【窮すれば通ず】
12/6(日)の朝は8時過ぎに起きて風呂に入り、テレビの討論会を見たり、コーヒーを飲んでくつろいだ。新聞は「愛媛」を買って読んだが「修復腎移植」の記事は載っていない。
家内に土産を買おうと10時にチェックアウトし、「きさいや広場」の「道の駅」に行った。「じゃこ天」を売っている店に行くと、ゆで卵をじゃこ天でくるんだものとか、いろいろな種類があるので、違う品4種8個を買い、ついでにカツオのたたきも2人前買った。そしたら広島まで車で帰ると知り、発泡スチロールに氷詰めにしてくれた。なかなか親切だ。
ついでに戸口で見た「実習船えひめ丸」の遭難慰霊碑の場所を確かめたら、広場の一角にあるものは、客寄せに後から作られたもので、元のものは「宇和島水産高校」の校庭にあると教えてくれた。2001年2月にハワイ沖で急浮上した米原潜に引っかけられて、高校の実習船が沈没した痛ましい事故が起こった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%B2%E3%82%81%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E6%95%85
「水産高校の運動会は海の上でする。この広場は埋め立てる前は海で、昔はここが水産高校の運動会場だった」ことも知った。
車を走らせて海際にある水産高校に行くと、石の錨をあしらった立派な記念碑があった。
ついでに、すぐ対岸にある「宇和島予科練」の旧跡も訪ねた。カメラを今回は忘れたので、仕方なしにケータイで撮影した。「パソコンのケーブルはあるが、このケータイはMACに対応していないんだよな…」と思いつつも、ともかく画像をケータイに保存した。(写真1)

(写真1:えひめ丸慰霊碑。写真に入らなかったが左に慰霊文の碑銘石版があった。正面が海で、工場の位置に予科練の基地があった。)
右側に何と本物のペンキ塗りの捕鯨砲があった(写真2)。宇和島から捕鯨船が出ていた時代があったのか。

(写真2:捕鯨砲)
先端は滑らないように平坦になり、鯨に刺さったら抜けないように根元に鈎がついている。初め大砲かと思ったが、黒い銛を見て捕鯨砲だと気づいた。
11時半に宇和島道路に入り、一路松山を目指した。松山市内に入るとカーナビの音声ガイドに誘導されて難なく、港に着いた。13時15分を過ぎたところだったが、あいにく14:10までカーフェリーの便がない。手続きをすませて、コーヒーを飲み、日記を書き、頂き物の大きな本郷柿を食べたりして時間を過ごした。
船が動き出して、「こういうルートにしてよかった」と思った。2時間の運転休止時間があるというのは、リラックスできるし景色も楽しめるし、よかった。座席は先端の客席に座り、カバンに入れてきた「NEWSWEEK」先週号と今週号を読んだ。「国際テロ事件」の報道と解説にかけては、日本の雑誌の報道はとうていこれにかなわないだろう。花田◯◯は産経の「週刊誌時評」にこれも取りあげるべきだと思う。
行きの「石崎汽船」には船内に喫煙室があったが、「瀬戸内海汽船」は後部デッキに吹きさらしの喫煙所があるのみ。寒さに震えながら立って船尾を見ると、何と私の車が豆のように小さく見える。「これでも120キロ出して何ともないだけどな」と思いつつこれを撮影した。
その時、ふと思いついた。「これを自分宛にメールで送ればいいじゃないか…」。アイデアはよかったが、携帯でメールを送ったことがない。ともかく四苦八苦して、自分のメルアドを入力して送信した。ちゃんと送れた!(一服したからアイデアが出たのかな、と思う。)
呉港に着いて上陸したのが16:10、阿賀まで一般道を走り、その後「呉・東広島自動車道」を走って、途中給油して自宅には、17:30頃着いた。自宅←→宇和島市間は、陸路、フェリー、水中翼船—JRとどの方法をとっても、6時間はかかる。
戻ってさっそくメールをチェックした。撮影した画像はJPEGで25KBと小さかったが、ちゃんと届いていた。(写真3)
(写真3:カーフェリー船尾部分)
左下の3ナンバー車に比べると、私の赤い軽は小人みたいに見える。わざわざ真っ赤な車にしたのは、遠くからでも目立つようにと警戒色にしたのである。この時分、相手に目立つように私は午後4時をすぎたら、ヘッドライトも点灯する。
船首から乗り込んだので、船尾の先端に駐車した。降りる時は私の車が最初になった。
音戸の瀬戸を通過する時によく観察したら、船は右側通行である。小さなモーターボートが左手を追い越して行ったが、水路出口の左舷前方には大きな貨物船が待機していた。戦艦大和などとうてい通れない狭い瀬戸なので、万一の接触・衝突で船が座礁したら、この瀬戸は封鎖されてしまう。だから予防策をとっているのだな、と思った。
帰りに給油したら満タンで出たのに10Lしか入らなかった。ガソリンはさらに値下がりして118円/Lになっていたので、たったの1180円。これでほぼ300キロを走ったことになる。一般道をトロトロ走るよりも、高速道を走る方が、燃費がよいことがわかった。
で、ケータイに取り溜めた写真を見たら、古いものも含めて100枚くらいあった。やり方がわかったので、今度まとめてメールで自分宛に転送するつもりだ。古いNECパソコンファイルもメール転送をかませれば、MACに互換できることは知識としては知っていたが、実際に成功したのは今回が初めてだ。これでひとつ利口になった。
写真1は自宅の机上でケータイからMACにメール転送したものだ。これも上手く行った。窮すれば通じるものだ。
12/6(日)の朝は8時過ぎに起きて風呂に入り、テレビの討論会を見たり、コーヒーを飲んでくつろいだ。新聞は「愛媛」を買って読んだが「修復腎移植」の記事は載っていない。
家内に土産を買おうと10時にチェックアウトし、「きさいや広場」の「道の駅」に行った。「じゃこ天」を売っている店に行くと、ゆで卵をじゃこ天でくるんだものとか、いろいろな種類があるので、違う品4種8個を買い、ついでにカツオのたたきも2人前買った。そしたら広島まで車で帰ると知り、発泡スチロールに氷詰めにしてくれた。なかなか親切だ。
ついでに戸口で見た「実習船えひめ丸」の遭難慰霊碑の場所を確かめたら、広場の一角にあるものは、客寄せに後から作られたもので、元のものは「宇和島水産高校」の校庭にあると教えてくれた。2001年2月にハワイ沖で急浮上した米原潜に引っかけられて、高校の実習船が沈没した痛ましい事故が起こった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%B2%E3%82%81%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E6%95%85
「水産高校の運動会は海の上でする。この広場は埋め立てる前は海で、昔はここが水産高校の運動会場だった」ことも知った。
車を走らせて海際にある水産高校に行くと、石の錨をあしらった立派な記念碑があった。
ついでに、すぐ対岸にある「宇和島予科練」の旧跡も訪ねた。カメラを今回は忘れたので、仕方なしにケータイで撮影した。「パソコンのケーブルはあるが、このケータイはMACに対応していないんだよな…」と思いつつも、ともかく画像をケータイに保存した。(写真1)

(写真1:えひめ丸慰霊碑。写真に入らなかったが左に慰霊文の碑銘石版があった。正面が海で、工場の位置に予科練の基地があった。)
右側に何と本物のペンキ塗りの捕鯨砲があった(写真2)。宇和島から捕鯨船が出ていた時代があったのか。

(写真2:捕鯨砲)
先端は滑らないように平坦になり、鯨に刺さったら抜けないように根元に鈎がついている。初め大砲かと思ったが、黒い銛を見て捕鯨砲だと気づいた。
11時半に宇和島道路に入り、一路松山を目指した。松山市内に入るとカーナビの音声ガイドに誘導されて難なく、港に着いた。13時15分を過ぎたところだったが、あいにく14:10までカーフェリーの便がない。手続きをすませて、コーヒーを飲み、日記を書き、頂き物の大きな本郷柿を食べたりして時間を過ごした。
船が動き出して、「こういうルートにしてよかった」と思った。2時間の運転休止時間があるというのは、リラックスできるし景色も楽しめるし、よかった。座席は先端の客席に座り、カバンに入れてきた「NEWSWEEK」先週号と今週号を読んだ。「国際テロ事件」の報道と解説にかけては、日本の雑誌の報道はとうていこれにかなわないだろう。花田◯◯は産経の「週刊誌時評」にこれも取りあげるべきだと思う。
行きの「石崎汽船」には船内に喫煙室があったが、「瀬戸内海汽船」は後部デッキに吹きさらしの喫煙所があるのみ。寒さに震えながら立って船尾を見ると、何と私の車が豆のように小さく見える。「これでも120キロ出して何ともないだけどな」と思いつつこれを撮影した。
その時、ふと思いついた。「これを自分宛にメールで送ればいいじゃないか…」。アイデアはよかったが、携帯でメールを送ったことがない。ともかく四苦八苦して、自分のメルアドを入力して送信した。ちゃんと送れた!(一服したからアイデアが出たのかな、と思う。)
呉港に着いて上陸したのが16:10、阿賀まで一般道を走り、その後「呉・東広島自動車道」を走って、途中給油して自宅には、17:30頃着いた。自宅←→宇和島市間は、陸路、フェリー、水中翼船—JRとどの方法をとっても、6時間はかかる。
戻ってさっそくメールをチェックした。撮影した画像はJPEGで25KBと小さかったが、ちゃんと届いていた。(写真3)

左下の3ナンバー車に比べると、私の赤い軽は小人みたいに見える。わざわざ真っ赤な車にしたのは、遠くからでも目立つようにと警戒色にしたのである。この時分、相手に目立つように私は午後4時をすぎたら、ヘッドライトも点灯する。
船首から乗り込んだので、船尾の先端に駐車した。降りる時は私の車が最初になった。
音戸の瀬戸を通過する時によく観察したら、船は右側通行である。小さなモーターボートが左手を追い越して行ったが、水路出口の左舷前方には大きな貨物船が待機していた。戦艦大和などとうてい通れない狭い瀬戸なので、万一の接触・衝突で船が座礁したら、この瀬戸は封鎖されてしまう。だから予防策をとっているのだな、と思った。
帰りに給油したら満タンで出たのに10Lしか入らなかった。ガソリンはさらに値下がりして118円/Lになっていたので、たったの1180円。これでほぼ300キロを走ったことになる。一般道をトロトロ走るよりも、高速道を走る方が、燃費がよいことがわかった。
で、ケータイに取り溜めた写真を見たら、古いものも含めて100枚くらいあった。やり方がわかったので、今度まとめてメールで自分宛に転送するつもりだ。古いNECパソコンファイルもメール転送をかませれば、MACに互換できることは知識としては知っていたが、実際に成功したのは今回が初めてだ。これでひとつ利口になった。
写真1は自宅の机上でケータイからMACにメール転送したものだ。これも上手く行った。窮すれば通じるものだ。
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