【広島大について】 飯島宗一学長の時代に、広島大学は東広島市に百万坪のキャンパスを確保し、「医歯薬系」を除いて東広島市に移転した。キャンパスが広いので、建て増しの余裕はたっぷりある。「生物生産学部」は広い農場と漁業の実習船を持っている。理学部には高い山の上の天文台もある。
メインキャンパスは古代都市アテネとほぼ同じ広さで、キャンパス外壁の内側にある遊歩道を歩くとちょうど一里あり、1時間かかる。私の下で卒論の指導を受けたFという女子学生が、突然、進路変更して「医学部に行く」といい出して驚いたことがある。彼女に連れられて遊歩道を歩きながら、医師の生活について話したのが影響したようだ。
同級生が一浪して、神戸大学の医学部に進学したのも口惜しかったらしい。親友に裏切られたと思ったようだ。もう一人、これは教育学部の学生で、俳句をつくっていたのが、私のところに来て話し込んで、一念発起、山口大学医学部に入り直したのがいる。別に私が薦めたわけでないが、教師には定年があるが医者にはないというような話はしたかも知れない。
でそのF女子学生は、卒業後に、石川県にある私立医大を受け直し、内科医になったと風の便りに聞いた。
さて冒頭の記事に返る。第4パラグラフにある「京都府立医大病院長」とは日本臨床腎移植学会の理事長吉村了勇氏のことだ。国家公務員や地方公務員は刑法に触れる「傷害罪」に触れると認識したら告発の義務がある。同じことを日本移植学会理事長高原史郞氏(阪大寄付講座教授)が、「修復腎移植を理解する超党派議員の会」で発言したら、弁護士の代議士から同じことをいわれ、大恥をかいた。恫喝(どうかつ)すれば田舎病院だからいうことを聞くと思っていたらしい。
「寄付講座」とは国立大学が「独立法人」になって導入された制度で、寄付する製薬会社や医療法人が特定の人物を教授にできる。原則5年間の維持費を毎年分割払いする。「教授病」にかかった人がよく利用する手だ。外部の人には正規講座か寄付講座かはわからない。それで寄付金の不正利用などが起こりやすい。独法化後の大学の「解体新書」が必要だろう。
広島大にも医学部寄付講座で、「透析医療」の研究で教授になった医師がいた。(この講座はもうない。)
そもそも移植医のうち、死後に臓器提供するというカードに署名している人は10%くらいしかいない。これでは日本のドナー数は増えない。移植術のうちもっとも進歩しているのは「骨髄移植」だ。これは「ミニ移植」といって、患者本人の末梢血幹細胞を集めて、移植後にこれを注入すると移植した他人の骨髄がより長持ちする。(昔の病理学者、ことに教授は死後必ず病理解剖するように遺言していた。「呉共済病院初代院長」のR先生は遺言で、もう広島大教授になっていた私に病理解剖を遺命された。有徳の人で「呉共済病院七十五年史」を書く時に、もう引退しておられたR先生をご自宅にお訪ねし、古い話を聞いて、「臨床病理科」の前史を、司馬遼太郎風の文章で書いたら、当時の院長岡田先生が対抗心を燃やして原稿を全面的に書き直し、自分の内科の自慢話を沢山書き込んだので、「これは岡田内科史か」と外科系の医師が反発した。
呉共済病院の旧剖検室は、いやに剖検台の位置が高かった。それに建物がコンクリート製だった。不審に思っていたが、あれを作ったのは米軍で、今は広島市の比治山の上にある「放射線影響研究所(旧ABCC)」が空襲を受けなかった旧呉共済病院を接収して、ここを拠点としていた時代があることを前院長のR先生から聞いた。米軍側からの同じ話は後にNIHで疫学部のミラー先生からも聞いた。
世界は複雑系で、誰がどうつながっているかわからないものだ。
私の近所に現広島日赤の血液内科部長麻奧医師が、大竹国立病院血液内科部長時代に骨髄移植を受けた、Hさんという人がいるが、30年後の現在も元気で働いている。私が「医者を選ぶのも寿命のうち」という由縁だ。日赤はもともとナイチンゲール精神で開設されたもので、広島市郊外にある別の市には「日赤看護大学」まである。
麻奧部長は原医硏の血液内科出身で、先日の「中国セレクト」(「中国」が夕刊を廃止し、ある程度内容レベルを上げ、医療や厚生関係の解説記事を増やしたもの。本紙に折り込みで来る。)に書いていた。
「多発性骨髄腫」について、分かりやすい4本の解説記事(抗がん剤、自己幹細胞移植、治療を開始する時期、再発時の新薬)を寄せていた。
私はもともと「血液病理」が専門だけに、この病気についてはよく知っている。血液内科の看板を掲げている病院なら治る(寛解が持続する)率が高い。先進国では白血病、多発性骨髄腫、悪性リンパ腫はもっとも治りやすい血液のがんである。これは血液病の病理診断が国際的に統一され、国際誌での治療成績が比較できるようになったことが大きい。この領域は放置すれば致命的な病気であるために「ドラッグ・ラグ」(厚労省の認可が遅れること)はまず聞いたことがない。
昔は知恵のある人は、アメリカの薬を「並行輸入」(個人輸入)して理解ある主治医に投与してもらっていた。
麻奧先生は、日赤に血液内科ができてから3代目の部長だが、今後も「赤十字精神」にもとづいて、同科をますます発展されるよう期待したい。
同じく広島大「原医硏」の血液内科出身で教授退官後は、広島の被爆者の援護事業(老人ホームが主体)に携わられた、鎌田七男広島大名誉教授から「被ばく者医療に携わってー 医師鎌田七男16年の軌跡」(広島原爆被爆者援護事業団理事長退任記念誌刊行会、2017,3)の御贈呈を受けた。厚くお礼申し上げます。鎌田先生は50代になったとき、「何がなんでも親爺の死んだ年を超えて生きる」と言っておられたが、私より5級くらい上だから、とっくに82歳を超えられたと思う。最近の写真を見ると、男性ホルモン過剰型のはげ(額が上に富士山型にひろがるタイプ)になっておられるが、こういう人は長命で一生アクティブなことが多い。内科医だから健康管理には怠りないようだ。
こうして「地の塩」となり、被爆者の一生を見守る医師がヒロシマにはいることを知って頂きたいものだ。
「記事転載は事前にご連絡いただきますようお願いいたします」
メインキャンパスは古代都市アテネとほぼ同じ広さで、キャンパス外壁の内側にある遊歩道を歩くとちょうど一里あり、1時間かかる。私の下で卒論の指導を受けたFという女子学生が、突然、進路変更して「医学部に行く」といい出して驚いたことがある。彼女に連れられて遊歩道を歩きながら、医師の生活について話したのが影響したようだ。
同級生が一浪して、神戸大学の医学部に進学したのも口惜しかったらしい。親友に裏切られたと思ったようだ。もう一人、これは教育学部の学生で、俳句をつくっていたのが、私のところに来て話し込んで、一念発起、山口大学医学部に入り直したのがいる。別に私が薦めたわけでないが、教師には定年があるが医者にはないというような話はしたかも知れない。
でそのF女子学生は、卒業後に、石川県にある私立医大を受け直し、内科医になったと風の便りに聞いた。
さて冒頭の記事に返る。第4パラグラフにある「京都府立医大病院長」とは日本臨床腎移植学会の理事長吉村了勇氏のことだ。国家公務員や地方公務員は刑法に触れる「傷害罪」に触れると認識したら告発の義務がある。同じことを日本移植学会理事長高原史郞氏(阪大寄付講座教授)が、「修復腎移植を理解する超党派議員の会」で発言したら、弁護士の代議士から同じことをいわれ、大恥をかいた。恫喝(どうかつ)すれば田舎病院だからいうことを聞くと思っていたらしい。
「寄付講座」とは国立大学が「独立法人」になって導入された制度で、寄付する製薬会社や医療法人が特定の人物を教授にできる。原則5年間の維持費を毎年分割払いする。「教授病」にかかった人がよく利用する手だ。外部の人には正規講座か寄付講座かはわからない。それで寄付金の不正利用などが起こりやすい。独法化後の大学の「解体新書」が必要だろう。
広島大にも医学部寄付講座で、「透析医療」の研究で教授になった医師がいた。(この講座はもうない。)
そもそも移植医のうち、死後に臓器提供するというカードに署名している人は10%くらいしかいない。これでは日本のドナー数は増えない。移植術のうちもっとも進歩しているのは「骨髄移植」だ。これは「ミニ移植」といって、患者本人の末梢血幹細胞を集めて、移植後にこれを注入すると移植した他人の骨髄がより長持ちする。(昔の病理学者、ことに教授は死後必ず病理解剖するように遺言していた。「呉共済病院初代院長」のR先生は遺言で、もう広島大教授になっていた私に病理解剖を遺命された。有徳の人で「呉共済病院七十五年史」を書く時に、もう引退しておられたR先生をご自宅にお訪ねし、古い話を聞いて、「臨床病理科」の前史を、司馬遼太郎風の文章で書いたら、当時の院長岡田先生が対抗心を燃やして原稿を全面的に書き直し、自分の内科の自慢話を沢山書き込んだので、「これは岡田内科史か」と外科系の医師が反発した。
呉共済病院の旧剖検室は、いやに剖検台の位置が高かった。それに建物がコンクリート製だった。不審に思っていたが、あれを作ったのは米軍で、今は広島市の比治山の上にある「放射線影響研究所(旧ABCC)」が空襲を受けなかった旧呉共済病院を接収して、ここを拠点としていた時代があることを前院長のR先生から聞いた。米軍側からの同じ話は後にNIHで疫学部のミラー先生からも聞いた。
世界は複雑系で、誰がどうつながっているかわからないものだ。
私の近所に現広島日赤の血液内科部長麻奧医師が、大竹国立病院血液内科部長時代に骨髄移植を受けた、Hさんという人がいるが、30年後の現在も元気で働いている。私が「医者を選ぶのも寿命のうち」という由縁だ。日赤はもともとナイチンゲール精神で開設されたもので、広島市郊外にある別の市には「日赤看護大学」まである。
麻奧部長は原医硏の血液内科出身で、先日の「中国セレクト」(「中国」が夕刊を廃止し、ある程度内容レベルを上げ、医療や厚生関係の解説記事を増やしたもの。本紙に折り込みで来る。)に書いていた。
「多発性骨髄腫」について、分かりやすい4本の解説記事(抗がん剤、自己幹細胞移植、治療を開始する時期、再発時の新薬)を寄せていた。
私はもともと「血液病理」が専門だけに、この病気についてはよく知っている。血液内科の看板を掲げている病院なら治る(寛解が持続する)率が高い。先進国では白血病、多発性骨髄腫、悪性リンパ腫はもっとも治りやすい血液のがんである。これは血液病の病理診断が国際的に統一され、国際誌での治療成績が比較できるようになったことが大きい。この領域は放置すれば致命的な病気であるために「ドラッグ・ラグ」(厚労省の認可が遅れること)はまず聞いたことがない。
昔は知恵のある人は、アメリカの薬を「並行輸入」(個人輸入)して理解ある主治医に投与してもらっていた。
麻奧先生は、日赤に血液内科ができてから3代目の部長だが、今後も「赤十字精神」にもとづいて、同科をますます発展されるよう期待したい。
同じく広島大「原医硏」の血液内科出身で教授退官後は、広島の被爆者の援護事業(老人ホームが主体)に携わられた、鎌田七男広島大名誉教授から「被ばく者医療に携わってー 医師鎌田七男16年の軌跡」(広島原爆被爆者援護事業団理事長退任記念誌刊行会、2017,3)の御贈呈を受けた。厚くお礼申し上げます。鎌田先生は50代になったとき、「何がなんでも親爺の死んだ年を超えて生きる」と言っておられたが、私より5級くらい上だから、とっくに82歳を超えられたと思う。最近の写真を見ると、男性ホルモン過剰型のはげ(額が上に富士山型にひろがるタイプ)になっておられるが、こういう人は長命で一生アクティブなことが多い。内科医だから健康管理には怠りないようだ。
こうして「地の塩」となり、被爆者の一生を見守る医師がヒロシマにはいることを知って頂きたいものだ。
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