【悪書追放運動】 で、ゾッキ本の会社は大手出版社では出せない「エロ本」を出したから大いに儲かった。いわゆる文化人で書けるものは、別の筆名でこれに書いた。編集者もアルバイトにその編集をした。「夫婦生活」の編集長は春陽堂編集長の末永勝介で、「駒込公平」というペンネームで編集にあたった。「春陽堂」は夏目漱石の作品を一手に出版していた名門である。
それと浅田一(東京医大法医学教授)、式場隆三郎(精神科医:画家山下清の発掘者)、永井潜(東大名誉教授、進化生物学者)など、医者や学者はそのまま本名で書いている。婦人解放運動の神近市子もそうだ。彼らは科学的な性知識の普及を自己の使命と考えていたのに対して、いわゆる評論家・文化人はそういう雑誌に書くことに対する偏見があった。編集著の末永は、見本誌をもって執筆依頼に行ったら、「書くのは困るが、この雑誌はくれないか」といわれた、という逸話を紹介している。
昭和24年、10巻10号の「編集後記」によると、定価65円の本誌が書店ですぐ売り切れになり、貸本屋で「3日間40円で借りて読んでいる」という「行きつけのおでん屋のおかみさん」の話が載っている。当時は「夫婦の生活」、「夫婦と生活」といった紛らわしい名前の雑誌も出て、間違えて買う人もあったとか。
「夫婦生活」は月刊で最盛期35万部、廃刊時で8万部出ていたというから、今の週刊誌より立派である。
それが廃刊に追い込まれたのは、1950(昭和25)年6月伊藤整訳「チャタレー夫人の恋人」(小山書店)が「わいせつ罪」で発禁になり、両者(訳者と出版社)とも起訴された事件が起きたからだ。この背景にあったのは「有害図書排除」運動で、東京赤坂の婦人会、杉並区の婦人会などが主導した。浅はかな婦人たちの主観的善意が、検閲制度の復活をもたらしたのである。赤坂南部坂には日本初のキリスト教会があるが、あの近くの公園で「焚書」が行われている。
それと浅田一(東京医大法医学教授)、式場隆三郎(精神科医:画家山下清の発掘者)、永井潜(東大名誉教授、進化生物学者)など、医者や学者はそのまま本名で書いている。婦人解放運動の神近市子もそうだ。彼らは科学的な性知識の普及を自己の使命と考えていたのに対して、いわゆる評論家・文化人はそういう雑誌に書くことに対する偏見があった。編集著の末永は、見本誌をもって執筆依頼に行ったら、「書くのは困るが、この雑誌はくれないか」といわれた、という逸話を紹介している。
昭和24年、10巻10号の「編集後記」によると、定価65円の本誌が書店ですぐ売り切れになり、貸本屋で「3日間40円で借りて読んでいる」という「行きつけのおでん屋のおかみさん」の話が載っている。当時は「夫婦の生活」、「夫婦と生活」といった紛らわしい名前の雑誌も出て、間違えて買う人もあったとか。
「夫婦生活」は月刊で最盛期35万部、廃刊時で8万部出ていたというから、今の週刊誌より立派である。
それが廃刊に追い込まれたのは、1950(昭和25)年6月伊藤整訳「チャタレー夫人の恋人」(小山書店)が「わいせつ罪」で発禁になり、両者(訳者と出版社)とも起訴された事件が起きたからだ。この背景にあったのは「有害図書排除」運動で、東京赤坂の婦人会、杉並区の婦人会などが主導した。浅はかな婦人たちの主観的善意が、検閲制度の復活をもたらしたのである。赤坂南部坂には日本初のキリスト教会があるが、あの近くの公園で「焚書」が行われている。
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