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阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【Great】難波先生より

2013-04-23 12:17:16 | 難波紘二先生
【Great】「偉大なギャッツビー」という新刊書の広告を見かけた。レオナルド・デカプリオ主演の同名映画が近く公開されるのに合わせたものらしい。
 アメリカの作家フィッツジェラルド(F.Scott Fitzgerald:1894-1940) の小説「The Great Gatsby」(1925) は1974年に映画化され、日本では「華麗なるギャッツビー」として、公開されている。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/華麗なるギャツビー


 脚本をF.コッポラとウラジミール・ナボコフが共同で書き、主人公のギャッツビーをロバート・レッドフォードが演じたが、監督がダメだったのか、映画はあまり面白くなかった。
 女に振られた主人公がビジネスで大成功し、豪邸を構え、大パーティをしょっちゅう開き、沢山の客を招待して、何とか元の女を引き戻そうとする話だ。むしろ物語の語り手になる新聞記者の演技が印象に残った。
 (原作には、しがない証券マン=語り手が、高級住宅地でギャッツビーの隣に住む、という構成上の不自然さがある。)
 
 70年代の日本では「華麗なる」という形容語が流行した。日本経済が公害問題を生み出したものの、引き続き成長を続けるなかで、関西の銀行業を舞台に上流社会の内幕を描いた山崎豊子『華麗なる一族』という長編小説が、語源であろう。


 が、映画のタイトルGreatを「華麗なる」と訳したのはいかがなものか。Greatという言葉はナサニエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne) の「The Great Stone Face」(1889)にも使われている。日本の70年代は石油危機やニクソン・ショックがあったが、それを乗り越えて経済が成長し、80年代の日米貿易摩擦につながる。全体としては好景気だった。


 今はまだ不況だからGreatを「偉大な」と訳すのか? なんで「グレート・ギャッツビー」ではいけないのだろう。
ホーソンの上記の短編は「大きい石の顔」と訳されている。


 (岩波文庫『ホーソーン短編小説集』, 1993に収録。但し訳文は原作がもっている感動性がなく下手。「大いなる岩の顔」とタイトルを訳している。これはウィリアム・ワイラー監督の映画「The Big Country」(1958)が日本で「大いなる西部」として公開され、ヒットしたのに影響されたものだろう。それにしてもホーソンでよいのに、わざわざ音引きしてホーソーンとするとは。
 私はエクセルで蔵書目録を作っているが、PCだと一字違っても検索で引っかからなくなる。だからタイトルを「ホーソン」に直して入力してある。出版社はぜひ標準となる人名辞典を作り、外国人名の標記を統一してもらいたいものだ。


 Websterの「人名辞典」には、巻末に「人名発音表」が付いていて、同じスペルでも国ごとに発音が違うことが書いてある。例えばChritianというスペルの人名は、英語ではクリスチャンだが、デンマークではクリスティアン、フランスではクリスティアヌと最後が鼻音になる。ドイツ語、ノルウェイ語、オランダ語では、aが長母音になり、アクセントがここに来ることが明示されている。
 こういう辞書が日本にないのは恥だと思う。)


 英語(米語)のThe Greatには「大物」という意味もある。ピョートル大帝はPeter the Greatという。日本語の「大君」(徳川将軍)がtycoonという英語になり、インドを征服したイスラムのムガール(Mughal)が英語のmogulとして、同じような意味になっている。どちらも「大立て者」を意味する、やや否定的なニュアンスで用いられる。The Greatは「偉人」という意味だけではない。


 ホーソンのGreatがFaceにかかることは、アメリカ建国の父たちの顔が実際に中西部の岩山に刻まれている事実と、物語の構成から明らかだ。定冠詞Theを使用していることも説明がつく。しかしフィッツジェラルドの場合、タイトルのTheは「The Great, Gatsby」の意味でGreatにかかり、「大物ギャッツビー」という意味ではなかろうか? 「Gatsby The Great」としていれば、あいまいさは避けられたと思うが、作者がそうしなかった理由は私にはわからない。(このあたりは英文学の専門家か、米国に住んでいる方々のご意見をお聞きしたいと思う。)


 いずれにせよレイチェル・カーソン(Rachel Carson)の「Silent Spring」(これはタイトルに定冠詞がない)が「生と死の妙薬」、「沈黙の春」と二つのタイトルで邦訳されたのと同じことで、好ましくないと思う。日本語WIKIをみると、「グレート・ギャッツビー」、「華麗なるギャツッビー」、「偉大なるギャッツビー」がすでにあり、これに「偉大なギャッツビー」が今度、集英社から加わるというアホらしさだ。
 日本人だけ脳細胞の数が多いわけじゃないんだから、いい加減にしてほしい。初めから「ザ・グレート・ギャッツビー」と音訳しておけば、英語でしゃべるときに定冠詞を落として恥をかかないですむだろうに…


「クリミア戦争」のことを調べようと、岩波文庫の中村白葉訳、トルストイ(Leo Tolstoy)『セヷストーポリ』をめくった。「岩波文庫創刊80周年記念」として2007/2に復刊されたもので、初版1954年とある。ちょっとおかしい。
 というのは、Sevastopolの標記が「セヷストーポリ」となり、人名のServyaginが「セルヸャーギン」となり、民族名のSlavが「スラヴ」と標記されており、同じV音なのに標記に違いがあることだ。
 戦後間もなく行われた「国字改革」で、「ヸ、ヷ、ヺ」のようなカタカナは禁止されたはずだ。私はロシア語は読めないが、ロシア文字は「キリル文字」由来で、ギリシア・アルファベットと似ているから部分的になら読める。
 原題を見ると「Cebactoπorbckie」とある。「Ba」という綴りが「ヷ」、「vya」が「ヴャ」、「v」が「ヴ」と分けて標記されている。


 同じ訳者によるトルストイの『イワンのばか・他8篇』(岩波文庫, 1932/9初版) は、Ivanが「イワン」になっている。1966年に改版されているから、その時に変えられたのであろうか。昔は「イヴァン」が普通だったと記憶する。「イヷン」という標記もあった。同じく『人はなんで生きるか』は1932年9月初版で、1965年7月に改版されている。
 中村白葉(1890~1974)は東京外国語学校(現東京外大)でロシア語を専攻し、翻訳家として活躍した。「チェホフ全集」、「トルストイ全集」の訳業がある。
 『イワン』と『人は』の改版は白葉がチェックしており、漢字がすべて新字体になり、文章もアップデートされている。
 ところが『セヷストーポリ』は1954年初版となっているのに、印刷は写真復刻のように汚い。しかし仮名づかいは、本文、解説ともに、現代のものになっている。驚いたことに、漢字は本文、解説ともに旧字体で「獨立」、「戰争」、「髣髴」、「傳令」というような文字が出てくる。
 1年前の1953年8月に出た岩波文庫、トーマス・ペイン『コモン・センス』を見ると、訳者小松春雄は「新仮名づかい・新漢字」で本文、解説を書いている。同じ出版社で同じ編集部が出した本なのに、どうしてこうも違うのか? 不思議である。
 ちなみに『コモン・センス』は印刷「「理想社」、製本「田中製本」となっており、『セヷストーポリ』は印刷所は同じ、製本が「中永製本」となっているから、「新活字がなかった」ということはない。


 『岩波文庫解説総目録 1927~1996』(岩波文庫, 1997)には1927年以来の刊行文庫目録が掲載されている。これをみていて、面白い事実を「発見」した。
 中村白葉訳「イワンのばか」は昭和7(1932)年、初版の時は『イワンの馬鹿・他八篇』で全9話を含んでいた。同時に刊行された『人はなんで生きるか・他四篇』は全5話だった。ところが白葉は昭和13(1938)年6月の改訂で、1話を抜いて、タイトルを『人は何で生きるか・他三篇』と変えた。だから新刊扱いになり、目録にも残っている。昭和15(1940)8月には「イワン」を改訂し、『イワンの馬鹿・他九篇』とこれもタイトルを変えた。前に抜いた「二老人」の話を冒頭においたので全10話になった。(おそらくこの話は「二老人」だったと推定されるが、原本がないので断定はしない。)


 こういう推定がなり立つ理由は、昭和40(1965)年の改訂版『人はなんで生きるか』は「他四編」に変わっていて、巻末に「二老人」という話があり、著者が解説末尾に「旧版では『イワンの馬鹿』の冒頭にあったのをここに移した」と述べているからだ。「旧版」というのは昭和15年版のことである。
 翌1966/4に出た『イワンのばか』の改訂版ではこの話が抜けているので、「他八篇」とタイトルが変わっている。また新本扱いである。まあ、手を変え品を変え、読者をだまして生きてきたわけだ。
 この『解説目録(全三冊)』には邦訳タイトルだけでなく、原語タイトルが載っていて参考になる。例えば河野与一が薄い文庫12冊に訳している。プルタルコス「英雄伝」はギリシア語の原題が、「Bioi Paralleloi」(英語でThe Parallel Lives: 「並行した人生」の意)で「対比列伝」と訳すのが正しい。これは実際にはギリシア語からの訳ではなく、独訳からの重訳である。(岩波文庫は重訳を採用しないはずなのに…)
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