ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修復腎移植ものがたり (4) 見はてぬ夢】難波先生より

2014-09-08 12:45:14 | 修復腎移植ものがたり
【修復腎移植ものがたり (4) 見はてぬ夢】
 男は万波誠といった。月曜日から市立病院での勤務が始まった。当面の課題は人工透析の拡充だった。
 宇和島は先の戦争中に6回も空襲を受けた。累計で死者274人、被災者25,060人もの被害を出している。市の南部から北西に突き出した、小さな半島の坂下津地区に海軍航空隊があり、予科練の訓練飛行場があったためだ。焼夷弾により市街地のほとんどは類焼し、木造の市立病院も焼けてしまった。
 男が着任した71年頃には、もう戦争の傷跡は残っていなかった。人口64,000人の小さな町で、漁業のほかは柑橘類の栽培を中心とした農業が主な産業だった。気候も人情も温暖で、鯛飯とかまぼこが名物である。
 この頃、日本の保険医療制度には大きな変化が起こっていた。昭和三六(1961)年に「国民皆保険制度」が導入され、誰でも医療保険を使って安い負担で医者にかかれるようになった。だが透析医療は保険適用の対象外だった。このため昭和四一(1966)年には透析装置、いわゆる「人工腎臓」は全国に48台しかなく、透析を受けられる患者も150人程度だった。今の海外渡航移植のようなもので、お金持ちしか慢性透析を受けられなかった。月100万円、年に1,200万円の治療費がかかった。大卒の初任給が月26,000円の頃である。
 昭和四二(1967)年に、血液透析が健康保険の対象となった。しかし医療費の一部負担が毎月20~30万円もかかり、透析を始めたものの治療費が続かなくて中断する患者もいた。「金の切れ目が命の切れ目」とさえいわれていた。69年には全国の透析患者数はわずか380人だった。広島大の移植外科医福田康彦が、当時広島県で唯一の民間透析センターに受診中だった、透析患者36名の出身地を調べたデータがある。それによると広島県在住は20人で、残りは兵庫(6)、山口(5)、岡山(2)、徳島、香川、京都各1人だった。命の綱である人工腎臓を求めて、遠方から患者が殺到していたのだ。
 この頃のことを、当時、30代後半で市立宇和島病院にいた内科医近藤俊文は、こう回想している。
 「片田舎の終着駅で、しかも医者はいない。経営的にもつぶれかかっている病院。内科医長・副院長のわたしのチームは学園紛争のおかげで流れてきた研修医が主要メンバーだった。だからわたしは、胃や大腸の透視、胃カメラ、腹腔鏡、経皮経管胆道造影、肝生検、甲状腺生検、骨髄穿刺はおろか、病理診断のまねごとまでしなければならなかった。
 その上に人工透析がルーチン医療として登場してきた。それにもわたしが対応する以外に人がいなかった。生来 不器用者のわたしは、キール型透析装置にセロファンを張るのに苦労した。……何枚も何枚もセロファン紙を無駄にして、ほとほと疲れはてる始末。この拷問から、いや、この病院そのものから逃げ出したいと内心は思っていた。」(雑誌「ミクロスコピア」)
 そこへ「地獄に仏」のごとく、山口大医学部の泌尿器科から最初に派遣されてきたのが、田尻葵矩夫だった。手先が器用で勉強熱心な田尻は、内科の近藤部長が買い込んで使いこなせないでいた、キール型の人工腎臓をさっそく動くようにし、腎不全患者の人工血液透析に取り組んだ。
 人工腎臓は大別すると、内科が扱うところと外科・泌尿器科が扱うところがある。山口大では泌尿器科が扱っていた。日本に最初に導入されたコルフ型人工腎臓は、急性腎不全の治療にはよかったが、慢性腎不全患者の維持透析が必要になってくると、血液抵抗が少なく患者の心臓への負担が軽くてすむ、キール型の利点が評価されるようになってきていた。
 キール型では、プラスティック製の薄い四角な枠の両面にセロファン膜を張ったものを4槽に重ね、枠の両端に開けた穴の片方から動脈血を流し込み、他方の穴から血液を回収して静脈に戻す。この装置自体が透析液の中に浸されていて、血液は流れていく間に、浸透圧の作用で老廃物が透析液中へ移行し、血液が浄化される。1960年にノルウェ-・オスロ大学のキール博士が開発したものだが、日本への普及は遅れた。
 透析槽にセロファン膜を貼るにはこつが要り、下手に貼ると血液が漏れる。漏れると透析が翌日回しになった。実際、初期の人工透析では血液漏れのため、看護師や技師に患者の汚染血液によるB型、C型肝炎が多発した。男は田尻科長の指導を受けながら、膜貼りを初め人工透析の技術をマスターするのに励んだ。

 この頃の男には、まだ野球をやるゆとりがあった。医師や事務や営繕課の野球好きを集め、市立宇和島病院チームを組織し、社会人野球で大活躍もした。当時の愛媛県には「愛媛新聞」の他に、「高知新聞」の資本による「新愛媛」という日刊紙があった。この両紙に「打って万波、投げて万波」とよく報道された。
 透析医療の事情が変わったのは、72年、透析患者に「身体障害者福祉法」が適用され、「厚生医療」の対象となってからだ。翌年には年額3万円以上の高額医療費はすべて公費負担となった。
 これで腎不全患者から医療費を取りはぐれるおそれがなくなったので、総合病院ではどこでも人工透析部門を拡充した。それでも患者は増え続けた。戦後30年、飢えからの解放は糖尿病の増加をもたらしていた。
 目先の利く医師はさっさと開業して、自分の透析センターを開設した。
 76年夏のある日、田尻部長が男を呼び、話を切り出した。
 「実は、病院を辞めて秋から外来だけの透析センターを開業する予定でいる。ついては重症患者の入院はここで引き受けてくれないか」
 というのである。後輩の男は「わかりました」というしかなかった。
 田尻は予定通り、秋になると宇和島市内に診察と透析だけをする医院を開業した。評判のよい病院の医師が近くに開業すると、その患者はみな付いて行くものである。病院にいた外来透析の患者は田尻のクリニックに移動し、ごっそりといなくなった。しかし新しい患者は内科の近藤からどしどし紹介されてきた。
 近藤俊文は宇和島の出身で、京大医学部を卒業し、内分泌・糖尿病・免疫学を専門とする第二内科で研鑽をつみ、1960年にいったん市立宇和島病院に就職した。しかし2年後に大学院に入り直し、「腎性高血圧症とアルドステロンの関係」について研究し、博士号をえた。その後、皮膚科の女医と結婚し、66年に夫婦でアメリカのユタ大学に留学し、ここでも腎臓病とホルモンの関係について研究を続けた。
 近藤にはひとつの原体験がある。高校3年生の時にネフローゼ症候群にかかり、市立宇和島病院に入院したのだ。焼け跡のバラック病棟だった。同室の二人は、シベリア抑留から帰還した青年と小学生の女児で、ともにネフローゼだった。同病のよしみで親しくなったが、結局ふたりとも完治せずに死んでしまった。近藤だけが回復でき、医学部に進み医師になったのである。同室の青年の、「兄ちゃん、医者になって、はようこの病気の治し方を研究してくれや」という声が、近藤の耳にこびりついていた。
 いっぽう田尻が去った泌尿器科では、山口大の医局から後任の医師を送ってくれない。男は一人科長のまま、日常の診療をこなし、黙々とキール型透析装置のセロファン膜貼りをやっていた。見かねた近藤が手伝ってくれたこともある。ともかく一人だから人工透析の患者をこなし、前立腺肥大の手術のような、一人でもできる手術をおこなうのがやっとだった。
 男の同級生に土山憲一がいた。内科に進んだのだが、対人関係の取り方が苦手で悩んでいた。患者とその家族を納得させるには、コミュニケーションの技術と話術が必要である。医者の業界用語ではそれを「ムンテラ」という。「ムント(口)」と「テラピー(治療)」をくっつけて短縮した和製ドイツ語だ。北九州の病院にいた土山はムンテラが下手で、患者だけでなくその家族や病院の同僚とも摩擦を起こしていた。
 「思い切って専門を変えたらどうか。今ならまだ間に合う」
 そういう男のアドバイスを容れて、土山は市立宇和島病院で泌尿器科の医員になった。こうして泌尿器科にやっと2人医師の体制が回復した。
 慢性腎不全対する透析療法も順調に進んでいたが、男を悩ませたのは、透析装置や透析液、シャントの不備や合併症のため、まだ若い人がつぎつぎと死んでいくことだった。
 「欧米では腎移植が進んでいて、多くの患者が救われている。」
 そのことは専門誌で知っていた。腎移植の話はアメリカ留学した近藤からも、最近出席した地方学会でも耳にしていた。しかし片田舎の宇和島でそれを行うのは、まことに夢を見るような話だった。(続)
コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【書評など】上原善広「石の... | トップ | 【チフスのメリー】難波先生より »
最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
国民皆保険制度 (からしだね)
2014-09-08 15:03:19
『修復腎移植ものがたり』連載4回目の今回は、人工透析と国民皆保険制度との関係が興味深かったです。人口透析が当初保険適用外→保険適用されるも過重な自己負担→「身体障害者福祉法」の適用、という経緯を辿っていたことも初めて知りました。
そこにたどり着くまでの患者さんご自身、ご家族、医療関係者の方々などのご苦労は本当に大変なものがあったと思います。私が生まれた時にはすでに皆保険制度が始まっていましたが、この制度の大切さをしみじみ感じました。これからも皆で力を合わせてこの制度を守って行かなければ、と改めて思いました。
前回のコメントにも書きましたが、私はこれまでこの問題のことは何も知りませんでした。何事もまず「知る」ということが大切ですので、この連載ではこの問題に対する難波先生のお考えを知りたいと思います。
返信する
論理と検証 (からしだね)
2014-09-11 10:14:01
続けてコメントさせていただきます。本当は何の先入観もなく、この連載を読んでから、自分の考えをまとめた方が良いのかも知れませんが、ついつい「知りたい病」で、ネット検索などしてしまい、難波先生がこの問題について広島大学で2006年に行った講演の内容が記載された記事を見つけました。

http://www.tokushukai.or.jp/iryou_kenkyu/rt/546.html

徳洲会側の記事ですが、講演そのものは先生が行われた内容そのものと思われますので、私のようなこの問題について新参者が読むには、基礎知識として適しているかと思います(記事の内容に齟齬がある場合は、ご指摘お願いいたします)。
私がこの問題に興味を持ったのは、先生の他の記事(ブログ)を読ませていただいて、難波先生は徹頭徹尾研究者で、「論理と検証の方」だという印象を持ったからです。その先生が支持されているということは、それなりに筋の通ったものがあるからだと思いました。
上記講演ですと、『腎臓癌』についてのご説明は、最近私が遺伝子に興味を持っていることもあって納得がいくものでした。ただ、同意書について、「患者さんが医師に『お任せします』と言うのなら、私見では同意書は絶対に必要な案件ではない。 」と述べられていますが、私は医師側の立場を守るという意味で、やはり必要なのではないかと思います。どんなに信頼関係が成り立っていると思っていても、人というものは弱いものですから、状況によってどう変わるか分かりません。ある意味寂しいことですが、そういう場合、書面になっているということは強いと思います。
現時点では私は支持派でも批判派でもありませんが、皆さんで一緒に考える価値のある問題だという思いを最近強くしています。批判派のご意見も誹謗中傷以外なら意味のあるものだと思いますので、いろいろな方のご意見をこれから聞かせていただけたら、と思います。

返信する
読点 (からしだね)
2014-09-11 12:53:07
2つ目のコメントの第2文は、読点がやたらに多くて読みづらいと思います。申し訳ありませんでした。
返信する
Unknown (Unknown)
2014-09-12 18:57:18
万波先生の医療活動に関しては少しは存じ上げておりましたが、難波先生がその人となりについて書いて下さり、より万波先生の事を理解できるようで、楽しみに拝読いたしたいと思います。
返信する
思いがけず (田尻)
2015-11-24 14:05:37
今は亡き父のことが書かれていて驚きました。ありがとうございました。
返信する

コメントを投稿

修復腎移植ものがたり」カテゴリの最新記事