聞雑誌文庫は、世界に一部しかない新聞類を多く所蔵しており、…もしこの文庫の一部でも毀損されますならば、文庫主任としての私は、重大な責任を負うことになります。消火措置を含めまして、万全の措置をおとり下さるよう、念のために申し入れます。…」(p.122)
当時、東大全共闘の議長だった山本は、「それほど貴重なものなら、なぜ国会図書館に寄付するとか、マイクロフィルムでコピーを作って、各大学の図書館に配布しておくような措置をとらなかったのか」と批判している。これは彼が理学部物理学教室の「理系人間」であるための発想で、文系には「囲い込む」という発想しかなかったである。(最近やっと大学にも図書館とは別に「文書館」をつくる動きが出て来たのはよろこばしい。
上記のように丸山真男を批判した山本義隆は、全5000点に及ぶ東大闘争のビラ類を収集し、全23巻の「東大闘争資料集」を作成、ゼロックスコピーをハードカバー製本して、マイクロフィルム3本とともに国会図書館と大原社会問題研究所に寄贈し、さらに原本は「国立歴史民俗博物館」に寄贈したという。「私の1960年代」には、ビラの写真がいくつか掲載されている。)
「中央公論」2月号が特集「国立大学・文系不要論を斬る」を組んでいるのを知り、さっそく買ってきて読んだ。あきれた。編集部が送ったアンケートに対して答えた大学のうち、自分に都合がよい意見だけを掲載し、それに竹内洋(「教養とは」の類の本の著者)の巻頭言、経済学者佐和隆光、教育学者E.ヴィッカース、政治経済学者猪木武徳の論評を加えただけのしろものではないか。純粋の理系学者から、いまの日本の人文科学を擁護する意見がちっともない。
科学を科学たらしめる重要な要素に「データベースの共有」があげられる。かつて(あるいは今でも)文系の講座では重要な基本文献を抱えこんで一般公開せず、ましてや競争相手の研究者には見せず、論文や著書を書くのが当たり前だった。考古学的な発掘史料も文学部考古学教室では同様に扱ったから、広島大では帝釈峡で発掘されて鹿の角が、長い間「帝釈原人」として扱われていた。藤村新一が埋めた「旧石器」も、批判的な竹岡俊樹や角張淳一には見せなかったから、30年間インチキがばれなかった。
この基本データの囲い込みあるいは「秘密主義」が、著作における索引や引用文献の欠如と並んで文系の主張の再現性の乏しさ、信頼性の薄さ、ひいては「生産性の低さ」につながっていると思う。
山本義隆「私の1960年代」(金曜日、2015/10)を読んでいて、1969/1/15付(安田講堂の機動隊による封鎖解除の直前)の東大総長代行加藤一郎宛、丸山真男書簡に出くわした。読んで愕然とした。当時「東大法学部・明治新聞雑誌文庫」主任だったのが丸山である。
「明治新聞雑誌文庫は、世界に一部しかない新聞類を多く所蔵しており、…もしこの文庫の一部でも毀損されますならば、文庫主任としての私は、重大な責任を負うことになります。消火措置を含めまして、万全の措置をおとり下さるよう、念のために申し入れます。…」(p.122)
当時、東大全共闘の議長だった山本は、「それほど貴重なものなら、なぜ国会図書館に寄付するとか、マイクロフィルムでコピーを作って、各大学の図書館に配布しておくような措置をとらなかったのか」と批判している。これは彼が理学部物理学教室の「理系人間」であるための発想で、文系には「囲い込む」という発想しかなかったである。(最近やっと大学にも図書館とは別に「文書館」をつくる動きが出て来たのはよろこばしい。
上記のように丸山真男を批判した山本義隆は、全5000点に及ぶ東大闘争のビラ類を収集し、全23巻の「東大闘争資料集」を作成、ゼロックスコピーをハードカバー製本して、マイクロフィルム3本とともに国会図書館と大原社会問題研究所に寄贈し、さらに原本は「国立歴史民俗博物館」に寄贈したという。「私の1960年代」には、ビラの写真がいくつか掲載されている。)
文系理系の対比、文系での権威、文系学者の教養等々について、面白い話が書かれています。