ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【新井白石】難波先生

2012-10-10 12:47:56 | 難波紘二先生
【新井白石】を主人公にした藤沢周平「市塵(上下)を読んでいるが、さっぱり面白くない。なんで彼がこの柄にもない史伝小説を書いたのか、白石の経歴を調べてみたら、初め千葉・久留里藩二万石土屋氏に仕えたが、主家没落のため辞去せざる得なくなり、下総・古河藩八万石堀田氏に仕えた。ところが堀田家が一時出羽・山形藩十万石に移奉になった時期がある。この時、白石も同行したので、それが山形との縁らしい。しかし、堀田家には9年ほどしかいなかった。


 中下流の武士のほのぼのとした哀歓を描くのを得意とする周平には、こういう人物を書くのは無理である。
 白石は1686年、30歳で幕府儒学者、五代将軍綱吉の侍講、木下順庵に入門している。ずいぶんと晩学である。すでに妻子もあり生活には困窮していた。
 ところが、師の順庵が加賀藩への仕官の口を世話してくれたのだが、加賀出身の同輩儒生に、「郷里に老いた両親がいる。帰りたいのでその話を譲ってくれ」と頼まれて、譲ってしまう。
 次ぎに順庵は門弟の中で一番よくできる白石を、甲斐府中藩25万石徳川家の儒者として推薦し、藩主綱豊に仕えた。


 ところが五代将軍綱吉に跡継ぎがなく、藩主がその養子になり、綱吉死後は家宣と改名し第六代将軍となった。白石はその最大のブレーンとなり、禄高も2,000石に達した。もし友人の頼みを断って、加賀に仕官していたら、四十人扶持がせいぜいであったろう。人間の運命はどう変わるかわからない。


 藤沢周平の種本は、白石の自叙伝「おりたく柴の記」(岩波文庫)だとわかったので、これを読みなおしてみた。この自叙伝は、年月日が正確に記録されているが、記述が相前後していて、かならずしもテーマ別に区切られていない。周平はそれをそのまま小説にしており、「編集」していないので面白くないのである。完全創作の「用心棒」シリーズと史伝小説はちがう。彼には司馬遼太郎の才はない。


 で、幕閣になった白石は、内治・外交に大活躍するが、「自分が世の人びとの口にも上るようになったのは、朝鮮通信使対応の一件からだ」という(p.196)。つまりそれまでは無名だったのである。


 白石が「朝鮮通信使」問題を担当するようになったのは、1789(宝永6)年のことである。秀吉の「朝鮮出兵」(文禄・慶長の役)以後、約10年間、日本と朝鮮との間の国交は断絶していた。
 「朝鮮国の君臣ともに、わが国を深く怨み、言いたいことがあって、十年ほど経って(慶長12年5月に)初めて使節を送ってきた。」(p.196)
朝鮮出兵の時、日本の鉄砲生産量は世界一だった。この銃隊は遅れた朝鮮歩兵に対して、すさまじい破壊力を発揮した。この破壊・略奪に対する朝鮮人の怨恨は深い。


 慶長12年、初使節が来日の時は、家康はすでに秀忠に将軍職を譲っており、秀忠が親書を受けた。
 以後、将軍代替わり毎に、朝鮮の通信使が来日している。
 寛永元年の使節は、三代将軍家光が受けている。これらの親書には将軍のことを「日本国王」と記し、「日本天皇」と区別してあった。
 ところが寛永13年の通信使〔家光が応接)から「日本国王」が「日本国大君」に変えられた。(この「タイクン」は後に英語に入りTycoon=大立て者、専制支配者の意味になる)
 この「大君」は朝鮮・中国にあっては、君主が臣下にさずける職号であるから、まず国書の表記をもとの「日本国王」に戻させなければいけない。


 この主張をあらかじめ対馬藩をとおして朝鮮に予備折衝させたところ、「日本天皇=皇帝がある以上、王=日本国王があるのは当然」なので、朝鮮側も異議を唱えず国書の変更を認めた。
 1711(正徳元)年、幕府は白石の献策を容れて、家光の鎖国以来、壊されていた大型船を6隻以上修繕し、何時でも朝鮮に出兵できることを使節団に見せることにした。
 ついで、使節団応接の待遇、食事、応接の儀式などを思い切って簡素化し、日本側の使節が対馬藩から朝鮮に赴いた場合と対等になるように、規則を改めた。


  食事の接待について、「朝夕の膳七五三、昼の膳は五五三を供ず」とある(p.200)。
  これは朝夕が、一の膳が七品、二の膳が五品、三の膳が三品。昼は一の膳が五品、二の膳が五品、三の膳が三品、という意味である。
 簡素化により、このフルコースを出すのは大阪、京都、駿府、江戸の4箇所のみ、道中の他の場所では一行に食料を供給するだけにした。召使いに勝手に料理させよ、というわけである。


 従来に比べて、格落ち扱いされた朝鮮通信使の方は、憤懣たらたらで、将軍の返書に七代前の国王の諱(いみな)<懌(えき)>が使用されているとして、非難し受け取りを拒んだ。
 これを論破したのも新井白石である。


 「礼記、論語には<五代したらもう諱む必要がない>とある。子が親の、臣が君の諱を避けるのは当たり前だが、隣国に対して君主の諱を避けよと要求するのは道理にあわない。ましてや五代はおろか七代前の諱を問題にするにおいておや。貴国の国書を見るに、三代前の御将軍家光公の諱<光>の字が用いられているではないか。子曰わく、己の欲せざるところを他人に施すなかれ、というではないか。このような国書を持ち来たったほうが、よほど無礼であろう。」


 結局、白石の正論が朝鮮使節を圧倒し、おまけに軍艦の用意までしてあるのを見て、「戦争になるかもしれない」と恐れをなした。そこで、国書を持ち帰り、あらためて諱をさけ、「大日本国王」と書いたものを持ち来るなら、日本側も七代前の朝鮮王の諱を避けた返書を返そう、という白石の提案を受け入れることになった。朝鮮側は「名分」だけ立てて、何ら得るところなく帰国した。この一件で、対馬藩と幕閣内に対朝鮮融和論があるなかで、日本側の主導権を確立した白石の知名度は急上昇した。


 と、まあこれが新井白石と朝鮮通信使とのかかわりである。この時、白石55歳で、昔の公務員なら定年であるが、まだまだ意気盛んだ。この朝鮮使節に切り返した口上は、小気味がよく、恐らく江戸っ子の喝采をあびたのであろう。だから、「世に新井白石あり」と知られるようになったのだろう。


 外交というものはどうやるか、よくわかるエピソードである。日本の外務省に、この本を読んだ外交官はいるのであろうか?
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