ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【岩井寛】難波先生より

2016-01-18 16:55:40 | 難波紘二先生
【岩井寛】
 縦に12段、横に3スパンある「新書棚」の「心理学・精神医学」の新書を目録入力していて、岩井寛「森田療法」(講談社現代新書, 1986/8)に行き当たった。「あるがまま」を重要視する森田療法を編みだした森田正馬のことは、三浦偉久男さん(現聖マリアンナ大・血液内科教授)から教わった。1995年の秋か96年の春のことだ。当時、彼は秋田大第三内科にいた。
 序文を「編集工学」で有名な松岡正剛が書いていて、どういう関係だろう?と思った。それでついEXCEL入力を中断して、本を読みふけってしまった。
 
 この岩井寛という人は、変わった経歴の持ち主で、歳は私より10歳上だが、上智大経済を卒業した後、早稲田の大学院修士課程で美学を専攻し、1960年、私が大学に入学した年に慈恵医大に入学し(学士入学だったのか)、卒業後に精神科を専攻、69年には医学博士号を取得している。慈恵医大精神科講師などをへて、83年に聖マリの精神科教授になっている。
 美学の根底には、ニーチェの「アポロン的なもの、ディオニソス的なもの」のように、哲学があるから医学への転身も不思議ではないが、世俗的な経歴としては変わっている。

 が、もっと特異なのは「あとがき」に彼が「診断時直径12cmの腰部後腹膜に発生した悪性神経内分泌腫瘍(Malignant Neuro-endocrinoma)」を患っていて、同時に特発性難聴、ぶどう膜炎による失明、味覚喪失などの合併症を併発しており、余命が幾ばくもないと(口述筆記で)述べていることだった。本書自体が著者没後の出版だった。松岡の序文に「著者との対話、録音テープで40時間分を目下編集中」とあり、もう1冊遺著があるはずなのに気づいた。
 知識人が自己のがんを内省した記録に、岸本英夫「死を見つめる心:ガンとたたかった十年間」(講談社, 1964)がある。これは東大宗教学の教授が悪性黒色腫にかかり、迫り来る自分の死を見すえた貴重な記録だ。だが精神科医ががんに、それも悪性神経内分泌腫瘍というようなきわめて稀ながんにかかり、自分の死を見つめた記録など、恐らくないだろう。

 それでアマゾンを検索したら、松岡はちゃんと約束を守っていて、
岩井寛・松岡正剛『生と死の境界線:「最後の自由」を生きる』(講談社, 1988/6)という本が出ていた。絶版になっていて、定価1900円の本が、古書価格は3倍になっていたが、それでも読みたいので取りよせた。
 「直径12センチの膀胱後部に位置する神経内分泌腫瘍」と現代新書のあとがきにあったので、「これは全身転移しているな」と予想していたら、果たしてそうだった。腕のリンパ節に転移しているし、面白いことに前額部から後頭部にかけて、頭皮に選択的に多発性の皮膚転移が生じている。恐らく、特発性難聴(片側)も、無味症、ぶどう膜炎も顕微鏡的な転移が関与しているとみるべきであろう。おまけに腰椎浸潤がおこり、下半身麻痺が生じている。
 病理解剖はなされておらず、腫瘍の広がりとか、直接死因は不明のままだ。

 頻尿、便秘という症状が3年くらい続いて、大学の泌尿器科を受診したが「何もない」といわれ、結局東京医大泌尿器科で膀胱とS字結腸の間に腫瘍があることを指摘され、1985/9/2に慈恵医大で手術による摘出を受け、病理診断が確定。1986/2に聖マリアンナ病院に入院、ほとんどターミナルケアの状態で5/22に亡くなっている。松岡は岩井の死亡直前まで病人と話しあい、その発言を録音している。岩井も松岡も一級の知識人であり、話がよく噛み合っており、死に行く精神科医の内省や「幻覚」などをよく引き出している。これはよい本だ。これを残したことにより、55歳で死んだ岩井寛は、「夜と霧」を残したV.フランクルと同様に、「人間の理解」に重要な貢献をしたと思う。
 カバーにある経歴で、松岡が早稲田仏文卒であるのを初めて知った。「編集工学」ということを称えていたので、工学部卒かと思っていた。道理で松岡正剛,情報工学研究所「情報の歴史:象形文字から人工知能まで」(NTT出版, 1990/4)に索引がないわけだ。あれは名著なのに惜しい。
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