【減数手術】内村鑑三の弟子で、クリスチャンの作家有島武郎に『生まれ出ずる悩み』(1918)がある。この世に生まれてきたのが本当に良かったのか?誰でも一度は自らに問うことのある疑問だ。旧約聖書「伝道の書」には、「死者はなお生きているものよりも幸いである。この両者よりも幸いなのは、まだ生まれないもので、日の下に行われる悪しきわざを見ないものである」と書かれている。
有島はこの文句を意識していたであろう。
芥川龍之介『河童』(1927)では、カッパの世界のお産が描かれている。分娩時期が来た産婦の陰門に向かって胎児の父親が大声で、「お前は本当に生まれてきたいか?」と問いかける。するとカッパの胎児は「生まれたくありません。お父さんのもつ病気の遺伝だけでも大変だし、カッパ的存在を僕は悪いと思っていますから」と答える。
それを聞いた側の産婆は、ただちにガラス管を取りあげると、子宮内に薬液を注入して胎児を溶かしてしまう。
初期の不妊治療では、排卵誘発剤を注射して、卵巣から多数の卵子を放出させたので、多胎妊娠が普通だった。NHK職員山下さんに鹿児島市立病院で日本初の「五つ子」が誕生したのは、1976年のことだ。今は5人とも無事に育ち、社会人になっているらしいが、両親は育児が大変だったろう。
その後、五つ子は生まれなくなった。親の負担が大変だから、子宮内で育つ胎児を間引く「減胎手術」が普及したからである。たいてい、発育の悪い、障害のありそうな胎児が間引かれた。
さらに生殖医学の技術は進歩し、採卵後試験管内で受精し、受精卵を子宮に植えるようになった。これだと植える受精卵の数をコントロールできる。しかし、一般に知られていない事実だが、自然妊娠において、受精後にうまく子宮に着床し、妊娠3ヶ月という臓器形成期を超えて発育できるのは、全受精卵の5%にも満たない。後はみな死滅し、吸収されてしまう。生まれるまでの、自然のハードルはそれだけ高い。
例えば受精はしたが、その後の細胞分裂ができないほど、大きな染色体異常があれば、受精卵自体が死滅する。胎盤形成能がなければ、月経として流れてしまう。心臓が形成されなくても同様だ。風疹感染後に生まれる心奇形児は、せいぜい弁の異常とか心室中隔欠損のような軽いものだけだ。無脳児は生まれても、無肝臓や無腎臓の胎児は生まれない。
つまり子宮という環境自体が、生理学的に「胎児選別機構」なのである。独立して空気呼吸をし、肺からの酸素を全身に送り、老廃物を呼気や血液から排出できないような個体は、自然的に「間引かれる」のである。
今、受精卵が8細胞期まで分裂した後で、1個の細胞を採取し、遺伝子診断をして、主な遺伝子に異常がないことを確かめて、その胚を子宮に戻せば、不妊治療の成功率が高く、単卵でも健常児の出生に至る可能性が出て来た。
しかし実際は、2万7000個のヒト遺伝子、ことに高次機能を担う調節遺伝子のチェックまでするのは不可能だから、複数の受精卵を植えることになる。よって多胎妊娠と「減胎手術」({減数手術」とも)問題を原理的に解決する方法はまだない。
前にも書いた、日本の女性不妊治療のパイオニア根津八紘先生の「減胎手術例数」が1000例を突破したそうだ。8/8に別府で開かれる「日本受精着床学会」の一般講演で成績が発表される。腎移植1000例達成の万波さんの向うを張ったのか、「1001例」というのが面白い。
この発表について、「毎日」、「産経」、「中国」の8/6付報道を読んだ。いずれも「根津医師が、減数手術を36件行っていたことが、5日わかった」と記述している。基本記事の内容が同じで、後は関係者取材(どの社も座長の矢野哲医師に取材していない)を付加したもので、これは典型的な「記者クラブ情報」(厚労省?、学会?)である。
しかし、この発表についてはすでに6月に、同学会のHPで告示されていた。(添付プログラムはそこから、コピーしたものだ)
「産経」によると、(恐らく学会抄録からと思われるが)、36件はいずれも重い染色体異常や胎児水腫という重病があり、親が「減数手術が受けられないなら、すべての胎児を中絶する」との意向だったので、親の希望に従って「一人でも胎児を助けたい」と思ってやった、という根津医師の意見を報じている。
36例中25例は、21番染色体が3本ある(21トリソミー)ダウン症である。これは1000例に1例生まれる、もっとも頻度の高い重症染色体異常だ。高齢出産に多く、繰り返す頻度も高い。45歳以上の女性だと25例に1例と高率に生まれる。
もともと不妊治療は高齢女性を対象として行われる。ダウン症の原因は卵巣に蓄えられた卵子が、「賞味期限切れ」となり、遺伝子異常があるのに、それを受精に使うからだ。減数分裂の際に、21番染色体が完全分離しないまま、精子と合体するから、染色体が3本となる。余分な染色体が母親由来であることは証明されている。
「産経」と「中国」は「いのちの選別につながりかねない」と報道している。
しかし、もともと「母体保護法」(旧優生保護法)はいのちの選別を経済的理由等で認めた法律である。2001年に現行「母体保護法」に改正されて後も、「経済的理由による人工中絶」は法第14条第1項によって認められている。
法に「減胎(減数)手術禁止」の規定がないことは、この方法は「人工中絶方法」の一種にすぎず、コモンローの立場からすれば合法である。大陸法では役人の解釈に依存しているから違法となるかもしれないが、母体保護法は英米法の系統に属する。
いのちの選別は倫理の問題。母体保護法に「減数手術」が書き上げられるのは法律の問題。
法が認めていても、倫理的に悪であることもある。その場合、必要になるのは法を正すことだ。
倫理と法律を混同した議論はいい加減にやめてもらいたい。
残念ながら人間は芥川のカッパのように、胎児の意思を聞いた上で、「生むべきか、生まざるべきか」を決めることができない。親が決めるしかなかろう。
唯一つはっきりしているのは、ダウン症の子を産んだ夫婦で、第二子もダウン症だった(その確率は1/25ある)という夫婦がいないことである。これはダウン症協会に確かめたらよい。多くの夫婦は、ダウン症の子の世話だけで手一杯で、それ以上子供をつくらない。作っても出生前診断を受け、健常児であることを確認して生んでいる。それでも自分たちの死後、子供がどうなるかを心配している。つまりダウン症の家族が「いのちの選別」をしているのが、現実だ。
根津医師を「異端=悪」とでも言いたげに報じるメディアに、記者の無知と学会の嫉妬を感じるのは私だけだろうか?
「病気腎移植(修復腎移植)」にも臓器移植法に抵触する点は何もなかった。ドナーの手術は正常の腎摘出術として、保険請求してあり、レシピエントへの移植術には「臓器採取料」は請求してなかった。しかも、病気腎を移植に使用してよいという確認まで社会保険庁から取ってあった。うろたえた移植学会の「後だしジャンケン」で否定されたにすぎない。
マスメディアも少しは学習効果を示したらどうだ。
有島はこの文句を意識していたであろう。
芥川龍之介『河童』(1927)では、カッパの世界のお産が描かれている。分娩時期が来た産婦の陰門に向かって胎児の父親が大声で、「お前は本当に生まれてきたいか?」と問いかける。するとカッパの胎児は「生まれたくありません。お父さんのもつ病気の遺伝だけでも大変だし、カッパ的存在を僕は悪いと思っていますから」と答える。
それを聞いた側の産婆は、ただちにガラス管を取りあげると、子宮内に薬液を注入して胎児を溶かしてしまう。
初期の不妊治療では、排卵誘発剤を注射して、卵巣から多数の卵子を放出させたので、多胎妊娠が普通だった。NHK職員山下さんに鹿児島市立病院で日本初の「五つ子」が誕生したのは、1976年のことだ。今は5人とも無事に育ち、社会人になっているらしいが、両親は育児が大変だったろう。
その後、五つ子は生まれなくなった。親の負担が大変だから、子宮内で育つ胎児を間引く「減胎手術」が普及したからである。たいてい、発育の悪い、障害のありそうな胎児が間引かれた。
さらに生殖医学の技術は進歩し、採卵後試験管内で受精し、受精卵を子宮に植えるようになった。これだと植える受精卵の数をコントロールできる。しかし、一般に知られていない事実だが、自然妊娠において、受精後にうまく子宮に着床し、妊娠3ヶ月という臓器形成期を超えて発育できるのは、全受精卵の5%にも満たない。後はみな死滅し、吸収されてしまう。生まれるまでの、自然のハードルはそれだけ高い。
例えば受精はしたが、その後の細胞分裂ができないほど、大きな染色体異常があれば、受精卵自体が死滅する。胎盤形成能がなければ、月経として流れてしまう。心臓が形成されなくても同様だ。風疹感染後に生まれる心奇形児は、せいぜい弁の異常とか心室中隔欠損のような軽いものだけだ。無脳児は生まれても、無肝臓や無腎臓の胎児は生まれない。
つまり子宮という環境自体が、生理学的に「胎児選別機構」なのである。独立して空気呼吸をし、肺からの酸素を全身に送り、老廃物を呼気や血液から排出できないような個体は、自然的に「間引かれる」のである。
今、受精卵が8細胞期まで分裂した後で、1個の細胞を採取し、遺伝子診断をして、主な遺伝子に異常がないことを確かめて、その胚を子宮に戻せば、不妊治療の成功率が高く、単卵でも健常児の出生に至る可能性が出て来た。
しかし実際は、2万7000個のヒト遺伝子、ことに高次機能を担う調節遺伝子のチェックまでするのは不可能だから、複数の受精卵を植えることになる。よって多胎妊娠と「減胎手術」({減数手術」とも)問題を原理的に解決する方法はまだない。
前にも書いた、日本の女性不妊治療のパイオニア根津八紘先生の「減胎手術例数」が1000例を突破したそうだ。8/8に別府で開かれる「日本受精着床学会」の一般講演で成績が発表される。腎移植1000例達成の万波さんの向うを張ったのか、「1001例」というのが面白い。
この発表について、「毎日」、「産経」、「中国」の8/6付報道を読んだ。いずれも「根津医師が、減数手術を36件行っていたことが、5日わかった」と記述している。基本記事の内容が同じで、後は関係者取材(どの社も座長の矢野哲医師に取材していない)を付加したもので、これは典型的な「記者クラブ情報」(厚労省?、学会?)である。
しかし、この発表についてはすでに6月に、同学会のHPで告示されていた。(添付プログラムはそこから、コピーしたものだ)

「産経」によると、(恐らく学会抄録からと思われるが)、36件はいずれも重い染色体異常や胎児水腫という重病があり、親が「減数手術が受けられないなら、すべての胎児を中絶する」との意向だったので、親の希望に従って「一人でも胎児を助けたい」と思ってやった、という根津医師の意見を報じている。
36例中25例は、21番染色体が3本ある(21トリソミー)ダウン症である。これは1000例に1例生まれる、もっとも頻度の高い重症染色体異常だ。高齢出産に多く、繰り返す頻度も高い。45歳以上の女性だと25例に1例と高率に生まれる。
もともと不妊治療は高齢女性を対象として行われる。ダウン症の原因は卵巣に蓄えられた卵子が、「賞味期限切れ」となり、遺伝子異常があるのに、それを受精に使うからだ。減数分裂の際に、21番染色体が完全分離しないまま、精子と合体するから、染色体が3本となる。余分な染色体が母親由来であることは証明されている。
「産経」と「中国」は「いのちの選別につながりかねない」と報道している。
しかし、もともと「母体保護法」(旧優生保護法)はいのちの選別を経済的理由等で認めた法律である。2001年に現行「母体保護法」に改正されて後も、「経済的理由による人工中絶」は法第14条第1項によって認められている。
法に「減胎(減数)手術禁止」の規定がないことは、この方法は「人工中絶方法」の一種にすぎず、コモンローの立場からすれば合法である。大陸法では役人の解釈に依存しているから違法となるかもしれないが、母体保護法は英米法の系統に属する。
いのちの選別は倫理の問題。母体保護法に「減数手術」が書き上げられるのは法律の問題。
法が認めていても、倫理的に悪であることもある。その場合、必要になるのは法を正すことだ。
倫理と法律を混同した議論はいい加減にやめてもらいたい。
残念ながら人間は芥川のカッパのように、胎児の意思を聞いた上で、「生むべきか、生まざるべきか」を決めることができない。親が決めるしかなかろう。
唯一つはっきりしているのは、ダウン症の子を産んだ夫婦で、第二子もダウン症だった(その確率は1/25ある)という夫婦がいないことである。これはダウン症協会に確かめたらよい。多くの夫婦は、ダウン症の子の世話だけで手一杯で、それ以上子供をつくらない。作っても出生前診断を受け、健常児であることを確認して生んでいる。それでも自分たちの死後、子供がどうなるかを心配している。つまりダウン症の家族が「いのちの選別」をしているのが、現実だ。
根津医師を「異端=悪」とでも言いたげに報じるメディアに、記者の無知と学会の嫉妬を感じるのは私だけだろうか?
「病気腎移植(修復腎移植)」にも臓器移植法に抵触する点は何もなかった。ドナーの手術は正常の腎摘出術として、保険請求してあり、レシピエントへの移植術には「臓器採取料」は請求してなかった。しかも、病気腎を移植に使用してよいという確認まで社会保険庁から取ってあった。うろたえた移植学会の「後だしジャンケン」で否定されたにすぎない。
マスメディアも少しは学習効果を示したらどうだ。
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