【福翁自伝】からの引用を産経「次世代への名言」が11回でやっと止めた。しかし5/30から『学問のすすめ』からの引用が始まった。この執筆者は諭吉がお好きなようだ。最後の
「若い時から困ったと云うことを一言でも云うたことがない」
という言葉は、コラムには出典が明記してないが、『福翁自伝』中の「一身一家経済の由来」の章に出てくる。
その前に、諭吉は「生まれてこの方ついぞ金を借りたことがない」といい、芝新銭座にあった有馬家の中屋敷400坪を355両で買った時のことを記している。この屋敷は咸臨丸の艦長として共に渡米した木村摂津守の居宅の近隣にあり、その用人大橋が周旋した。
受け渡しの期日に諭吉が風呂敷に金を包んで木村屋敷に赴くと、家中がドタバタしている。
大橋が出てきて、「実は三田の薩摩屋敷を酒井家家中のものが焼き討ちしている。江戸もこうなっては屋敷の値段はがた落ちだ。有馬屋敷も100両なら買うといえば、言い値で売るだろう。取り引きはやめだ」という。
諭吉も諭吉で、「約束した以上、決めた金額を払うのが当たり前。もし100両で買い、戰争にならず平和になり、有馬家の人たちが家の前を通ったら、きっと『福沢は人の弱みにつけこんで、250両をまけさせた』というに違いない。そんな不愉快な目に逢いたくないから、こっちが損をしてもいから、約束の金は払う」と突っぱねている。
諭吉の経済は簡単で、「金を借りない、余分な支出はしない、余った金は金庫に入れておく」というものだ。収入はまるで知財経済で、慶応4年、明治改元前に有馬家から買い取った屋敷を「慶應義塾」と名づけ、英学を教えた。約200名の塾生から月2分の授業料を取ったから、月400分、100両の収入になった。年に1200両である。
これと並んで『西洋事情』、『学問のすすめ』、『文明論の概略』などの著書及び他の訳書が当時のベストセラーになり、評論も広く読まれた。この印税、原稿料収入が相当あった。横浜の週刊英語新聞の記事も翻訳して、各藩の江戸留守居役に売ったという。
新銭座の有馬屋敷は湿地にあり、このため明治3年、諭吉はマラリアにかかり、岩倉使節団に同行することになった大阪適塾の同門長与専斎が、諭吉の身を按じて塩酸キニーネを1びん置いていってくれた。これを飲んで全快している。
そういうわけで、明治4年、芝三田の島原藩中屋敷、地所1万4000坪、建物600数十坪を合計500数十円(ほぼ500数十両に相当)で、東京府から福沢個人に払い下げを受けている。廃藩置県により、大名所有地が没収になったのである。この時の500円余の金は福沢の学校経営と著作活動により得られたものである。
諭吉の冒頭の引用文は、「一身独立して一国独立す」という彼の思想を具体的に説明するために、「金に困った、金がない」とうようなことは内心では思っていても、他人の前で口にしたことはない、と言っているのであり、「やせがまんの説」を唱えた諭吉の面目躍如である。また、新渡戸稲造『武士道』が述べている精神とも相通じるところがある。「武士は食わねど高楊枝」である。コラム執筆者はちと誤読があるようだ。
「若い時から困ったと云うことを一言でも云うたことがない」
という言葉は、コラムには出典が明記してないが、『福翁自伝』中の「一身一家経済の由来」の章に出てくる。
その前に、諭吉は「生まれてこの方ついぞ金を借りたことがない」といい、芝新銭座にあった有馬家の中屋敷400坪を355両で買った時のことを記している。この屋敷は咸臨丸の艦長として共に渡米した木村摂津守の居宅の近隣にあり、その用人大橋が周旋した。
受け渡しの期日に諭吉が風呂敷に金を包んで木村屋敷に赴くと、家中がドタバタしている。
大橋が出てきて、「実は三田の薩摩屋敷を酒井家家中のものが焼き討ちしている。江戸もこうなっては屋敷の値段はがた落ちだ。有馬屋敷も100両なら買うといえば、言い値で売るだろう。取り引きはやめだ」という。
諭吉も諭吉で、「約束した以上、決めた金額を払うのが当たり前。もし100両で買い、戰争にならず平和になり、有馬家の人たちが家の前を通ったら、きっと『福沢は人の弱みにつけこんで、250両をまけさせた』というに違いない。そんな不愉快な目に逢いたくないから、こっちが損をしてもいから、約束の金は払う」と突っぱねている。
諭吉の経済は簡単で、「金を借りない、余分な支出はしない、余った金は金庫に入れておく」というものだ。収入はまるで知財経済で、慶応4年、明治改元前に有馬家から買い取った屋敷を「慶應義塾」と名づけ、英学を教えた。約200名の塾生から月2分の授業料を取ったから、月400分、100両の収入になった。年に1200両である。
これと並んで『西洋事情』、『学問のすすめ』、『文明論の概略』などの著書及び他の訳書が当時のベストセラーになり、評論も広く読まれた。この印税、原稿料収入が相当あった。横浜の週刊英語新聞の記事も翻訳して、各藩の江戸留守居役に売ったという。
新銭座の有馬屋敷は湿地にあり、このため明治3年、諭吉はマラリアにかかり、岩倉使節団に同行することになった大阪適塾の同門長与専斎が、諭吉の身を按じて塩酸キニーネを1びん置いていってくれた。これを飲んで全快している。
そういうわけで、明治4年、芝三田の島原藩中屋敷、地所1万4000坪、建物600数十坪を合計500数十円(ほぼ500数十両に相当)で、東京府から福沢個人に払い下げを受けている。廃藩置県により、大名所有地が没収になったのである。この時の500円余の金は福沢の学校経営と著作活動により得られたものである。
諭吉の冒頭の引用文は、「一身独立して一国独立す」という彼の思想を具体的に説明するために、「金に困った、金がない」とうようなことは内心では思っていても、他人の前で口にしたことはない、と言っているのであり、「やせがまんの説」を唱えた諭吉の面目躍如である。また、新渡戸稲造『武士道』が述べている精神とも相通じるところがある。「武士は食わねど高楊枝」である。コラム執筆者はちと誤読があるようだ。
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