【立派】政治的な思想は「理想(Idea)」の問題で、「進歩」か「保守」かは関係ない。進歩派=左派、保守派=右派とするのはフランス革命の時に、議場の右側を保守が占め、左側を進歩派が占めたことに由来するにすぎない。
その理想(Idea)から「理想主義(Idealism)」が生まれ、「観念論(Ideology)」が生まれた。観念論がドイツ語化されたものが「イデオロギー(Ideologie)」で、用例はカール・マルクスの著『ドイツ・イデオロギー』に始まる。
それらを大本にさかのぼれば、プラトンの「イデア論」に帰着する。
日本では未だに「左派=良心派」、「右派=老獪派」と思っている人が多いようだが、政治的信条と倫理とは関係がない。
「産経」の記者が(免停中に)無免許運転でつかまったことは、すでにネットニュースで報じられた。3/25の同紙はこれをちゃんと第一社会面の通常記事で大きく報じている。ところが、地方紙は死亡記事が載る箇所に、1ポイント落とした活字で、小さく報じている。
地方紙の一面コラムは「キプロス財政危機」を話題にしている。ところが扱われている内容は、この新聞では報じられていない。「旅行客がキプロスに着いたものの、クレジットカードが使えず、ドルのユーロへの交換もできず困っている」という話だ。国際面には、「ニコシア・共同」のありきたり記事しかない。「産経」は首都ニコシア発大内清記者の記事として、銀行が閉鎖され両替ができず、ATMもカードも使えず、ドルで不要の買い物をして釣り銭をユーロでもらったことを伝えている。
キプロス島は第一次大戦後、英国の植民地になったが、1960年に独立して「キプロス共和国」となった。面積が四国の半部ほどしかない小さな島だ。ギリシア正教のマカリオス大主教が、独立運動指導したのを記憶している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/キプロス島
が、1974年になってトルコがトルコ系住民の独立運動を支持し、島の北1/3がトルコ系独立国「北キプロス・トルコ共和国」になった。(承認しているのはトルコだけ)。
キプロス島の南の人口は82万人、通貨はユーロ。北の人口は30万人、通貨はトルコ・リラ。首都はどちらもニコシアで、市街の北1/3に国境が走っている。
財政危機に陥っているのは「ユーロ圏」に属する南の「キプロス共和国」である。2紙ともその辺の解説がない。
それにしても、3/25夜のTVニュースによると、EUがキプロス共和国に対して日本円で1兆円の援助を行うという。国民1人あたり、1,220万円である。信じられない。「アベノミクス」と同様に、キャッシュがあるわけなく、ユーロ紙幣を増刷するわけだから、「ユーロ安、株安」が起きるだろう。株安はユーロ危機の連鎖反応への危惧からだ。
キプロス島はトルコ本土から目と鼻の先にあり、トルコは永年「EU加盟」を申請し、そのために死刑制度も廃止した。そのトルコはキプロス島の北部1/3につよい利権を有している。人口30万人のうち半数は本土からの出稼ぎだ。EUの財政構造上の欠陥を知り、トルコはEU加盟申請を取り下げるかもしれない。そうなるとこれまで抑制されていたイスラムの反キリスト教感情が台頭し、また「キプロス紛争」が起こるかもしれない。トルコの動きをメディアが報じないのは不可解だ。
自紙が報じていないニュースを素材に、コラムを書くのはルール違反である。地方紙の社説は、「共同」がひな型を配信し、それを基に書かれていることはすでに前に書いた。「産経抄」を35年間担当した石井英夫『コラムばか一代』(扶桑社文庫)によると、週に1回代わってもらうだけで、毎日書いたという。「天風録」は毎日、文体が違うから、日替わりで書いているのであろう。
新聞社には通信社から次々と外信が送られてくる。紙面にはその一部しか載せられない。その載らない記事を基にコラムを書かれても困る。
「産経抄」は「赤ひげ大賞」を受賞した北海道の医師を取りあげている。「広島版」では神石高原町で開業、同賞を受賞した広島大医卒の鈴木強(68)医師を大きく取りあげている。「岡山県水島協立病院」、「広島共立病院」という勤務歴を見れば、思想的傾向は明瞭である。「産経」の政治姿勢とは異なるはずだのに、報道しているのは立派だ。
何でも載せようとする地方紙の地方版と、精選したトピックスに絞って報じる全国紙との違いがよく出ている記事だ。
ボストン・ハーヴァード大学のシーナ・アエイエンガーは『選択の科学』(文藝春秋)で、「多すぎる商品の種類は却って合理的選択の可能性を減らす」と論じた。重み付けを編集者がしない情報の氾濫は、却って読者を混乱させる。
この3月にみすず書房からボストン・MITの教授 A.ペンドラント『正直シグナル』が柴田裕之訳で出版された。
「ソシオメーター」というICセンサーと携帯電話を組み合わせた装置を開発し、多数の人間の行動と選択・決定を測定した結果についての報告である。この結果は、「大多数の人間は正直でも、合理的に行動するわけでもない」ことを示している。つまり古典派経済学が自明としてきた「経済的人間は合理的にふるまう」という公理が否定されたわけだ。
哲学が仮定している「理性」も否定された。まだ読み終えていないが、「意思の自由」と「責任概念」を結びつけている法学や、回答者が正直に答えていることを前提とした社会統計や疫学統計、心理学などにも大きな問題を突きつけるだろう。
逆に複雑系における「人間社会学」の発展には、大きく貢献するにちがいない。
その理想(Idea)から「理想主義(Idealism)」が生まれ、「観念論(Ideology)」が生まれた。観念論がドイツ語化されたものが「イデオロギー(Ideologie)」で、用例はカール・マルクスの著『ドイツ・イデオロギー』に始まる。
それらを大本にさかのぼれば、プラトンの「イデア論」に帰着する。
日本では未だに「左派=良心派」、「右派=老獪派」と思っている人が多いようだが、政治的信条と倫理とは関係がない。
「産経」の記者が(免停中に)無免許運転でつかまったことは、すでにネットニュースで報じられた。3/25の同紙はこれをちゃんと第一社会面の通常記事で大きく報じている。ところが、地方紙は死亡記事が載る箇所に、1ポイント落とした活字で、小さく報じている。
地方紙の一面コラムは「キプロス財政危機」を話題にしている。ところが扱われている内容は、この新聞では報じられていない。「旅行客がキプロスに着いたものの、クレジットカードが使えず、ドルのユーロへの交換もできず困っている」という話だ。国際面には、「ニコシア・共同」のありきたり記事しかない。「産経」は首都ニコシア発大内清記者の記事として、銀行が閉鎖され両替ができず、ATMもカードも使えず、ドルで不要の買い物をして釣り銭をユーロでもらったことを伝えている。
キプロス島は第一次大戦後、英国の植民地になったが、1960年に独立して「キプロス共和国」となった。面積が四国の半部ほどしかない小さな島だ。ギリシア正教のマカリオス大主教が、独立運動指導したのを記憶している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/キプロス島
が、1974年になってトルコがトルコ系住民の独立運動を支持し、島の北1/3がトルコ系独立国「北キプロス・トルコ共和国」になった。(承認しているのはトルコだけ)。
キプロス島の南の人口は82万人、通貨はユーロ。北の人口は30万人、通貨はトルコ・リラ。首都はどちらもニコシアで、市街の北1/3に国境が走っている。
財政危機に陥っているのは「ユーロ圏」に属する南の「キプロス共和国」である。2紙ともその辺の解説がない。
それにしても、3/25夜のTVニュースによると、EUがキプロス共和国に対して日本円で1兆円の援助を行うという。国民1人あたり、1,220万円である。信じられない。「アベノミクス」と同様に、キャッシュがあるわけなく、ユーロ紙幣を増刷するわけだから、「ユーロ安、株安」が起きるだろう。株安はユーロ危機の連鎖反応への危惧からだ。
キプロス島はトルコ本土から目と鼻の先にあり、トルコは永年「EU加盟」を申請し、そのために死刑制度も廃止した。そのトルコはキプロス島の北部1/3につよい利権を有している。人口30万人のうち半数は本土からの出稼ぎだ。EUの財政構造上の欠陥を知り、トルコはEU加盟申請を取り下げるかもしれない。そうなるとこれまで抑制されていたイスラムの反キリスト教感情が台頭し、また「キプロス紛争」が起こるかもしれない。トルコの動きをメディアが報じないのは不可解だ。
自紙が報じていないニュースを素材に、コラムを書くのはルール違反である。地方紙の社説は、「共同」がひな型を配信し、それを基に書かれていることはすでに前に書いた。「産経抄」を35年間担当した石井英夫『コラムばか一代』(扶桑社文庫)によると、週に1回代わってもらうだけで、毎日書いたという。「天風録」は毎日、文体が違うから、日替わりで書いているのであろう。
新聞社には通信社から次々と外信が送られてくる。紙面にはその一部しか載せられない。その載らない記事を基にコラムを書かれても困る。
「産経抄」は「赤ひげ大賞」を受賞した北海道の医師を取りあげている。「広島版」では神石高原町で開業、同賞を受賞した広島大医卒の鈴木強(68)医師を大きく取りあげている。「岡山県水島協立病院」、「広島共立病院」という勤務歴を見れば、思想的傾向は明瞭である。「産経」の政治姿勢とは異なるはずだのに、報道しているのは立派だ。
何でも載せようとする地方紙の地方版と、精選したトピックスに絞って報じる全国紙との違いがよく出ている記事だ。
ボストン・ハーヴァード大学のシーナ・アエイエンガーは『選択の科学』(文藝春秋)で、「多すぎる商品の種類は却って合理的選択の可能性を減らす」と論じた。重み付けを編集者がしない情報の氾濫は、却って読者を混乱させる。
この3月にみすず書房からボストン・MITの教授 A.ペンドラント『正直シグナル』が柴田裕之訳で出版された。
「ソシオメーター」というICセンサーと携帯電話を組み合わせた装置を開発し、多数の人間の行動と選択・決定を測定した結果についての報告である。この結果は、「大多数の人間は正直でも、合理的に行動するわけでもない」ことを示している。つまり古典派経済学が自明としてきた「経済的人間は合理的にふるまう」という公理が否定されたわけだ。
哲学が仮定している「理性」も否定された。まだ読み終えていないが、「意思の自由」と「責任概念」を結びつけている法学や、回答者が正直に答えていることを前提とした社会統計や疫学統計、心理学などにも大きな問題を突きつけるだろう。
逆に複雑系における「人間社会学」の発展には、大きく貢献するにちがいない。
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