【追悼】分子生物学者の柴谷篤弘先生に賀状を出したら、奥さまから2011/3/25に亡くなられたと通知があった。
一昨年のことではないか。新聞を見忘れたのだろうか。
柴谷先生は、阪大工学部を卒業後、京大理学部動物学で分子生物学の研究をされた。「DNAの環状モデル」は柴谷モデルともいわれ、これはバクテリオファージでは正しかったが、ワトソンとクリックが「二重鎖直線モデル」でノーベル賞を受賞してからは、忘れられた。
『生物学の革命』(みすず書房, 1960)では、従来の生物学を「枚挙生物学」と呼び、分子生物学を軸にして、これから生物学に革命が起きること、それに伴って社会認識も変わり、パラダイム・チェンジが起きることを正しく予言していた。(英語のparadigmを「パラダイム」と日本語で表現したのは、柴谷先生が最初である。)
先生は、山口大学教養部の教授をへて、私が医学生の頃(1964年)には広島大原医硏・生化学の教授だった。先生が教授を辞任した理由はわからない。日本の大学の「たこつぼ主義」が嫌になったのだろうと、自分では思っている。大学紛争の後だったように記憶している。
我々は「医学方法論研究会」を結成していて、柴谷教授に「自主講座」を依頼した。当時の医学部生化学教授は、胆汁酸の研究者で、DNAのことなどちっとも教えてくれなかったのだ。
私たちは、柴谷先生から「シャルガフ律」だのDNAの塩基組成とその複製のメカニズムだの、分子生物学の基礎を習った。
『生物学の革命 第三刷り』あとがきに、「その後、医学連の学生たちの医学方法論のテキストとして使われたこともあり…」とあるのは、このことである。(このあとがきには、私の名前も出ている。)
医学部卒業前に、「弟子になりたい」と申し出たが、「医学を学んだら、夾雑物が多いから、分子生物学者には向かない。むしろ、その知識を医学に活用する方がよい」と断られて、病理学者になった。
『生命の探究:現代生物学入門』(中公新書, 1966)は「自主講座」の後に書かれた本で、いまでも内容は古くない。
先生は、その後オーストラリア国立研究所に移られ、「ネイチャー」に多くの論文やレターを発表された。
日本の大学紛争を外国から見ていて書かれたのが、『反科学論:ひとつの知識・ひとつの学問をめざして』(みすず書房, 1973)だ。これは「文理融合型の知識の重要性と科学者が<専門家>になることの危険性」を強調していて、まさに現代への警鐘であった。この本では「ゲイ容認論」が展開されているが、まさに時代を30年近く先取りしたものであった。
このタイトルは明らかにC.P.スノー『二つの文化と科学革命』(みすず書房, 1967)の影響を受けている。しかし、先生が邦訳を読んだとは思えない。寝台車のなかに英語原本を持ち込んで、すらすらと読める人だった。
この本の前書きでは「難波紘二氏が『生物学の革命』の続編を書けと示唆した」とある。そうかも知れないが、当時の私には同性愛に対する偏見があったから、この本を受け取ってビックリしたのだった。
オーストラリアに20年くらいおられ、帰国して関西医大教授、京都精華大の教授、学長を勤められた。差別問題にとり組まれ、『比較サベツ論』(明石書房, 1998)を出版されたが、「解放同盟」の理論的根拠を根底から覆したのがこの本だ。
『エントロピーとエコロジー再考』など、私がこれから読まなければいけない本もある。
「チョウの採取家」としても知られ、シジミチョウのなかには、「シバタニ」の学名をもつものもある。
チョウ採取の極意については、『発生生物学の細胞社会学:文様形成の理論』(講談社, 1979)に書かれていた。「採る自分」という意識を棄てると採れるという。「採ると意識するな」ということだ。
1920年生まれだから、90歳近かった。歳に不足はないが、やはりもっと元気でいてほしかった。
本当は、2009/5の京都での病理学会の際にお訪ねするはずだったが、欠席したのでお会いする機会を永遠に失ってしまった。
ご冥福を祈りたい。
一抹の淋しさはあるが、長谷川伸の『瞼の母』ではないが、本の中に先生がいる。本を消してしまわない限り、先生の本を読めば先生に会える。
一昨年のことではないか。新聞を見忘れたのだろうか。
柴谷先生は、阪大工学部を卒業後、京大理学部動物学で分子生物学の研究をされた。「DNAの環状モデル」は柴谷モデルともいわれ、これはバクテリオファージでは正しかったが、ワトソンとクリックが「二重鎖直線モデル」でノーベル賞を受賞してからは、忘れられた。
『生物学の革命』(みすず書房, 1960)では、従来の生物学を「枚挙生物学」と呼び、分子生物学を軸にして、これから生物学に革命が起きること、それに伴って社会認識も変わり、パラダイム・チェンジが起きることを正しく予言していた。(英語のparadigmを「パラダイム」と日本語で表現したのは、柴谷先生が最初である。)
先生は、山口大学教養部の教授をへて、私が医学生の頃(1964年)には広島大原医硏・生化学の教授だった。先生が教授を辞任した理由はわからない。日本の大学の「たこつぼ主義」が嫌になったのだろうと、自分では思っている。大学紛争の後だったように記憶している。
我々は「医学方法論研究会」を結成していて、柴谷教授に「自主講座」を依頼した。当時の医学部生化学教授は、胆汁酸の研究者で、DNAのことなどちっとも教えてくれなかったのだ。
私たちは、柴谷先生から「シャルガフ律」だのDNAの塩基組成とその複製のメカニズムだの、分子生物学の基礎を習った。
『生物学の革命 第三刷り』あとがきに、「その後、医学連の学生たちの医学方法論のテキストとして使われたこともあり…」とあるのは、このことである。(このあとがきには、私の名前も出ている。)
医学部卒業前に、「弟子になりたい」と申し出たが、「医学を学んだら、夾雑物が多いから、分子生物学者には向かない。むしろ、その知識を医学に活用する方がよい」と断られて、病理学者になった。
『生命の探究:現代生物学入門』(中公新書, 1966)は「自主講座」の後に書かれた本で、いまでも内容は古くない。
先生は、その後オーストラリア国立研究所に移られ、「ネイチャー」に多くの論文やレターを発表された。
日本の大学紛争を外国から見ていて書かれたのが、『反科学論:ひとつの知識・ひとつの学問をめざして』(みすず書房, 1973)だ。これは「文理融合型の知識の重要性と科学者が<専門家>になることの危険性」を強調していて、まさに現代への警鐘であった。この本では「ゲイ容認論」が展開されているが、まさに時代を30年近く先取りしたものであった。
このタイトルは明らかにC.P.スノー『二つの文化と科学革命』(みすず書房, 1967)の影響を受けている。しかし、先生が邦訳を読んだとは思えない。寝台車のなかに英語原本を持ち込んで、すらすらと読める人だった。
この本の前書きでは「難波紘二氏が『生物学の革命』の続編を書けと示唆した」とある。そうかも知れないが、当時の私には同性愛に対する偏見があったから、この本を受け取ってビックリしたのだった。
オーストラリアに20年くらいおられ、帰国して関西医大教授、京都精華大の教授、学長を勤められた。差別問題にとり組まれ、『比較サベツ論』(明石書房, 1998)を出版されたが、「解放同盟」の理論的根拠を根底から覆したのがこの本だ。
『エントロピーとエコロジー再考』など、私がこれから読まなければいけない本もある。
「チョウの採取家」としても知られ、シジミチョウのなかには、「シバタニ」の学名をもつものもある。
チョウ採取の極意については、『発生生物学の細胞社会学:文様形成の理論』(講談社, 1979)に書かれていた。「採る自分」という意識を棄てると採れるという。「採ると意識するな」ということだ。
1920年生まれだから、90歳近かった。歳に不足はないが、やはりもっと元気でいてほしかった。
本当は、2009/5の京都での病理学会の際にお訪ねするはずだったが、欠席したのでお会いする機会を永遠に失ってしまった。
ご冥福を祈りたい。
一抹の淋しさはあるが、長谷川伸の『瞼の母』ではないが、本の中に先生がいる。本を消してしまわない限り、先生の本を読めば先生に会える。
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