【教養としての解剖生理学】
「日経」に「医歯薬だけでなく、すべての学部を6年制に」という「文系重視」のオピニオンが載っていた。私は「教養重視」の4+4制の大学が必要だと思う。アメリカなどでは他学部を卒業したあとAO入試で「医学部進学」が決まる。多くは「医学部(Faculty of Medicine)」とはいわず「医学校(School of Medicine)」と称している。これは4年制だ。
欧米の場合、人体の解剖学・生理学・生化学などは基本的に他の哺乳動物と同じであり、動物については理学部ですでに習っている。だから医学部進学後は、「ヒト固有」の解剖学・生理学と病気に関する知識(病理学)を基礎医学として、さらに診断と治療のための診断学総論と治療学各論(内科・外科など)を学ぶ4年制の学部となっている。アメリカの場合、卒業要件に「卒論」(医学博士号)は要求されない。日本では「医学士」というのは、医学部は卒業したものの、医師国家試験に合格できない人の称号である。
2/25(木)の昼過ぎ大阪・梅田駅近くで発生した「乗用車暴走事故」の報道を見て、あらためて記者の「解剖生理学」知識の乏しさを痛感した。
NHK・TVの第一報はこう報じた。
<運転手が心臓の近くの血管が破裂する病気を発症して意識を失っていた可能性があることが、捜査関係者への取材で分かりました。警察は、正常な運転ができない状態で赤信号の交差点に進入したとみて調べています。>
「心臓近くの血管が破裂する病気を発症」とは一体なにを意味するのか?
「心臓近くの血管」となると、1)冠状動脈、2)肺動脈、3)大動脈の三つしかない。冠状動脈は心臓の表面を走り、ついで心筋内部に入るので、「心臓近くの血管」とは普通いわない。
肺動脈は右心室から肺に向けて出る血管だが、内圧が低く「肺動脈破裂」など聞いたこともない。残るのは司馬遼太郎が死んだ「胸部大動脈瘤の解離性破裂」だが、これを「心臓近くの血管」とは普通いわない。
NHK報道が信用できないので、2/26新聞報道に期待した。
「中国」=「大阪府警は運転中に心臓や脳などの急性疾患で体調に異変が起き、意識を失った可能性があるとみて司法解剖して死因を調べる」(共同通信)
「毎日」=「捜査関係者によると◯◯さん(運転手)は搬送先の病院で治療を受けた際、心臓付近の大動脈が腫れていた。(この記事には珍しく署名なし)
日経、産経には新事実の報道なし。
テレビの目撃証言などによると、付近にコンビニがあり、運転手の車はハザードランプを点滅させていたというから、短期間の駐車の後、車に乗り込んだところで、既存の胸部大動脈瘤の「解離」が起こり、「解離性大動脈瘤破裂」が起こったと見てよいだろう。完全破裂なら出血により、ほぼ即死するが、不完全破裂なら猛烈な激痛とショックのため、意識喪失が起こるだろう。坐ったままで、運転ができなくても、右足がアクセルに載った位置だと、車は自動発進するはずである。
以後の事故はおよそ想像できる。
要するに、この事件のポイントは「運転手はなぜ意識喪失したのか?」、「事故の再発を防ぐためにはどうしたらよいのか?」について、読者が知ることにある。その点、メディア報道は落第である。心臓付近の主な動脈の解剖学を押さえた報道がなかったからだ。
大動脈瘤の存在を指摘されながら手術せず、その破裂により死んだ著名人に司馬遼太郎(1996)、梶田昭(2001)などがいる。
動脈瘤とは動脈壁の一部がコブ状に外に膨らんだものをいうが、その壁が正常の動脈壁と同じ「内膜・中膜=筋層・外膜」という3層構造をした「真正動脈瘤」と、動脈硬化や炎症(主に梅毒)により内膜・中膜の破断が起き、外膜だけが袋状に突出した「仮性動脈瘤」に分かれる。
仮性動脈瘤の場合は「破裂」がもっとも重要な合併症で、その場合は大動脈であれば、大出血によりほぼ即死する。
真性動脈瘤の場合は、動脈内腔と動脈瘤がつながっており、血圧の作用で中膜が横に裂ける「解離性動脈瘤」に発展する可能性が高い。この場合、出血は中膜の筋肉内に起きるので、激痛とつよいショックを生じるが、外部へ破裂しない場合は大出血には至らない。
「毎日」の「心臓付近の大動脈が腫れていた」というのが事実であれば、胸部大動脈の解離性大動脈瘤の「不完全破裂」と考えてよいだろう。
(もちろん、事後の報道によりこの「推定」が誤りと判明すれば、喜んで訂正する。)
2/26昼の「朝日」は<事故直後、救急隊から「(意識を失う原因になり、突然死にいたることもある)大動脈解離の症状がある」との連絡が府警にあった。事故の約3時間20分後に死亡が確認されたが、目立った外傷はなかった。>と報じている。(ネット記事)
事実とすれば、「大動脈解離」について、救急隊員がよく勉強し、熟練していた、というべきだろう。
<2/26夕刻追記=2/26「読売」17:23ネット記事が、「大阪府警は26日、死亡した運転手の会社経営・大橋篤さん(51)(奈良市)について、司法解剖の結果、死因は大動脈解離による心タンポナーデと判明したと発表した。」、と報じている。
情けないことにNHKは「警察が男性の遺体を司法解剖したところ、死因は心臓の近くの太い血管が裂ける<大動脈解離>による突発性の心疾患だったとみられることが分かりました。」と報じている。一般動脈と大動脈の区別がついていない。
左の心臓(左心室)から直接に出る動脈は大動脈しかない。肺動脈(右心室から出る)以外は、すべて大動脈から分かれる。(最初に分かれるのが、左右の冠状動脈だ。)
従ってこの患者の場合、上行大動脈(大動脈が心臓から出て、前から見て、右に大きく弓なりにカーブし「大動脈弓」となる直前までをいう)に生じた解離性動脈瘤が、逆方向に避けて、心囊内に破裂して、心囊腔内を血液が満たす「心タンポナーデ」という現象が起こり、心臓が外から血液により圧迫され、心停止に至ったものと考えられる。
心臓は「心囊」という袋に包まれている。この袋は横隔膜の上に底があり、後は食道に接し、上は肺動脈、上大動脈の起始部を包み、前は上行大動脈が大動脈弓に移行する手前で大動脈に付着している。(Fig.1)
本をいろいろ調べたが、心臓と心囊の不着位置との関係を図示して、「心タンポナーデ」発生の仕組みを説明した本は、藤田恒夫「入門人体解剖学」(南江堂、2012/1)しかなかった。思えば、東日本大震災のため「紙不足」になり、藤田先生の本著の改訂は大幅に遅れ、先生はこの著の第五版刊行後、すぐに亡くなられた。
雑誌「ミクロスコピア」を通じて、修復腎移植を支持して、全力で応援して下さった先生が、まさか「心タンポナーデ」について、どの病理学書よりも分かりやすい、図説明を残しておられとは知らなかった。
図は私の画像処理技術が拙いので、原図をスキャンして印刷した後、心囊の位置を赤いマーカーで書き加え、再びスキャンしたJPEG画像です。原画は精密ですが、私が赤で加えた「心囊の位置」は単なる概念図です。実際には心臓との間に、正常では、すき間はありません。
こんな名画に拙い線を描き加える自分が恥ずかしくなります。
Fig.1=心臓の前面と心囊の不着位置・外形図(ピンクで示す)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/11/e0/1098714e8d3bf7be5aee7e2603ef92d9_s.jpg)
(出典=藤田恒夫「入門人体解剖学」(南江堂、2012/1、改訂第五版)p.109)
従って、胸部大動脈瘤や腹部大動脈瘤が破裂する場合には、胸腔内もしくは腹腔内に大出血が起こるが、上行大動脈や大動脈弓に生じた解離性動脈瘤は、心臓側に波及して、心囊内に大出血を来すことが多い。
問題の運転者の場合、図の「上行大動脈」とある部分で、解離性大動脈瘤が心囊内に破裂して、すぐに心停止・意識不明となったと思われる。
2/26「産経」17:28のネット報道では、
<心タンポナーデは心臓と心臓を覆う膜の間に血液などが貯まって、心臓の動きを阻害する症状。大動脈の内壁がはがれる大動脈解離で心臓付近の血管の一部が裂けて出血した際に、心膜の内側に血液が流れ込んで発症、心臓が圧迫されたと見られるという。>としている。
同じく17:16のNHK・TV報道では、
<警察が26日、大橋さんの遺体を司法解剖したところ、死因は心臓の近くの太い血管が裂ける「大動脈解離」による突発性の心疾患だったとみられることが分かりました。(略)
「大動脈解離」は心臓から全身に血液を送り出す最も太い血管、「大動脈」で内側にある膜が破れ、血管に沿って裂け目が広がるものです。血液が流れにくくなり、心停止状態に陥ったり、脳に血液が回らず失神したりするほか、裂け目が外側の膜まで広がって、大動脈そのものが破れると、多くの場合、大量出血で死亡します。>としている。
これらの報道では「大動脈解離」が「大動脈の壁が縦に裂ける」という現象が執筆記者に理解されていないと思う。一般の人は、「血管が裂ける」といわれても、まさか大動脈が長軸に沿って「紙のように剥がれる」という現象があるとは思いもよらないだろう。
動静脈は内膜・中膜・外膜という3層からなり、中膜は平滑筋の層だが、ここは相互接着が弱く、一旦剥がれ始めたら、長軸に沿って剥離現象が生じる。それが「動脈解離」で、大動脈だけでなく、他の動脈にも起こる。
同22:57「読売」ネットニュースでは、
<発表では、大橋さんは、事故の発生時刻とほぼ同時刻の25日午後0時半頃、心臓から腰付近で大動脈解離を発症したと推定され、外に漏れ出た血液により心臓が圧迫される「心タンポナーデ」で約3時間後に死亡したとされる。>としている。
結局、胸部大動脈に発生した「解離性大動脈瘤」が下は腹部から腰部にまで波及し、上は大動脈弓部から上行大動脈まで「逆行性」に波及し、大動脈起始部である心囊付着部で壁が破れて心囊内に出血したということだろう。
解離の始まりから、心囊内に破裂するまでの時間経過が不明だが、破裂後はほぼ即死だと思う。それまでは激痛、胸部痛などがあったと思う。
「マルファン症候群」という遺伝子病では、動脈壁に弾性を与える「弾性繊維」を作る遺伝子に障害があり、リンカーン大統領やエル・グレコの描く人物画に出てくるような、手足が細長く、頭が上下に細長い骨格が形成される。(B.J.A.Marfanは1896年、この病気を初めて報告したフランスの医師。)
マルファンの場合、大動脈壁の中膜に形成不全があるために大動脈の拡張に伴う「大動脈弁閉鎖不全症」や解離性大動脈瘤を発生しやすい。
リンカーンは暗殺されたので、直接診断はされていないが、医学史家の多くは、彼がマルファン症候群だったと考えている。直近の例では、ゾーラ・パッド(英国)かそのライバルのメアリー・デッカー(米国)という、オリンピック級女子陸上選手のどちらかが、マルファンだと報じられた記憶がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%89#.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BE.8C
ただWIKIには載っていないので、私の記憶ちがいの可能性もある。
この病気は6000人にひとりの割合で生じ、70〜80%が家族性に起きる。放置した場合、若いうちに解離性大動脈瘤の破裂により死亡することが多い。
今後「科学・医療欄」で報じる際には、この病気にも触れてほしいものだ。仮に1万人に1人としても、日本全体では1万2000人の患者がいることになる。
大動脈解離では、外に裂けていなくても、大動脈を縦に切り開いたら、それが2枚の層として認められる。大動脈が2枚あるようで、不思議な光景を認めるものだ。
「心タンポナーデ」は心囊内に大量の液が貯留した際に、心臓自身が圧迫されて、心不全が生じる場合をいい、1)心外傷、2)心筋破裂、3)解離性大動脈瘤の心囊内破裂などによって生じる。炎症性に生じる場合もある。
突然に200〜300mLの液体が心囊内に貯留すれば、それだけで心タンポナーデが発生する。>
<2/27追記=本日付の四紙を読んだが、「解離性大動脈瘤」と「心タンポナーデ」を正しく理解して書かれた記事は1本もなかった。「毎日」などは、図入りで「大動脈解離」を説明しているが、これがまったくの間違い。「科学環境部」の実力も落ちたものだ。なぜ「日本病理学会」か、大病院の病理部長に取材しなかったのか、と思う。法医解剖で解離性大動脈瘤による「心タンポナーデ」が問題になるケースはまずない。病理解剖ではしょっちゅうある。
これについて、日本語、英語の図を探したが、良いものがない。(心囊付着部については、上記の藤田恒夫図が優れている。)やっと英国の書に分かりやすい図を見つけたので、ここに添付する。(Fig.2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/a0/7f41bf7dda5ad4f4d121156f59f6ecab_s.jpg)
Fig.2:解離性動脈瘤と心タンポナーデ発生の仕組み
動脈(大動脈を含む)は「内膜・中膜・外膜」の3層構造からなる。中膜は平滑筋層からなり最も厚い層だが、もしここにマルファン症候群などで、筋層の脆弱化があると、内膜に生じた傷口(図の真ん中上の矢印)から、動脈壁内にちょうどそれを引きはがすように、出血が波及する。これが「解離性動脈瘤」である。その場合、通常は血流に沿って下方向に進行して、「解離性胸部大動脈破裂」あるいは「解離性腹部大動脈破裂」となる(図の右側にあるように大動脈壁は二つに解離し、その間に血液が貯留する)。
だがまれに心臓側に「解離」が進行することがあり(図の左側の下向き矢印)、これが心囊(pericardiac sac)内に破裂すると、心囊腔内に血液が貯留して、心臓を圧迫し「心タンポナーデ」(心臓タンポン症)が発生する。
今回のケースは(報道情報によるかぎり)、これだと考えられる。
元もと「タンポン」という言葉は、女性が月経の時に膣内に綿球を詰めたことに由来し、これが一般医学用語になったものである。「詰める」という意味で、心囊に血液を詰めすぎて心臓が動かなくなるのが「心タンポナーデ」なのである。
問題はこの会社経営の男性(51)が、事前に「胸部(または上行)大動脈瘤」の存在について知っていたか、さらにその予後について医学的知識を持っていたかどうかだろう。
報道を読むかぎり、動脈硬化が特に進行していた、梅毒性大動脈炎があった、マルファン症候群にかかっていた、というような病因を特定できるような情報がない。
こういう事件報道に接する度に、記者の「解剖・生理学」についての常識のなさを痛感する。こんなことを「医学部卒」の医者だけが知っている、という社会がおかしい。
医学部に入る前に4年間の「プレ・メディカル」教育で、現代日本人がそれらの知識を「常識」とできるような大学制度を提唱したい。この学部は「一般教育」学部である。
全員が少なくとも2年間の「生物学・解剖生理学」を学ぶようなカリキュラムが、事故予防や医療費の削減のために必要だと思う。
事件そのものは、1)損害賠償にかかわる法的責任問題、2)自動運転カーの早期開発、という大きな問題を提起したと思う。自動運転までは一挙にいかなくても、運転手の体調不良を検出し、車をより安全な位置に停止させるという「マン・マシーン・インターフェース」の開発なら、今でもできるのではないか、と思う。
「日経」に「医歯薬だけでなく、すべての学部を6年制に」という「文系重視」のオピニオンが載っていた。私は「教養重視」の4+4制の大学が必要だと思う。アメリカなどでは他学部を卒業したあとAO入試で「医学部進学」が決まる。多くは「医学部(Faculty of Medicine)」とはいわず「医学校(School of Medicine)」と称している。これは4年制だ。
欧米の場合、人体の解剖学・生理学・生化学などは基本的に他の哺乳動物と同じであり、動物については理学部ですでに習っている。だから医学部進学後は、「ヒト固有」の解剖学・生理学と病気に関する知識(病理学)を基礎医学として、さらに診断と治療のための診断学総論と治療学各論(内科・外科など)を学ぶ4年制の学部となっている。アメリカの場合、卒業要件に「卒論」(医学博士号)は要求されない。日本では「医学士」というのは、医学部は卒業したものの、医師国家試験に合格できない人の称号である。
2/25(木)の昼過ぎ大阪・梅田駅近くで発生した「乗用車暴走事故」の報道を見て、あらためて記者の「解剖生理学」知識の乏しさを痛感した。
NHK・TVの第一報はこう報じた。
<運転手が心臓の近くの血管が破裂する病気を発症して意識を失っていた可能性があることが、捜査関係者への取材で分かりました。警察は、正常な運転ができない状態で赤信号の交差点に進入したとみて調べています。>
「心臓近くの血管が破裂する病気を発症」とは一体なにを意味するのか?
「心臓近くの血管」となると、1)冠状動脈、2)肺動脈、3)大動脈の三つしかない。冠状動脈は心臓の表面を走り、ついで心筋内部に入るので、「心臓近くの血管」とは普通いわない。
肺動脈は右心室から肺に向けて出る血管だが、内圧が低く「肺動脈破裂」など聞いたこともない。残るのは司馬遼太郎が死んだ「胸部大動脈瘤の解離性破裂」だが、これを「心臓近くの血管」とは普通いわない。
NHK報道が信用できないので、2/26新聞報道に期待した。
「中国」=「大阪府警は運転中に心臓や脳などの急性疾患で体調に異変が起き、意識を失った可能性があるとみて司法解剖して死因を調べる」(共同通信)
「毎日」=「捜査関係者によると◯◯さん(運転手)は搬送先の病院で治療を受けた際、心臓付近の大動脈が腫れていた。(この記事には珍しく署名なし)
日経、産経には新事実の報道なし。
テレビの目撃証言などによると、付近にコンビニがあり、運転手の車はハザードランプを点滅させていたというから、短期間の駐車の後、車に乗り込んだところで、既存の胸部大動脈瘤の「解離」が起こり、「解離性大動脈瘤破裂」が起こったと見てよいだろう。完全破裂なら出血により、ほぼ即死するが、不完全破裂なら猛烈な激痛とショックのため、意識喪失が起こるだろう。坐ったままで、運転ができなくても、右足がアクセルに載った位置だと、車は自動発進するはずである。
以後の事故はおよそ想像できる。
要するに、この事件のポイントは「運転手はなぜ意識喪失したのか?」、「事故の再発を防ぐためにはどうしたらよいのか?」について、読者が知ることにある。その点、メディア報道は落第である。心臓付近の主な動脈の解剖学を押さえた報道がなかったからだ。
大動脈瘤の存在を指摘されながら手術せず、その破裂により死んだ著名人に司馬遼太郎(1996)、梶田昭(2001)などがいる。
動脈瘤とは動脈壁の一部がコブ状に外に膨らんだものをいうが、その壁が正常の動脈壁と同じ「内膜・中膜=筋層・外膜」という3層構造をした「真正動脈瘤」と、動脈硬化や炎症(主に梅毒)により内膜・中膜の破断が起き、外膜だけが袋状に突出した「仮性動脈瘤」に分かれる。
仮性動脈瘤の場合は「破裂」がもっとも重要な合併症で、その場合は大動脈であれば、大出血によりほぼ即死する。
真性動脈瘤の場合は、動脈内腔と動脈瘤がつながっており、血圧の作用で中膜が横に裂ける「解離性動脈瘤」に発展する可能性が高い。この場合、出血は中膜の筋肉内に起きるので、激痛とつよいショックを生じるが、外部へ破裂しない場合は大出血には至らない。
「毎日」の「心臓付近の大動脈が腫れていた」というのが事実であれば、胸部大動脈の解離性大動脈瘤の「不完全破裂」と考えてよいだろう。
(もちろん、事後の報道によりこの「推定」が誤りと判明すれば、喜んで訂正する。)
2/26昼の「朝日」は<事故直後、救急隊から「(意識を失う原因になり、突然死にいたることもある)大動脈解離の症状がある」との連絡が府警にあった。事故の約3時間20分後に死亡が確認されたが、目立った外傷はなかった。>と報じている。(ネット記事)
事実とすれば、「大動脈解離」について、救急隊員がよく勉強し、熟練していた、というべきだろう。
<2/26夕刻追記=2/26「読売」17:23ネット記事が、「大阪府警は26日、死亡した運転手の会社経営・大橋篤さん(51)(奈良市)について、司法解剖の結果、死因は大動脈解離による心タンポナーデと判明したと発表した。」、と報じている。
情けないことにNHKは「警察が男性の遺体を司法解剖したところ、死因は心臓の近くの太い血管が裂ける<大動脈解離>による突発性の心疾患だったとみられることが分かりました。」と報じている。一般動脈と大動脈の区別がついていない。
左の心臓(左心室)から直接に出る動脈は大動脈しかない。肺動脈(右心室から出る)以外は、すべて大動脈から分かれる。(最初に分かれるのが、左右の冠状動脈だ。)
従ってこの患者の場合、上行大動脈(大動脈が心臓から出て、前から見て、右に大きく弓なりにカーブし「大動脈弓」となる直前までをいう)に生じた解離性動脈瘤が、逆方向に避けて、心囊内に破裂して、心囊腔内を血液が満たす「心タンポナーデ」という現象が起こり、心臓が外から血液により圧迫され、心停止に至ったものと考えられる。
心臓は「心囊」という袋に包まれている。この袋は横隔膜の上に底があり、後は食道に接し、上は肺動脈、上大動脈の起始部を包み、前は上行大動脈が大動脈弓に移行する手前で大動脈に付着している。(Fig.1)
本をいろいろ調べたが、心臓と心囊の不着位置との関係を図示して、「心タンポナーデ」発生の仕組みを説明した本は、藤田恒夫「入門人体解剖学」(南江堂、2012/1)しかなかった。思えば、東日本大震災のため「紙不足」になり、藤田先生の本著の改訂は大幅に遅れ、先生はこの著の第五版刊行後、すぐに亡くなられた。
雑誌「ミクロスコピア」を通じて、修復腎移植を支持して、全力で応援して下さった先生が、まさか「心タンポナーデ」について、どの病理学書よりも分かりやすい、図説明を残しておられとは知らなかった。
図は私の画像処理技術が拙いので、原図をスキャンして印刷した後、心囊の位置を赤いマーカーで書き加え、再びスキャンしたJPEG画像です。原画は精密ですが、私が赤で加えた「心囊の位置」は単なる概念図です。実際には心臓との間に、正常では、すき間はありません。
こんな名画に拙い線を描き加える自分が恥ずかしくなります。
Fig.1=心臓の前面と心囊の不着位置・外形図(ピンクで示す)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/11/e0/1098714e8d3bf7be5aee7e2603ef92d9_s.jpg)
(出典=藤田恒夫「入門人体解剖学」(南江堂、2012/1、改訂第五版)p.109)
従って、胸部大動脈瘤や腹部大動脈瘤が破裂する場合には、胸腔内もしくは腹腔内に大出血が起こるが、上行大動脈や大動脈弓に生じた解離性動脈瘤は、心臓側に波及して、心囊内に大出血を来すことが多い。
問題の運転者の場合、図の「上行大動脈」とある部分で、解離性大動脈瘤が心囊内に破裂して、すぐに心停止・意識不明となったと思われる。
2/26「産経」17:28のネット報道では、
<心タンポナーデは心臓と心臓を覆う膜の間に血液などが貯まって、心臓の動きを阻害する症状。大動脈の内壁がはがれる大動脈解離で心臓付近の血管の一部が裂けて出血した際に、心膜の内側に血液が流れ込んで発症、心臓が圧迫されたと見られるという。>としている。
同じく17:16のNHK・TV報道では、
<警察が26日、大橋さんの遺体を司法解剖したところ、死因は心臓の近くの太い血管が裂ける「大動脈解離」による突発性の心疾患だったとみられることが分かりました。(略)
「大動脈解離」は心臓から全身に血液を送り出す最も太い血管、「大動脈」で内側にある膜が破れ、血管に沿って裂け目が広がるものです。血液が流れにくくなり、心停止状態に陥ったり、脳に血液が回らず失神したりするほか、裂け目が外側の膜まで広がって、大動脈そのものが破れると、多くの場合、大量出血で死亡します。>としている。
これらの報道では「大動脈解離」が「大動脈の壁が縦に裂ける」という現象が執筆記者に理解されていないと思う。一般の人は、「血管が裂ける」といわれても、まさか大動脈が長軸に沿って「紙のように剥がれる」という現象があるとは思いもよらないだろう。
動静脈は内膜・中膜・外膜という3層からなり、中膜は平滑筋の層だが、ここは相互接着が弱く、一旦剥がれ始めたら、長軸に沿って剥離現象が生じる。それが「動脈解離」で、大動脈だけでなく、他の動脈にも起こる。
同22:57「読売」ネットニュースでは、
<発表では、大橋さんは、事故の発生時刻とほぼ同時刻の25日午後0時半頃、心臓から腰付近で大動脈解離を発症したと推定され、外に漏れ出た血液により心臓が圧迫される「心タンポナーデ」で約3時間後に死亡したとされる。>としている。
結局、胸部大動脈に発生した「解離性大動脈瘤」が下は腹部から腰部にまで波及し、上は大動脈弓部から上行大動脈まで「逆行性」に波及し、大動脈起始部である心囊付着部で壁が破れて心囊内に出血したということだろう。
解離の始まりから、心囊内に破裂するまでの時間経過が不明だが、破裂後はほぼ即死だと思う。それまでは激痛、胸部痛などがあったと思う。
「マルファン症候群」という遺伝子病では、動脈壁に弾性を与える「弾性繊維」を作る遺伝子に障害があり、リンカーン大統領やエル・グレコの描く人物画に出てくるような、手足が細長く、頭が上下に細長い骨格が形成される。(B.J.A.Marfanは1896年、この病気を初めて報告したフランスの医師。)
マルファンの場合、大動脈壁の中膜に形成不全があるために大動脈の拡張に伴う「大動脈弁閉鎖不全症」や解離性大動脈瘤を発生しやすい。
リンカーンは暗殺されたので、直接診断はされていないが、医学史家の多くは、彼がマルファン症候群だったと考えている。直近の例では、ゾーラ・パッド(英国)かそのライバルのメアリー・デッカー(米国)という、オリンピック級女子陸上選手のどちらかが、マルファンだと報じられた記憶がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%89#.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BE.8C
ただWIKIには載っていないので、私の記憶ちがいの可能性もある。
この病気は6000人にひとりの割合で生じ、70〜80%が家族性に起きる。放置した場合、若いうちに解離性大動脈瘤の破裂により死亡することが多い。
今後「科学・医療欄」で報じる際には、この病気にも触れてほしいものだ。仮に1万人に1人としても、日本全体では1万2000人の患者がいることになる。
大動脈解離では、外に裂けていなくても、大動脈を縦に切り開いたら、それが2枚の層として認められる。大動脈が2枚あるようで、不思議な光景を認めるものだ。
「心タンポナーデ」は心囊内に大量の液が貯留した際に、心臓自身が圧迫されて、心不全が生じる場合をいい、1)心外傷、2)心筋破裂、3)解離性大動脈瘤の心囊内破裂などによって生じる。炎症性に生じる場合もある。
突然に200〜300mLの液体が心囊内に貯留すれば、それだけで心タンポナーデが発生する。>
<2/27追記=本日付の四紙を読んだが、「解離性大動脈瘤」と「心タンポナーデ」を正しく理解して書かれた記事は1本もなかった。「毎日」などは、図入りで「大動脈解離」を説明しているが、これがまったくの間違い。「科学環境部」の実力も落ちたものだ。なぜ「日本病理学会」か、大病院の病理部長に取材しなかったのか、と思う。法医解剖で解離性大動脈瘤による「心タンポナーデ」が問題になるケースはまずない。病理解剖ではしょっちゅうある。
これについて、日本語、英語の図を探したが、良いものがない。(心囊付着部については、上記の藤田恒夫図が優れている。)やっと英国の書に分かりやすい図を見つけたので、ここに添付する。(Fig.2)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1a/a0/7f41bf7dda5ad4f4d121156f59f6ecab_s.jpg)
Fig.2:解離性動脈瘤と心タンポナーデ発生の仕組み
動脈(大動脈を含む)は「内膜・中膜・外膜」の3層構造からなる。中膜は平滑筋層からなり最も厚い層だが、もしここにマルファン症候群などで、筋層の脆弱化があると、内膜に生じた傷口(図の真ん中上の矢印)から、動脈壁内にちょうどそれを引きはがすように、出血が波及する。これが「解離性動脈瘤」である。その場合、通常は血流に沿って下方向に進行して、「解離性胸部大動脈破裂」あるいは「解離性腹部大動脈破裂」となる(図の右側にあるように大動脈壁は二つに解離し、その間に血液が貯留する)。
だがまれに心臓側に「解離」が進行することがあり(図の左側の下向き矢印)、これが心囊(pericardiac sac)内に破裂すると、心囊腔内に血液が貯留して、心臓を圧迫し「心タンポナーデ」(心臓タンポン症)が発生する。
今回のケースは(報道情報によるかぎり)、これだと考えられる。
元もと「タンポン」という言葉は、女性が月経の時に膣内に綿球を詰めたことに由来し、これが一般医学用語になったものである。「詰める」という意味で、心囊に血液を詰めすぎて心臓が動かなくなるのが「心タンポナーデ」なのである。
問題はこの会社経営の男性(51)が、事前に「胸部(または上行)大動脈瘤」の存在について知っていたか、さらにその予後について医学的知識を持っていたかどうかだろう。
報道を読むかぎり、動脈硬化が特に進行していた、梅毒性大動脈炎があった、マルファン症候群にかかっていた、というような病因を特定できるような情報がない。
こういう事件報道に接する度に、記者の「解剖・生理学」についての常識のなさを痛感する。こんなことを「医学部卒」の医者だけが知っている、という社会がおかしい。
医学部に入る前に4年間の「プレ・メディカル」教育で、現代日本人がそれらの知識を「常識」とできるような大学制度を提唱したい。この学部は「一般教育」学部である。
全員が少なくとも2年間の「生物学・解剖生理学」を学ぶようなカリキュラムが、事故予防や医療費の削減のために必要だと思う。
事件そのものは、1)損害賠償にかかわる法的責任問題、2)自動運転カーの早期開発、という大きな問題を提起したと思う。自動運転までは一挙にいかなくても、運転手の体調不良を検出し、車をより安全な位置に停止させるという「マン・マシーン・インターフェース」の開発なら、今でもできるのではないか、と思う。
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