【産業革命遺産の登録】
5/5各紙が「明治日本の産業革命遺産」8県、23施設をUNESCOのICOMOS(国際記念物遺跡会議)の勧告に基づいて、登録することになったと報じた。
ところが6月末にドイツ・ボンで開催予定の正式決定を決める「世界遺産委員会」の21正式委員国に韓国が入っており、一括登録を日本が希望している23施設のうち、「7施設で、合計5万7000人の朝鮮人が強制動員され、94人が死亡、5人が行方不明になった」として、韓国政府が猛反対の立場を明らかにしたという。(5/7「JCAST-N」)
ところがその肝心の「7施設名と個々の反対理由」がメディアできちんと報じられない。
わずかに5/7「朝鮮日報」が、
端島炭坑(通称「軍艦島」)=長市(太平洋戦争中に、強制連行された朝鮮人・中国人が炭坑夫として強制労働された)
三菱造船(登録予定施設ドック、巨大クレーンなど4)=長市(所有者の三菱重工が、戦時中の強制労働に関与している)
松下村塾=山口県萩市(吉田松陰が「韓国を征伐しよう」と征韓論を広めた場所)
と報じているのみだ。(あと1箇所は福岡県の三井炭坑かもしれない。これで7施設になる。)
せめて産経ソウル支局からは、正確で詳しい報道が行われるかと期待していたが、さっぱりだ。
今回、申請される「明治産業革命遺産」は、日清戦争の賠償金が資本となった「八幡製鉄」を除けば、旧幕藩時代に、各藩などが自主的に取り組んだ産業施設ばかりである。
伊豆韮山の代官、江川太郎左衞門(1801-55)が自力で建設した「反射炉」は、弘化3(1846)年に完成している。反射炉は鉄の精錬に不可欠であり、良質の鉄は沿岸防備のための大砲製造に不可欠であった。佐賀藩の反射炉も同年に造られている。
「産業革命遺産」の多くは、大政奉還以前に、各藩や民間資本家が先鞭をつけた業種が明治以後にも発展を遂げたものがほとんどで、その一部企業が太平洋戦争中に、朝鮮や満州からの輸入労働力を利用したのは事実である。
その補償問題は、日韓および日中の国交回復条約により基本的に解決している。
分からないのは韓国が、<吉田松陰が「韓国を征伐しよう」と征韓論を広めた場所>(5/7「朝鮮日報」)として、松下村塾の指定にも反対している点である。
残念ながら日本メディア報道の質が低く、(韓国メディアはもっと低い)、立論の根拠がわからない。
私はこれを韓国政府の「言い掛かり」だと思う。
吉田松陰が「松下村塾」で講義を行ったのは、安政4(1857)年11月から5(1858)年12月までの1年1ヶ月である。この間に行った講義内容は、『松下村塾記』、『講孟余話』(共に岩波文庫)として公刊されているが、この中に、松陰が国策として「征韓論」を述べた箇所はまったくない。
確かに松陰が30歳の生涯に残した手紙の中に、「積極的国土防衛策」を述べたものはある。彼自身が「実現の可能性がない」と自嘲しているが、その一つは安政5年2月、桂小五郎(木戸孝允)宛の書簡で「蝦夷と同様に、竹嶋(鬱陵島)の開拓」を提唱している点である。
「天下無事であれば、これは幕府に一利あるし、一朝事あれば、わが藩(長州)より、遠略のために朝鮮満州に臨む他ないが、竹嶋はそのための足溜まりとなる」と述べている。
同月に、江戸にいた久坂玄瑞宛に、「(ロシアが進出している)黒竜江へ視察に行きたいというのには不賛成だ。海外に出るのなら、北京・広東へ行き、西洋人の言説が真実かどうか確かめるのが急務だ。黒竜江や蝦夷は、わが藩よりは迂遠の地であり、それよりは竹嶋(鬱陵島)、朝鮮、北京あたりのことを知るのが、わが藩にとっての急務である。」と書いている。(『吉田松陰書簡集』, 岩波文庫)
幕末、尊皇攘夷の志士で、このような大陸進出論を述べたものは、松陰ひとりではない。欧米列強による東アジア侵略を予防することまで考えた思想家は、一種の「大東亜共栄圏」のような発想にたどり着いたのである。それは後の侵略主義とは無関係に発想された。
たとえば仙台の林子平(1738〜1793)は『三国通覧図説』(1785)において、朝鮮、蝦夷、琉球という隣接三国の地理地誌を地政学的に把握し、『海国兵談』(1791, 岩波文庫)では「細かに思えば、江戸日本橋より唐(から)、オランダまで境なしの水路なり」と喝破し、「しかるにここ(江戸湾)に備えをおかず、長にのみ海防の石火矢台(砲台)を置いて安心しているのはどうか」と、すでに外国艦隊の浦賀への来航(ペリー艦隊:1853)を60年も前に予言している。
さらに彼は、唐本土、朝鮮、満州、黒竜江地帯の地理・地政学的特徴を挙げ、元が日本に侵攻した「元寇の役」は、モンゴル族が唐本土と朝鮮を支配下においたため、後背地の敵に備える必要がなかったためであり、満州を支配できなかった明は、日本侵略の意図があっても実行できなかった。清は満州族の出自だが、ロシアがウラジオストックからカムチャツカまで進出したため、北の脅威があり日本侵略が出来ないでいると、恐るべき洞察力を示している。
これは要するに、ロシアが南下して満州と朝鮮を支配すれば、続いて日本への侵略が起きると指摘したものにほかならない。これを逆転させて日本の側から見れば、「東北アジアの安定が国防上最重要であり、それには朝鮮の政治的安定とその後背地である満州及び黒竜江地帯の安定が必要である」ということになる。
子平の戦略的発想は、100年後の明治になって、政治家・軍人に受け容れられ、防御戦略の大綱となり、日清、日露の戦争をへて、次第に「侵略戦略」へと変質して行った。しかしこれと松陰の「松下村塾」は無関係である。
松陰の弟子が「征韓論」で凝り固まっていたという証拠もない。
明治6年6月「岩倉使節団」が外遊中に、「征韓論」を巡って留守政府が真二つに割れた。
事の起こりは明治元年、新政府の成立に伴い朝鮮国に送った国書を「従来の書式と異なる」として、朝鮮政府が受理を拒否したことから始まる。幕藩時代は朝鮮との外交は、対馬藩宗氏がもっぱらこれに当たっていた。明治4年廃藩置県を行った新政府は、旧対馬藩の権限を外務省に移し、外務省として正式に日朝の国交正常化を求めた。
これに対して明治6年5月、釜山にあった「朝鮮東萊府」(朝鮮側の対日事務所)は、公然と日本を侮辱する高札を掲げた。
これが明治6年の「征韓論」の切っ掛けであり、結果として政府は分裂し、征韓論者は下野して、佐賀の乱、萩の乱、西南の役が起こった。
明治6年の大論争の際に、朝鮮武力懲罰論を唱えたのは、佐賀の大隈重信、大木喬任、江藤新平、土佐の板垣退助、後藤象二郎らであった。薩摩の西郷隆盛は「使節派遣論」であり、彼らとは主張が異なっていた。彼らの中に、松陰の弟子も、その説の影響を受けたものもまったくいない。
それどころか、同年7月に帰朝した木戸孝允(桂小五郎)は長州出身でかつて松陰に学んだことがあり、安政5年2月には松陰の親書を受け取ってさえいる。
薩摩の大久保利通の反対論を木戸と岩倉具視が受け容れることで、政府は「征韓論」を否定し、征韓論派の下野が生じたのである。
このように、明治政府の大分裂をもたらした「明治6年の政変」において、松下村塾が影響を与えたという証拠は全くない。韓国政府が何を根拠に「松下村塾」の文化遺産登録に反対するのかまったくわからない。
5/9朝鮮日報が久しぶりによいコラム「韓国の反日ポピュリズムが招いた自縄自縛」を載せている。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/05/09/2015050900486.html
やっと韓国言論界にも、「自省」という動きが生まれつつあると思う。
コラムが取りあげている香山健一(「グループ1984」名)『日本の自殺』(1976)と文藝春秋2012/5月号の特集「新・日本の自殺」のことは、前に書いた。
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/5f58b29c8c0e2dd8be3f8d53f9121f3e
それにしても韓国によるいちいちの「言い掛かり」には、もううんざりだ。
5/9産経「産経抄」などは、「過去しか見ない隣人とは、なるべく付き合わない方がよい」と切って捨てているほどだ。
http://www.sankei.com/column/news/150509/clm1505090004-n2.html
何とか日韓関係を改善する手立てはないものか…。
そう思っていたら、久しぶりに5/8毎日「余録」に、国立公文書館の建て増しを話題にしたよいコラムが載った。
http://mainichi.jp/opinion/news/20150508k0000m070119000c.html
「アジア各国が歴史認識を共有するのは難しいと思う。しかし、歴史資料はお互いに共有できる。その原資料に基づいた歴史対話が必要だ。」
2001年に発足した「アジア歴史資料センター」の初代センター長の言葉だそうだ。
これだな、と思う。日韓共通の歴史教科書など、現状ではできるわけがない。
「歴史認識」をうんぬんする前に、日韓で歴史資料を吟味し共有し、それらに基づいて議論を進めるべきだろう。
共有するためには「文献批判学」がなくてはならない。古文書はすべて紙線維のC14を測定して、用紙と内容とが時代一致することを確定する。墨も成分を分析して、古紙に新しく書かれたものでないことを確認する。
要するに自然科学の方法を駆使して、偽書・捏造文書の類を排除して行けば、日韓が共有できる原資料はおのずから限定されてくる。
ハーバードの生物学者E.O.ウイルソンが提唱する「知の統一:コンシリエンス」とは、つまりは、そういうことであろう。
5/5各紙が「明治日本の産業革命遺産」8県、23施設をUNESCOのICOMOS(国際記念物遺跡会議)の勧告に基づいて、登録することになったと報じた。
ところが6月末にドイツ・ボンで開催予定の正式決定を決める「世界遺産委員会」の21正式委員国に韓国が入っており、一括登録を日本が希望している23施設のうち、「7施設で、合計5万7000人の朝鮮人が強制動員され、94人が死亡、5人が行方不明になった」として、韓国政府が猛反対の立場を明らかにしたという。(5/7「JCAST-N」)
ところがその肝心の「7施設名と個々の反対理由」がメディアできちんと報じられない。
わずかに5/7「朝鮮日報」が、
端島炭坑(通称「軍艦島」)=長市(太平洋戦争中に、強制連行された朝鮮人・中国人が炭坑夫として強制労働された)
三菱造船(登録予定施設ドック、巨大クレーンなど4)=長市(所有者の三菱重工が、戦時中の強制労働に関与している)
松下村塾=山口県萩市(吉田松陰が「韓国を征伐しよう」と征韓論を広めた場所)
と報じているのみだ。(あと1箇所は福岡県の三井炭坑かもしれない。これで7施設になる。)
せめて産経ソウル支局からは、正確で詳しい報道が行われるかと期待していたが、さっぱりだ。
今回、申請される「明治産業革命遺産」は、日清戦争の賠償金が資本となった「八幡製鉄」を除けば、旧幕藩時代に、各藩などが自主的に取り組んだ産業施設ばかりである。
伊豆韮山の代官、江川太郎左衞門(1801-55)が自力で建設した「反射炉」は、弘化3(1846)年に完成している。反射炉は鉄の精錬に不可欠であり、良質の鉄は沿岸防備のための大砲製造に不可欠であった。佐賀藩の反射炉も同年に造られている。
「産業革命遺産」の多くは、大政奉還以前に、各藩や民間資本家が先鞭をつけた業種が明治以後にも発展を遂げたものがほとんどで、その一部企業が太平洋戦争中に、朝鮮や満州からの輸入労働力を利用したのは事実である。
その補償問題は、日韓および日中の国交回復条約により基本的に解決している。
分からないのは韓国が、<吉田松陰が「韓国を征伐しよう」と征韓論を広めた場所>(5/7「朝鮮日報」)として、松下村塾の指定にも反対している点である。
残念ながら日本メディア報道の質が低く、(韓国メディアはもっと低い)、立論の根拠がわからない。
私はこれを韓国政府の「言い掛かり」だと思う。
吉田松陰が「松下村塾」で講義を行ったのは、安政4(1857)年11月から5(1858)年12月までの1年1ヶ月である。この間に行った講義内容は、『松下村塾記』、『講孟余話』(共に岩波文庫)として公刊されているが、この中に、松陰が国策として「征韓論」を述べた箇所はまったくない。
確かに松陰が30歳の生涯に残した手紙の中に、「積極的国土防衛策」を述べたものはある。彼自身が「実現の可能性がない」と自嘲しているが、その一つは安政5年2月、桂小五郎(木戸孝允)宛の書簡で「蝦夷と同様に、竹嶋(鬱陵島)の開拓」を提唱している点である。
「天下無事であれば、これは幕府に一利あるし、一朝事あれば、わが藩(長州)より、遠略のために朝鮮満州に臨む他ないが、竹嶋はそのための足溜まりとなる」と述べている。
同月に、江戸にいた久坂玄瑞宛に、「(ロシアが進出している)黒竜江へ視察に行きたいというのには不賛成だ。海外に出るのなら、北京・広東へ行き、西洋人の言説が真実かどうか確かめるのが急務だ。黒竜江や蝦夷は、わが藩よりは迂遠の地であり、それよりは竹嶋(鬱陵島)、朝鮮、北京あたりのことを知るのが、わが藩にとっての急務である。」と書いている。(『吉田松陰書簡集』, 岩波文庫)
幕末、尊皇攘夷の志士で、このような大陸進出論を述べたものは、松陰ひとりではない。欧米列強による東アジア侵略を予防することまで考えた思想家は、一種の「大東亜共栄圏」のような発想にたどり着いたのである。それは後の侵略主義とは無関係に発想された。
たとえば仙台の林子平(1738〜1793)は『三国通覧図説』(1785)において、朝鮮、蝦夷、琉球という隣接三国の地理地誌を地政学的に把握し、『海国兵談』(1791, 岩波文庫)では「細かに思えば、江戸日本橋より唐(から)、オランダまで境なしの水路なり」と喝破し、「しかるにここ(江戸湾)に備えをおかず、長にのみ海防の石火矢台(砲台)を置いて安心しているのはどうか」と、すでに外国艦隊の浦賀への来航(ペリー艦隊:1853)を60年も前に予言している。
さらに彼は、唐本土、朝鮮、満州、黒竜江地帯の地理・地政学的特徴を挙げ、元が日本に侵攻した「元寇の役」は、モンゴル族が唐本土と朝鮮を支配下においたため、後背地の敵に備える必要がなかったためであり、満州を支配できなかった明は、日本侵略の意図があっても実行できなかった。清は満州族の出自だが、ロシアがウラジオストックからカムチャツカまで進出したため、北の脅威があり日本侵略が出来ないでいると、恐るべき洞察力を示している。
これは要するに、ロシアが南下して満州と朝鮮を支配すれば、続いて日本への侵略が起きると指摘したものにほかならない。これを逆転させて日本の側から見れば、「東北アジアの安定が国防上最重要であり、それには朝鮮の政治的安定とその後背地である満州及び黒竜江地帯の安定が必要である」ということになる。
子平の戦略的発想は、100年後の明治になって、政治家・軍人に受け容れられ、防御戦略の大綱となり、日清、日露の戦争をへて、次第に「侵略戦略」へと変質して行った。しかしこれと松陰の「松下村塾」は無関係である。
松陰の弟子が「征韓論」で凝り固まっていたという証拠もない。
明治6年6月「岩倉使節団」が外遊中に、「征韓論」を巡って留守政府が真二つに割れた。
事の起こりは明治元年、新政府の成立に伴い朝鮮国に送った国書を「従来の書式と異なる」として、朝鮮政府が受理を拒否したことから始まる。幕藩時代は朝鮮との外交は、対馬藩宗氏がもっぱらこれに当たっていた。明治4年廃藩置県を行った新政府は、旧対馬藩の権限を外務省に移し、外務省として正式に日朝の国交正常化を求めた。
これに対して明治6年5月、釜山にあった「朝鮮東萊府」(朝鮮側の対日事務所)は、公然と日本を侮辱する高札を掲げた。
これが明治6年の「征韓論」の切っ掛けであり、結果として政府は分裂し、征韓論者は下野して、佐賀の乱、萩の乱、西南の役が起こった。
明治6年の大論争の際に、朝鮮武力懲罰論を唱えたのは、佐賀の大隈重信、大木喬任、江藤新平、土佐の板垣退助、後藤象二郎らであった。薩摩の西郷隆盛は「使節派遣論」であり、彼らとは主張が異なっていた。彼らの中に、松陰の弟子も、その説の影響を受けたものもまったくいない。
それどころか、同年7月に帰朝した木戸孝允(桂小五郎)は長州出身でかつて松陰に学んだことがあり、安政5年2月には松陰の親書を受け取ってさえいる。
薩摩の大久保利通の反対論を木戸と岩倉具視が受け容れることで、政府は「征韓論」を否定し、征韓論派の下野が生じたのである。
このように、明治政府の大分裂をもたらした「明治6年の政変」において、松下村塾が影響を与えたという証拠は全くない。韓国政府が何を根拠に「松下村塾」の文化遺産登録に反対するのかまったくわからない。
5/9朝鮮日報が久しぶりによいコラム「韓国の反日ポピュリズムが招いた自縄自縛」を載せている。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/05/09/2015050900486.html
やっと韓国言論界にも、「自省」という動きが生まれつつあると思う。
コラムが取りあげている香山健一(「グループ1984」名)『日本の自殺』(1976)と文藝春秋2012/5月号の特集「新・日本の自殺」のことは、前に書いた。
http://blog.goo.ne.jp/motosuke_t/e/5f58b29c8c0e2dd8be3f8d53f9121f3e
それにしても韓国によるいちいちの「言い掛かり」には、もううんざりだ。
5/9産経「産経抄」などは、「過去しか見ない隣人とは、なるべく付き合わない方がよい」と切って捨てているほどだ。
http://www.sankei.com/column/news/150509/clm1505090004-n2.html
何とか日韓関係を改善する手立てはないものか…。
そう思っていたら、久しぶりに5/8毎日「余録」に、国立公文書館の建て増しを話題にしたよいコラムが載った。
http://mainichi.jp/opinion/news/20150508k0000m070119000c.html
「アジア各国が歴史認識を共有するのは難しいと思う。しかし、歴史資料はお互いに共有できる。その原資料に基づいた歴史対話が必要だ。」
2001年に発足した「アジア歴史資料センター」の初代センター長の言葉だそうだ。
これだな、と思う。日韓共通の歴史教科書など、現状ではできるわけがない。
「歴史認識」をうんぬんする前に、日韓で歴史資料を吟味し共有し、それらに基づいて議論を進めるべきだろう。
共有するためには「文献批判学」がなくてはならない。古文書はすべて紙線維のC14を測定して、用紙と内容とが時代一致することを確定する。墨も成分を分析して、古紙に新しく書かれたものでないことを確認する。
要するに自然科学の方法を駆使して、偽書・捏造文書の類を排除して行けば、日韓が共有できる原資料はおのずから限定されてくる。
ハーバードの生物学者E.O.ウイルソンが提唱する「知の統一:コンシリエンス」とは、つまりは、そういうことであろう。
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