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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【稲生物怪】難波先生より

2013-06-01 23:51:22 | 難波紘二先生
【稲生物怪】栃木の小島さんが1)須永朝彦=編訳『江戸奇談怪談集』(ちくま学芸文庫)と2)泉鏡花『草迷宮』(岩波文庫)を贈ってくれた。いずれも未読である。
 ありがたく読ませてもらっている。
この1)に国学者平田篤胤が採取筆録した、備後国三次の「稲生家の物怪」事件が載っている。ときおり、地元紙が「町おこし」の話題として今でもときおり報じる。


 寛延2(1749)年旧暦7月1日夜から同月30日夜まで、連続30日にわたり、備後国三次郡三次にあった広島藩士稲生平太郎(数え16歳)の居宅に「妖怪」が現れる。平太郎に加勢した友人、知人はすべて、妖怪に打ち負かされるが、無事、怪異・変化に堪えた平太郎に対して、最後の夜、魔王「山本(さんもと)五郎左右衛門」が姿を現し、なぜこの家に取り付いたか理由を告げ、「これから九州に行く」といって、配下の者共と一種に行列を組んで、姿を消すという話である。


 浅野三次支藩5万石は、藩主に跡継ぎがなかったため、1720年、廃藩になっているので、これはその後の広島藩時代の物語である。物語自体は、稲生平太郎の眼を通して語られており、怪異の詳細が夜ごとに30回にわたり、述べられている。


 この物語を平田篤胤がどのようにして採取したのか不明だ。須永本には、篤胤の「仙境異聞」(天狗小僧寅吉の話)、「勝五郎再生記聞」(前世を記憶する童勝五郎の話)と異なり、採話するに至るいきさつが書かれてない。(平田篤胤『仙境異聞・勝五郎再生記聞』, 岩波文庫)。あるいは、編者の須永がその部分をカットしたのかもしれない。これは平田本の原本をあたらないと不明だ。


 1)に収録された根岸鎮衛(やすもり)『耳嚢(みみぶくろ)』(岩波文庫)の「芸州引間山妖怪の事」によると、「引間山」は「火熊山」とも書き、「三次盆地」近辺の山となっている。これは話者の音「ひくまやま」に対する当て字で、他書では「引馬山」ともなっている。
 話は、稲生平太郎改め稲生武大夫が家に寄宿していた小林専助なるものが、後に下総多湖藩藩主、松平豊前守勝前(かつたけ)の家来となり、藩主に語り伝えたものを、松平勝前が、『耳袋』著者である江戸南町奉行である著者根岸鎮衛に語ったものだという。それなりに素性がはっきりしている。
 但し、話は詳細がなく、怪異現象が15日間にわたり生じたとし、その要約になっている。


 『草迷宮』の解説者種村季弘は、鏡花のこの小説のネタは篤胤の『稲生物怪録』だ、と述べているが、須永本で篤胤の物怪物語を読むかぎり、両者に類似性はない。それに種村は、「稲生武大夫」と書いているが、これは後の名前であり、事件当時の氏名は「稲生平太郎」である。


 また最後の夜に、化け物は「山本五郎左右衛門」と名乗り、「我は魔王であり、源平合戦の頃、日本に渡って来た。日本の同格は神野悪五郎しかおらぬ」と出生を明かすのであり、「出雲の国から来た」などとは言っていない。
 国学者平田篤胤は、日本固有の神である「産土神」と外来宗教である仏教の「神仏習合」に反対し、古来の神を中心とする「神道」の復活を唱えたので、魔王を渡来の異神と位置づけたのであろう。
 解説者のくせに『稲生物怪録』を読んでいないことが明らかだ。


 『草迷宮』(1908)の趣向は、『高野聖』(1900)と同工異曲である。
 舞台が飛騨から信濃へ越える山中の一軒家から、三浦半島の別荘地葉山の邸宅に移され、時代が江戸から明治に変わっているだけである。魔力をもつ美しい女とその術により「気違い」にされた男が出てきて、旅人とめぐり逢うという構成は同じだ。
 後は『草迷宮』では、旅の若い僧と亡き母から聞かされた手まり歌の原詞を尋ねて、全国を放浪する若者「葉越明が偶然に妖しの女人の住む別荘で、偶然に同宿するというプロットが挿入されているだけだ。



 「鏡花」という筆名だが、本名が「泉鏡太郎」で1895年23歳で『夜行巡査』、『外科室』を発表する際に、師の尾崎紅葉の薦めで「鏡花」と名乗ったという。(紀田順一郎『ペンネームの由来事典』,東京堂)
 「明鏡止水」、「鏡花水月」という鏡と水が出て来る熟語があるが、「鏡花水月」は「鏡に映った花と水に映った月」のように「眼には見えるが、手には取れない」ものの意である。「鏡花水月法」という叙述法もあり、自然主義的な具体描写をさけ、イメージとして眼前に思い浮かべさせる手法をいう。
 鏡花の文学は、具象性に乏しく、物語構成にも足りない点があるが、語彙が豊富で言葉づかいに巧みであり、叙情性に富む。「鏡花水月法」を見事に体現しているといえる。


 他に「月」のペンネームをもつ作家・評論家に石橋忍月、大町桂月、島村抱月などがいるが、紅葉と泉鏡太郎が二人がかりで考えた「鏡花」が結果として一番有名になった。名は体を表すの類か…


 鏡花の文章では『歌行灯』結末部、鼓の名手が鼓を打つ場面の描写が好きだが、『草迷宮』にも葉山の空き別荘で一夜を共にする学生の葉越明が、旅の法師小次郎に手まり歌を探している理由を聞かれて、答える文句が見事である。
 「夢ともうつつとも、幻とも…目に見えるようで、口にはいえぬー そして、優しい、懐かしい、あわれな、情のある、愛のこもった、ふっくりとした、しかも、清く、涼しく、ぞっとする、胸を掻きむしるような、あの、うっとりとなるような、まあ例えていえば、芳しい清らかな乳を含みながら、生まれない前に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持ちのー 唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧れて、それを聞きたいと思いますんです。」


 この<夢ともうつつとも、幻とも…目に見えるようで、口にはいえぬ>という文句は、主人公葉越明の言葉であり、同時に作者鏡花が幼い頃に死んだ母を思い浮かべている言葉である。さらに創作手法として、「鏡花水月」の手法を用いることを意識した表現でもある。
 
 で、話を元に戻して、肝腎の『稲生物怪録』だが、これは完全なフィクションだと思う。いくつか理由を挙げる。

 1)地名等がいいかげんで、実在性がない。
 ことに「三次の地で、上り川、原川、吉田川が合して大河となり、石見国の太田川の水源になる」と書かれているが、ありえないことだ。
 太田川は安芸国の北部に発し、南流して広島で瀬戸内海に注ぐ川である。三次から始まるのは江川で、北流し、ついで西流して日本海に注ぐ。三次でに馬洗川に西城川と可愛川が合して江川本流が始まるのである。安芸国では北部の一部を除き、川はすべて南流して瀬戸内海に注ぐ。備後の国では北半分は川は江川の支流であり、日本海に注ぐ。南半分では芦田川の支流で、これは南流して福山で瀬戸内海に注ぐ。


 このため三次地方(三次郡)は古くから「出雲文化圏」に属しており、独特の食文化、方言、古墳、製鉄法(たたら製鉄)などが発達した。海から遠く離れているため、生の魚はまず食べられず、「ワニ」が唯一の刺身だった。これは「ワニ鮫」のことで、サメは軟骨魚類であり、かつ血中のアンモニア濃度がたかく、腐りにくいため、特に「ドロ落とし」と称する田植え後の宴会で刺身が出された。
 「鯖なます」(p.228)を7月中旬に稲生平太郎が食う、という記述はちと信じかねる。地元の私は子供の頃、鯖の刺身やなますなど食った記憶がない。


 この地方の方言には、古代奈良京都で用いられ、他の地方では消滅したものが残っていることが多い。
 「大手(おおて)」(p.206)を「練り塀の備後方言」としているが、白い土壁の上部に瓦を載せた隔壁を「おおて」という。


 「花香(かこう)」(p.229)を「茶の煮花の備後方言」としているが、「はなが」と発音するのは別に方言ではない。「広辞苑」は「はなが」を「茶の香気」としている。むしろ「はなが」という音がまずあり、それに「花香」という漢字をあてたものであろう。この漢字を後に「かこう」と読むようになったと考えるのが自然である。
 「煎じたての香りの高い茶葉」を「煮花(にばな=煮端)ということは、「広辞苑」にも載っている。「娘十八番茶も出花」の「でばな」と同じ意味である。
 なお三次地方では「つけもの」ことに「たくあん」のことを、「こうこう」あるいは「こうこ」という。これも当て字すれば「香香」となる。これは山陽の文化圏ではあまり聞いたことがない。


 三次盆地は海抜100m余りと低く、3つの川はここまでは急流だが、盆地を東から西に流れる馬洗川に、北からまず西城川が合流し、盆地の西端で北流してきた可愛川が合流する。合して以後が「江川」となり、流れがゆるやかとなり、日本海から船の遡行が可能となる。可愛川は毛利元就の本拠地吉田の郷を流れ来るので「吉田川」ともいう。(この点は、『稲生物怪録』の記載に合致している。)
 可愛川は、北の三次郡と南の三渓(みたに)郡の境で、盆地の川北が「三次」、川南が「十日市」である。両地区は「巴橋」という橋でつながっている。
 本当に土地の者から話を聞いたのであれば、こんな基礎的な間違いは考えられない。


 「文政・天保国郡全図」によると、「三次郡」は、三次を中心に、十日市、五日市、入若、本八頭、原村、茂田、布野、作木、江定という村が取りまいているが、『稲生物怪録』にはこのうち「布野」という地名しか出て来ない。
 寺名が二つ、神社名が1つ、人名が50近く出てくるのに、それらの所在地や住所について、地名がいっさい出て来ないのはきわめて不自然である。


 2)登場人物名が不自然である。当時の人物は武士なら姓名と名前、それに名乗り名をもっていた。町人なら屋号、百姓なら土地の字を姓代わりにもちいた。には姓はない。
 平太郎と弟勝弥以外に登場する人物は、
 権平=下男
 三井権八=隣家の力士
 川田茂左右衛門=平太郎の叔父、弟勝弥を一時預かる。
 上田治部右衛門=平太郎宅に撥ね罠を仕掛け、怪物をとらえようとする。
 鉄砲撃ちの長倉=西江寺に仏具を借りに行く男
 津田市郎右衛門=平太郎隣家の人
 中村源大夫=同上
 向井次郎左衞門=「えたの十兵衛」こと猟師の川田十兵衛を同道してくる男。
 川田十兵衛=上記
 陰山正大夫=兄彦之助が先祖伝来の化け物退治の名刀をもっていると、訪ねてくる男。
 平野屋市右衛門=平太郎との関係不明。
 松浦市大夫=上記陰山正大夫の兄、彦之助に同道して訪ねてくる。


 こんな感じで、「権」が2名、「右衛門」が3名、「大夫」が3名、姓に「田」がつくのが4名となる。「浅野40万石」の「広島藩」全体で家臣が4000人弱しかいなかった。かつて石高4万石しかなかった「三次支藩」には、多くても400人くらいの家臣しかいなかったはずだ。
 支藩が廃止された後には、三次役所で働く人数はもっと少なくなっていたはずなので、こんな紛らわしい名前があるはずがない。当時は自由に名前を変えられたのだから。山、川、田が多いのはすべて名前が創作だからであろう。
 ここでわからないのが、「えたの十兵衛」の正式名が「川田十兵衛」となっていることだ。「カワタ」は皮田、革田、川田とも書き、えたの人の姓である。平太郎の叔父が「川田茂左右衛門」と十兵衛と同姓であるのは、この点奇異である。(上原善広『私家版差別用語辞典』, 新潮新書)


 このように名前が類似してくるのは、「捏造」の場合によく見られる。事件そのものは「火のないところに煙は立たない」というように、何らかの「「不思議な出来事」があったと思われるが、それが伝聞により広まり、文書に記録される過程で、無意識あるいは意図的な捏造が行われた可能性を否定できない。


 3)『稲生物怪録』に出てくる寺社、山稜のうち、現在の地図と一致するものもある。

 比熊山=三次北方に海抜約200mの山がある。原文には「千畳敷と称する平地があり、三次殿の塚と呼ばれる石塚がある」となっているが、今日そのような塚は知られていない。なお「ひくま」が原音と思われ、「引間」山、「引馬」山などと『耳袋』には書かれている。


 原文では、火熊山に登るに、「西江寺」の脇を通り「太歳神社」の脇を抜けて、山道に登ったとある。
 西江寺と太歳神社は三次市に現存し、100mと離れておらず、海抜50mくらいの高さにあり、ともに「火熊山」の東山麓にある。
 西光寺は、平太郎の居宅とそれほど離れておらず、記載が事実なら稲生家は、三次の北端で西城川の西岸にあったと思われる。


 妙榮寺=魔王の山本五郎左衛門が平太郎に与えた木槌を、後に稲生家が奉納したとされる寺。西江寺の西南200mの位置に実在。
 同時は広島の国前寺の末寺で、妙榮寺住職が、享和2(1802)年、広島国前寺へ転任になった際、この木槌を広島に移したとされるが、国前寺は広島南区山根町にあり、距離的に原爆で炎上せず、現在もある。


 なお、稲生平太郎あらため稲生武大夫の墓は、広島本照寺にあるとされるが、「本照寺」は広島市中区小町に現存し、前の広島県医師会長故碓井静照先生の実家である。「広島ペンクラブ」の会長でもあった碓井先生から、この話は聞いたことがない。


 但し、これら寺社の存在が、原話の実在性を担保するものではない。
 『耳嚢』に出てくる話では、怪異が15夜続いたのに対して、『稲生物怪録』では30日続くことになっており、単純な原話が増幅されたことは容易に察しられる。稲生平太郎(武大夫)による自筆記録あるいは、30日間に「夜とぎ」と称する不寝番に立ち会った他の人物による記録があるかどうか、定かでない。
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