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【Philosophiaとmetaphysika】難波先生より

2015-01-29 12:44:13 | 難波紘二先生
【Philosophiaとmetaphysika】
哲学と形而上学がらみ用語の語源について、福山のS先生からいろいろご指摘を受けた。
孔子が編纂したとされる『周易経』が密接な関係をもっているようだ。
 新井白石が『西洋紀聞』で宣教師を尋問し、「西洋の学は形而下のことばかりで、形而上のことがない」と批判しているが、この「形而上、形而下」は『易経』(岩波文庫)「周易繋辞上伝」の「是故形而上者謂之道(故に形而上とは道の意味)、形而下者謂器(形而下とは器を謂う)」を踏まえていることは明らかである。
 
 他方、福沢諭吉は『福翁自伝』(岩波文庫)において、大阪の緒方洪庵「適塾」での修業時代にふれて、「緒方の塾は医学塾であるから医書窮理書の外についぞそんな原書(築城書)を見たこともない」と述べている。同じ本の別な箇所では「緒方の塾の蔵書というものは物理書と医書とこの二種類の外になにもない」とも書いている。
 ここでは窮理書と物理書が同義に用いられている。これは「物事の理を研究する、究める」ということで、現在の物理学とは異なると思われる。
 で、この「窮理」という言葉も『易経』「周易説卦伝」にある「窮理盡性以至於命(窮理性を尽くしもって命に至る)」に由来することは、中江兆民『理学鉤玄』(岩波書店)に「<フィロゾフィー>はギリシア語にして世あるいは訳して哲学と為す。もとより不可なし。余はすなわち『易経』窮理の語に拠りさらに訳して理学と為すも、意はすなわち相同じ」という記載から明らかである。
 だが、「緒方の塾」には化学や解剖学や物理学の本はあったが、今の「哲学書」があったかどうか…。
 福沢は明治元(1868)年、『窮理図解』という一般向けの科学書を出しており、この「窮理」という用語は明治4年の仮名垣魯文『安愚楽鍋』(岩波文庫)に牛鍋を食う男のセリフに出てくる。
 「(肉食が悪いと)わからねえヤボをいうのは、窮理学を弁えねえからの、ことでげス。そんなやつに福沢の著いた肉食の説でも読ませてえネ。」
 この『窮理図解』は未見だが、魯文の筆致からは絵入りで肉食が滋養になることも書かれていた、医学生理学の要点解説書ではないかと思われる。

 Philosophiaという言葉は、ソクラテスが当時流行のソフィスト(Sophist=知識のある人)と呼ばれたのについて 「私は知恵(Sophia)を愛する(philia)ものだ」と答えたことに由来するとされる。
 Philosophyを「哲学」と翻訳したのはオランダに留学して国際法を学び「万国公法」を出版した津和野出身の医師、西周で明治6年の『生性発薀』が哲学の初出という(原著、未確認)。当初は原義どおり「希哲学」と訳していたが、のちに「哲学」と短縮されたという。(『新明解語源辞典』)
 明治10/4、東大が設立され、文学部第一科「史学・哲学及び政治学科」が発足している。
 明治13年、ドイツへ「哲学」を勉強しに留学していた井上哲次郎が帰国し、日本最初の「哲学教授」に就任した。その翌年、
 明治14/4、哲学科が独立科となっている。この年、井上は『哲学字彙』という用語辞典を刊行している。ここで井上はPhilosophyに「哲学」という日本語をあて、Scienceを「科学、理学」としたという。これが文学部と理学部の誕生であろう。
 明治17/1には井上哲次郎が中心になり、井上円了、有賀長雄、三宅雄二郎(雪嶺)らが参加して日本最初の「哲学会」が結成されている。
 「哲学、窮理学、理学」を同じ意味だということを述べた中江兆民『理学鉤玄』の刊行は上述の通り明治19年6月である。しかしこの時、兆民推薦の「理学」に先だって「哲学」の呼称が流布していたことは、彼が述べている通りである。
 五十音順の大槻文彦『言海』の第四分冊(ツからモまで)は明治24年刊で、
「哲学」は「無形理学、心理学、性理学、修身学などの総称」として説明されている。(ちくま学芸文庫)
 これを要するに明治元年頃「窮理学」と呼ばれた哲学は、性理学、無形理学などとも呼ばれながら、東大「哲学科」の発足をもって次第に「哲学」と呼ばれることが多くなり、明治10年代後半には「哲学」と呼ばれるのが一般化したものであろう。
 以上、「哲学」の来歴については、あらましがはっきりしたが、「metaphysika=形而上学」のいきさつはなお得心の行く説明に接しない。以下、目下知りえた範囲を記す。

 アリストテレス『形而上学』(岩波書店)にある原題は”Ta Meta ta Physika”であり、taは英語の定冠詞theに相当する。英訳すれば「The Posterior (to) the Physika」となろうか。
 フィジカは医学を含む「自然学」の意味であり、「その後に来るもの」とは、現象の観察・実験を通して得られたデータ・資料の分析・解釈による理論化、法則の抽出である。
 これが本来の「メタフィジカ」であった。以後、誰が短縮名のMetaphysika (metaphysica)を用いたのかは定かでない。
この言葉が最初に確認できるのは、1686年のライプニッツ『形而上学序説 (Discours de Metaphysique)』においてである。

 カントは『純粋理性批判』(1781)において、「かつては形而上学が諸学の女王と称された時代があった。…ところが現代では、形而上学にあらゆる軽蔑をあからさまに示すのが時代の流行になってしまった」(岩波文庫)と述べている。
 しかし、最晩年の著作『すべての形而上学への序説 (Prolegomena zu einer jedem Kuenftigen Metaphysik)(1783)においては、存在論 (ontologia)を形而上学の「総論」と位置づけ、神学、宇宙論、心理学の三つを「各論」として位置づけて、「序説」を構成している。

 ドイツ観念論哲学を日本に輸入したのが東大の井上哲次郎だから、<ちなみに,“metaphysics”を「形而上学」と翻訳したのは,井上哲次郎ですね。>という、S先生のご指摘はその通りであろうと思う。『哲学字彙』の中に含まれていたのであろう。
 いや、いろいろご教示ありがとうございました。お礼申し上げます。

 なお英語の通俗哲学解説書、W.Buckingham et al. ed.: ”The Philosophy Book”, DK, 2011のMetaphysics「用語解説」によると「存在するものの究極的な性質を扱う哲学の一分野。自然界を外部世界から問題にし、その疑問は科学によっては解くことができない」と説明されている。
 分野としての形而上学を研究した哲学者には、トマス・アキナス、ホッブス、バークレイ、スピノザ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、キルケゴールなどが挙げられている。
 こうしてみると、産業革命以前の英国では形而上学も盛んであったわけだ。
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