【江田島殺人事件】中国人「研修生」による水産会社社長殺し及び従業員の殺傷事件について、J-CASTが少し詳しく伝えている。地元紙の報道はおざなりだ。
http://www.j-cast.com/tv/2013/03/15169712.html?p=all
殺傷された従業員の年齢を見ると若い人がいないから、この中国人は「技術を教える」友好目的で雇われたのではなく、安い賃金で使える単純労働力としてしか見なされていなかったのであろう。ある新聞は故人の社長について「おとこぎがあった」という知人の表現を伝えているが、「おとこぎ」が「俠気」の意味なら「ヤクザ的」だし、「男気」の意味なら正義感が強く反権威主義だったという意味になる。あいまいな言葉をそのまま伝えてはいけない。何のための取材か。
同じような事件は何度も繰り返されている。岐阜では零細織物業者が衰退する過程で、同じように中国人労働者を受け入れた。
その前には、バーやキャバレーで働く若い女の子が不足してきて、フィリピンから出稼ぎを連れてきていた。背後には暴力団組織があったから、「おとこぎ」のあった死んだ社長が、容疑者を雇用するにあたって、どういうルートで受け入れたのかを調べる必要があろう。広島の暴力団はいまは完全に山口組の下部団体になっているはずだ。米国からも犯罪シンジケート認定されている、日本の三大暴力団のひとつである。
容疑者は昨年9月にこの会社の研修生としてやって来たという。昨年の8~9月は尖閣諸島問題をめぐって反日暴動が起き、われわれは身の危険を感じて中国旅行を中止した。あの最中に雇い雇われたのだから、双方ともに自分のことしか眼中になかったのだろう。いまは、「広島県江田島市江田島町」となっているから、広島市と同じような陸地の都市だと思って来たのかもしれない。人口およそ2万5000人で、市域の人口は40年間に半減している。海上自衛隊の術科学校(旧海軍兵学校)があるから、かろうじて市としての人口が保たれている。勤め人の多くはフェリーで広島市にかよっている。容疑者はカキ打ち工場の二階にすんでいたが、付近にはバーも飲み屋もない。遊ぶところもない。
だいたい、外国暮らしを始めると、最初は何もかも目新しく素晴らしく見える。この期間は人により異なるがほぼ6ヶ月くらい続く。その後は、欠点ばかり目について、拒絶反応がおこる。臓器移植と同じである。怒りっぽくなって、ささいなことにも腹を立てる。職場で衝突する。これが数ヶ月から半年くらい続く。これにももちろん個人差がある。その後は、ふつうその国の良いところと悪いところが、ありのままに受け入れられ、周囲とのトラブルも起こらなくなる。そして「良いところを学び、悪いところは学ばない」という態度をとることができる。
留学して半年以内に帰国した人には、よいところしか見えないから、いつまでも良くいう。6ヶ月から12ヶ月ぐらいで帰国すると、強烈な嫌悪感情を抱いたままになる。右派で国粋主義知識人にはこの手が多い。「不適応症候群」にかかったのである。
外国人研修生の受け入れには厚生労働省が関与しているのかどうか知らないが、受け入れ側に「文化交流の心理学」についての基礎的な知識があったなら、こんな事件は起きていないだろう。
明治6年に日本を出発した岩倉具視を団長とする「遣欧使節団」が偉かったのは、2年間という長期日程をたてて、アメリカ、英国、フランス、プロシア、ロシア、イタリアなど、西洋の主な国々を全部廻ったところにある。この過程で「心理的適応」が生じ、深い観察が可能になった。例えば木戸孝允の日記には、「売春禁止法」を施行したロンドンの夜の町が、どうなったかを視察し、「公娼制」の維持が必要と判断した興味深い記載がある。ペニシリンもなく、衛生知識も乏しかった当時の日本で公娼制を廃止していたら、梅毒と淋病が蔓延していただろう。
朝鮮も中国も近代化に失敗し、帝国主義の餌食になったのは、政府閣僚の半数が留学するというこのような遠大な計画をもちえず、実行もできなかったところにある。明治政府の制度設計は留学終了後、西南戦争をへて、本格的に始まったのである。大久保利通が語ったように「最初の十年は古いものを壊し、次の十年で新しい制度を作り、その後は若い世代に委ねる」という壮大な計画は、明治11年に彼が暗殺されたために、未完に終わった。
http://www.j-cast.com/tv/2013/03/15169712.html?p=all
殺傷された従業員の年齢を見ると若い人がいないから、この中国人は「技術を教える」友好目的で雇われたのではなく、安い賃金で使える単純労働力としてしか見なされていなかったのであろう。ある新聞は故人の社長について「おとこぎがあった」という知人の表現を伝えているが、「おとこぎ」が「俠気」の意味なら「ヤクザ的」だし、「男気」の意味なら正義感が強く反権威主義だったという意味になる。あいまいな言葉をそのまま伝えてはいけない。何のための取材か。
同じような事件は何度も繰り返されている。岐阜では零細織物業者が衰退する過程で、同じように中国人労働者を受け入れた。
その前には、バーやキャバレーで働く若い女の子が不足してきて、フィリピンから出稼ぎを連れてきていた。背後には暴力団組織があったから、「おとこぎ」のあった死んだ社長が、容疑者を雇用するにあたって、どういうルートで受け入れたのかを調べる必要があろう。広島の暴力団はいまは完全に山口組の下部団体になっているはずだ。米国からも犯罪シンジケート認定されている、日本の三大暴力団のひとつである。
容疑者は昨年9月にこの会社の研修生としてやって来たという。昨年の8~9月は尖閣諸島問題をめぐって反日暴動が起き、われわれは身の危険を感じて中国旅行を中止した。あの最中に雇い雇われたのだから、双方ともに自分のことしか眼中になかったのだろう。いまは、「広島県江田島市江田島町」となっているから、広島市と同じような陸地の都市だと思って来たのかもしれない。人口およそ2万5000人で、市域の人口は40年間に半減している。海上自衛隊の術科学校(旧海軍兵学校)があるから、かろうじて市としての人口が保たれている。勤め人の多くはフェリーで広島市にかよっている。容疑者はカキ打ち工場の二階にすんでいたが、付近にはバーも飲み屋もない。遊ぶところもない。
だいたい、外国暮らしを始めると、最初は何もかも目新しく素晴らしく見える。この期間は人により異なるがほぼ6ヶ月くらい続く。その後は、欠点ばかり目について、拒絶反応がおこる。臓器移植と同じである。怒りっぽくなって、ささいなことにも腹を立てる。職場で衝突する。これが数ヶ月から半年くらい続く。これにももちろん個人差がある。その後は、ふつうその国の良いところと悪いところが、ありのままに受け入れられ、周囲とのトラブルも起こらなくなる。そして「良いところを学び、悪いところは学ばない」という態度をとることができる。
留学して半年以内に帰国した人には、よいところしか見えないから、いつまでも良くいう。6ヶ月から12ヶ月ぐらいで帰国すると、強烈な嫌悪感情を抱いたままになる。右派で国粋主義知識人にはこの手が多い。「不適応症候群」にかかったのである。
外国人研修生の受け入れには厚生労働省が関与しているのかどうか知らないが、受け入れ側に「文化交流の心理学」についての基礎的な知識があったなら、こんな事件は起きていないだろう。
明治6年に日本を出発した岩倉具視を団長とする「遣欧使節団」が偉かったのは、2年間という長期日程をたてて、アメリカ、英国、フランス、プロシア、ロシア、イタリアなど、西洋の主な国々を全部廻ったところにある。この過程で「心理的適応」が生じ、深い観察が可能になった。例えば木戸孝允の日記には、「売春禁止法」を施行したロンドンの夜の町が、どうなったかを視察し、「公娼制」の維持が必要と判断した興味深い記載がある。ペニシリンもなく、衛生知識も乏しかった当時の日本で公娼制を廃止していたら、梅毒と淋病が蔓延していただろう。
朝鮮も中国も近代化に失敗し、帝国主義の餌食になったのは、政府閣僚の半数が留学するというこのような遠大な計画をもちえず、実行もできなかったところにある。明治政府の制度設計は留学終了後、西南戦争をへて、本格的に始まったのである。大久保利通が語ったように「最初の十年は古いものを壊し、次の十年で新しい制度を作り、その後は若い世代に委ねる」という壮大な計画は、明治11年に彼が暗殺されたために、未完に終わった。
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