【テニオハドイツ語】1960年大学進学の私たちの世代は、ドイツ語と英語の移行期にあった医学を習った。語学教育が重視されていて、英語、ドイツ語が必修。ラテン語が選択必修だった。この語学重視カリキュラムはムダでなかったと思う。
後に、医学用語にはギリシア語もずいぶん入っていることを知り、ギリシア語は独学した。きっかけはNIHの仕事で長期滞在した、ミラノのホテルで、地下のバー(何しろ毎晩飲みに行った)にいたギリシア人のバーテンから、「医学用語はみなわかる。あれはほとんどギリシア語だから」と聞いたことだった。
1960年代の大学には教養部があり、入学は「医学部進学課程」だった。今は大学の制度が変わり、初めから「医学部」入学となり、多くの大学で「教養部」が廃止された。残っているのは東大教養学部くらいで、ここは「理科3類」(医学部)への進学は教養学部での成績により決まる「狭き門」だ。
「60年安保」で学生運動に熱中し、1年遅れで医学部に進学したが、解剖学名のラテン語と病名のギリシア語には悩まされた。腎臓はラテン語でRenというが、ギリシア語ではNephrosという。-itisを付けると「炎症」をあらわし、腎炎はnephritisとギリシア語でいう。肝臓はギリシア語heparで、肝炎はhepat-itisとこれもギリシア語。さらにドイツ語が幅を利かせていて、炎症をEntzundungという。英語ではインフラメーションInflamationとまことにややこしいが、大筋ではミラノのバーテン氏がいったとおりである。
教科書もまだ日本語には良いものがなく、ドイツ語か英語のものを使った。「指定教科書」なんてなかった。
肉眼解剖学はドイツ語、組織学は教師の浜教授が留学していたというBloom=Fawcettの英語教科書、病理学は飯島教授が留学していたフライブルグのFrantz Buechinerの「Lehrbuch der Allgemeine und Speziele Pathologie」とAndersonの英語教科書を使った。
教養課程のドイツ語はテキストが文学だったから、病理学教科書をドイツ語で読むのは、苦労だったのを記憶している。
その頃は、教師との日常会話にもドイツ語がボンボン出てきて、「それは右下にある」を「それはレヒト・ウンテンにある」などと先生がいう雰囲気だった。
産婦人科の田淵教授など、学生も加わっての病棟の総回診で、患者の腹をさわって「ウテルス、エトバス クライン ウントワイヒ」などといい、助手がそれをカルテにドイツ語で記録していた。「子宮はやや小さく軟らかい」という意味だ。
内科はもう英語が多かったが、まだそれ以外の科はドイツ語が主流で、カルテの記載は名詞と形容詞、副詞はドイツ語、文法は日本語だから、語順と前置詞が日本語で、それを「テニオハドイツ語」と呼んだ。
ドイツ語の川島教授が、医学進学課程のドイツ語の授業で、「私が病気になって入院したら、ドイツ語と英語はわかるから、カルテは読めないようにギリシア語で書いてくれ」と冗談めかして要望したことがある。その頃は「患者が知る権利」など、誰も要望していなかった。「知りたくない」が患者の本音だった。「お医者さんに、おまかせ」の時代だったのである。
12/10「アスキー」のサイトがGOOGLE NEWSで引っかかった。
http://ascii.jp/elem/000/000/849/849481/
何の気なしにのぞいたら、こんな見出しが出てきた。
<mSATAで初の1TB! SamsungがSSD「840 EVO mSATA」を発表>
記事中の「mSATA接続のSSD」という中心になる用語がわからない。
ネットでSSDを調べると、
http://e-words.jp/w/SSD.html
「Solid State Drive」の略号らしい。HDDの次ぎに来る外部メモリで、モータも回転ディスクも読み取りヘッドもないらしい。技術の進歩には驚かされる。
で、この文章をみて思い出したのが、昔の「テニオハドイツ語」だ。
アスキーの記事はさしずめ「テニオハ英語」だろう。
いま、アメリカのカルテは英語医学用語の略号で充ちている。それが日本にも普及して、SLEだのALSだのCOPDといった、略号が氾濫している。どうかすると医者でも正式の英語またはラテン語の病名をいえないくらいだ。
こうしてみると、いま、日本語の表記法はIT化が進行したせいで、一種の過渡期ないし激動期にあると思う。私見では横書きに移行して、多様な表記法を許せばよいだろうと思う。出版社は保守的で、いつまでも縦書きの本をつくるつもりらしい。
青木昌彦「私の履歴書;人生越境ゲーム」(日経新聞社, 2008)を読んで感心したのは、記述が過去を隠すことなく誠実であること、本文は縦書きだが、巻末に横書きで詳細な人名索引が載っていることだ。
60年安保闘争の最高指導者のひとりだった彼は、東大経済学部を出て経済学者になり「比較制度分析」という新領域を開拓した。今はハーヴァードの名誉教授だ。
市場、社会規範、国家制度などの諸制度を「総合的なかたまり」ととらえ、社会科学を統合しようという壮大な試みである。日本人初のノーベル経済学賞を受賞するのではないか、という下馬評もある。
誰かが先鞭をつけたら、いっせいに小説まで横書きになるような気がする。
後に、医学用語にはギリシア語もずいぶん入っていることを知り、ギリシア語は独学した。きっかけはNIHの仕事で長期滞在した、ミラノのホテルで、地下のバー(何しろ毎晩飲みに行った)にいたギリシア人のバーテンから、「医学用語はみなわかる。あれはほとんどギリシア語だから」と聞いたことだった。
1960年代の大学には教養部があり、入学は「医学部進学課程」だった。今は大学の制度が変わり、初めから「医学部」入学となり、多くの大学で「教養部」が廃止された。残っているのは東大教養学部くらいで、ここは「理科3類」(医学部)への進学は教養学部での成績により決まる「狭き門」だ。
「60年安保」で学生運動に熱中し、1年遅れで医学部に進学したが、解剖学名のラテン語と病名のギリシア語には悩まされた。腎臓はラテン語でRenというが、ギリシア語ではNephrosという。-itisを付けると「炎症」をあらわし、腎炎はnephritisとギリシア語でいう。肝臓はギリシア語heparで、肝炎はhepat-itisとこれもギリシア語。さらにドイツ語が幅を利かせていて、炎症をEntzundungという。英語ではインフラメーションInflamationとまことにややこしいが、大筋ではミラノのバーテン氏がいったとおりである。
教科書もまだ日本語には良いものがなく、ドイツ語か英語のものを使った。「指定教科書」なんてなかった。
肉眼解剖学はドイツ語、組織学は教師の浜教授が留学していたというBloom=Fawcettの英語教科書、病理学は飯島教授が留学していたフライブルグのFrantz Buechinerの「Lehrbuch der Allgemeine und Speziele Pathologie」とAndersonの英語教科書を使った。
教養課程のドイツ語はテキストが文学だったから、病理学教科書をドイツ語で読むのは、苦労だったのを記憶している。
その頃は、教師との日常会話にもドイツ語がボンボン出てきて、「それは右下にある」を「それはレヒト・ウンテンにある」などと先生がいう雰囲気だった。
産婦人科の田淵教授など、学生も加わっての病棟の総回診で、患者の腹をさわって「ウテルス、エトバス クライン ウントワイヒ」などといい、助手がそれをカルテにドイツ語で記録していた。「子宮はやや小さく軟らかい」という意味だ。
内科はもう英語が多かったが、まだそれ以外の科はドイツ語が主流で、カルテの記載は名詞と形容詞、副詞はドイツ語、文法は日本語だから、語順と前置詞が日本語で、それを「テニオハドイツ語」と呼んだ。
ドイツ語の川島教授が、医学進学課程のドイツ語の授業で、「私が病気になって入院したら、ドイツ語と英語はわかるから、カルテは読めないようにギリシア語で書いてくれ」と冗談めかして要望したことがある。その頃は「患者が知る権利」など、誰も要望していなかった。「知りたくない」が患者の本音だった。「お医者さんに、おまかせ」の時代だったのである。
12/10「アスキー」のサイトがGOOGLE NEWSで引っかかった。
http://ascii.jp/elem/000/000/849/849481/
何の気なしにのぞいたら、こんな見出しが出てきた。
<mSATAで初の1TB! SamsungがSSD「840 EVO mSATA」を発表>
記事中の「mSATA接続のSSD」という中心になる用語がわからない。
ネットでSSDを調べると、
http://e-words.jp/w/SSD.html
「Solid State Drive」の略号らしい。HDDの次ぎに来る外部メモリで、モータも回転ディスクも読み取りヘッドもないらしい。技術の進歩には驚かされる。
で、この文章をみて思い出したのが、昔の「テニオハドイツ語」だ。
アスキーの記事はさしずめ「テニオハ英語」だろう。
いま、アメリカのカルテは英語医学用語の略号で充ちている。それが日本にも普及して、SLEだのALSだのCOPDといった、略号が氾濫している。どうかすると医者でも正式の英語またはラテン語の病名をいえないくらいだ。
こうしてみると、いま、日本語の表記法はIT化が進行したせいで、一種の過渡期ないし激動期にあると思う。私見では横書きに移行して、多様な表記法を許せばよいだろうと思う。出版社は保守的で、いつまでも縦書きの本をつくるつもりらしい。
青木昌彦「私の履歴書;人生越境ゲーム」(日経新聞社, 2008)を読んで感心したのは、記述が過去を隠すことなく誠実であること、本文は縦書きだが、巻末に横書きで詳細な人名索引が載っていることだ。
60年安保闘争の最高指導者のひとりだった彼は、東大経済学部を出て経済学者になり「比較制度分析」という新領域を開拓した。今はハーヴァードの名誉教授だ。
市場、社会規範、国家制度などの諸制度を「総合的なかたまり」ととらえ、社会科学を統合しようという壮大な試みである。日本人初のノーベル経済学賞を受賞するのではないか、という下馬評もある。
誰かが先鞭をつけたら、いっせいに小説まで横書きになるような気がする。
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