【修復腎移植第17例目】
第17例目の「臨床研究・修復腎移植」が12/4(金)宇和島徳州会病院で行われた。他人間では第13例目となる。ドナー(77歳)は径約1.5cmの腎がんを右腎門部に持つ広島県の男性で、2年前に左腎がんの部分切除を受けており、転移性腎がんも疑われた。
レシピエントはやはり広島県在住の透析患者(64歳男性)だ。メディア報道はここにある。
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/zokibaibai/ren101201512069713.html
12/4午後、呉共済病院で摘出術を受けた後、腎臓は「瀬戸内グループ」の西光雄医師によりはるばる陸路宇和島まで運ばれ、徳州会病院で修復腎移植が行われた。伊予大洲のあたりから電話が入り「今、運んでいる途中だが、腎動脈が3本もある動脈奇形があり、しかも腎がんそのものは腎臓の中にあるようで表面から見えない。これで腎移植ができるやろか?」という不安そうな話だったので、「なに、フォルトゥナ(幸運)の女神は、いまやわれわれの方に微笑んでいる。(臨床研究としての)最後の移植になるだろうが、きっと上手く行くよ」と励ましておいた。
その後、宇島徳州会病院から電話があり、「臓器が届いたので、午後9時から手術に入る。10時から記者会見。手術終了は午前1時を予定」ということだった。
翌日は15:00から宇和島市で市立宇和島病院名誉院長近藤俊文先生の「日本の腎臓病患者に夜明けを」(創風社)の出版記念講演会があり、その後16:00から祝賀会が予定されていたので、12/5は朝8:30に自宅を出て、呉港からフェリーに乗った。水中翼船だと50分で松山港に着くが、カーフェリーだと2時間かけて瀬戸内海を渡る。10時のフェリーに乗ると正午に松山港に着く。
着く直前に万波誠に電話を入れると、「難しいオペで、腎動脈の方は途中で吻合して3本を2本にして外腸骨動脈につないだが、腫瘍(明細胞性腎細胞がん:迅速遠隔画像転送で確認)が腎門部の脂肪組織の中に埋没していて、なかなか見つからなかった。結局朝3時までかかり、排尿が見られた午前5時まで、常勤医は全員待機していた」と眠そうな声がした。寝ているところを起こしてしまったらしい。
松山観光港に着くと市街地を経て松山自動車道—大洲自動車道—宇和島自動車道と走って、14:00にホテルに着いた。定宿にしているJR宇和島駅の並びにあるビジネスホテルだ。チェックインした後、同じく並びにあるコンビニに飲み物と「愛媛新聞」を買いに行った。残念ながら記事が載っていない。少し部屋で横になって休息した後、定刻少し前にタクシーで宇和島城の裏側(西側)にある会場の結婚式場に行った。
大宴会場の半分を仕切って10人用のテーブルが6つあり、後に椅子席が用意してあった。近藤先生の講演は、パワーポントを使ってのもので、大変学術的な内容だったが、スクリーンが小さく高い天井からすぐにぶら下がっており、レーザーポインタの容易がなく、残念だった。
祝賀会では武田元介さんや青山淳平さん、仲田篤敏さん、宮本直明さん、三好喜久子さんなどとも久しぶりにお話しする機会があった。
青山さんには、
青山淳平「腎臓移植最前」(光人社, 2007/5)
青山淳平「小説・修復腎移植」(本の泉社2013/9)
という「修復腎移植」支援の本があるほかに、今年の6月に
「ひめぎん:愛媛銀行創業百年史」(愛媛銀行私家版)
という素晴らしい本をまとめられた。日本の銀行というものは、トップダウンで西周か渋沢栄一あたりが初めてものと思っていた私は、この本を読んで大いに恥じた。
「頼母子講」や「無尽講」を母体とする庶民金融が、会社となることで生まれた民間銀行がある。愛媛県にはかつてそういう銀行がいくつもあり、それらが合併して生まれたのが「愛媛無尽銀行」、後の「愛媛銀行」だと初めて知った。宇和島には昭和7(1932)年に「南予無尽会社」が設立されている。
頼母子講と無尽講が、ノーベル経済学賞をもらったアマルチア・センの「グラミン銀行」と同じ原理で動いており、目的は庶民金融だと知り、本当に驚いた。子どもの頃、我が家は貧乏で母が「頼母子講」に入っていたが、「利息」とか「利子」という言葉は使わなかった。「配当金」と呼んでいたと記憶する。
ともあれ、この本を執筆した青山さんのおかげで、愛媛銀行会長中山紘治氏の「修復腎移植」への理解が大いに進んだとみえ、祝電披露と近藤先生への花束贈呈があった。人口7万人の宇和島市には愛媛銀行の支店が3つもあるそうで、そのうち支店長2名が私の隣に座っていて名刺交換をした。
祝賀会では依頼されて「修復腎移植の夜明けは近い」という冒頭スピーチをした。家を出がけに家内が用意してくれたワイシャツとダークスーツを着ずに、カラフルなウールのシャツと茶色のズボンとジャケットと身につけ、ポケットにネクタイを入れ、登山靴を履いて軽自動車で出かけようとする私に、「下流老人、暴走老人じゃね」と家内が皮肉を言った。だが、私はそれよりラフな服装の男が、会場に姿を現すのを確信していた。私だって靴はホテルでよそ行きの革靴にはきかえたのだ。
だが「修復腎移植」の主役、万波誠は黒いダウンのジャンパーと素足にサンダルという、いつもの格好で遅れて姿を現し、左隣に坐った。移植した患者の排尿が100ml/時間まで容態がよくなったので出席できた、という。本当に患者第一の男だ。愛車で来たからとビールも飲まない。「足が冷たくはないの」と聞くと、「いや、学生時代からこれだから慣れている」と答えた。
「それよりも先生の顔は、2006年の12月に御宅に伺った時は、鬼のような恐い顔をしていたが、いまは仏さまのような柔和な顔になった」という。
「当たり前だろう、あの時は一番こっちが追いこまれていた時だ。下部尿管がんの腎臓を移植したところ、レシピエントの腎盂に再発したが、患者が腎臓摘出を拒否したので、腎盂腫瘍の部分切除のみですませた。ところが、その後に肺腫瘍が発生し、その肝転移で死亡した例(症例4)について、尿管がんの遠隔転移によるものだと日本移植学会が病腎移植の危険性を主張していた例だ。
その真相を明らかにするために、私は必死で情報を集めていた。<三好メモ>とあんたの散髪屋さんへの電話で、死亡診断書が妻のところに保存されていて、「原発性肺がんの肝転移」だと明らかになった例だ。
WOWOWのドラマ<死の臓器>では、あんたの役を演じた武田鉄也が車を走らせて、死んだ患者の息子に会いに行き、死亡診断書を発見するという、かっこよい話になっていたが、実際は私に怒鳴られて必死で捜索したんじゃないか。
今はあの当時とは違う。私はその後、糖尿病が見つかったが、糖質制限食をやり高ケトン体血症になっている。正常値の10倍くらいケトン体(1300μMol/L)がある。高ケトン体血症になるとアシドーシスが起こり、危険だと教科書には書いてあるが、あれは腎不全がある場合のことだ。腎機能が正常の場合、何が起こるかというと、イライラが収まる。
脳は必要なエネルギーの75%まではケトン体を燃やしてまかなうことができるそうや。先天性の小児てんかんの治療に<ケトン食>というて、人工的に血中ケトン体の濃度を高める方法があるそうだ。つまり血糖値を低くして、ケトン体を高くすると、仮にニューロンが発火しても、隣近所のニューロンに波及しないので、てんかん発作が抑えられるわけだ。てんかんは一時に多数のニューロンが連鎖発火して大量のグルコースを消費し、全身のけいれんが起こるという病気や。血糖値が高いと起こりやすい。
そんで私みたいに主食抜き、脂質とタンパク質からカロリーを取る1日1食の生活をしとると、当然高ケトン体血症になる。しかし余分のニューロンが発火せんから、雑念は消え、集中力が高まるというわけや。ケトン体の代謝について書かれた本によると、高ケトン血症の場合、脳波を調べるとアルファ波が出やすいそうや。
アルファ波なんて、座禅を組んで瞑想にふけっている時に出るもんやが、座禅なんか組まないでも、今の私の脳はアルファ波が出とる。柔和な顔付きになって当たり前や」てな会話をした。
付記:ケトン体の話は下記を参照されたい。
1) 宗田哲生「ケトン体が人類を救う:糖質制限食でなぜ健康になるのか」(光文社新書)
2) 釜池豊秋「糖質ゼロの食事術:医者に頼らない!糖尿病の新常識」(実業之日本社)
今度の修復腎移植のレシピエントは、糖尿病性腎症で透析歴10年、移植しなければもうそろそろ死ぬところだった。体重が75キロあり、極端な肥満だそうで、万波さんには病院食を糖質制限食に切り換えるようにアドバイスしておいた。彼も興味深そうに私の話を聞いてくれた。
第17例目の「臨床研究・修復腎移植」が12/4(金)宇和島徳州会病院で行われた。他人間では第13例目となる。ドナー(77歳)は径約1.5cmの腎がんを右腎門部に持つ広島県の男性で、2年前に左腎がんの部分切除を受けており、転移性腎がんも疑われた。
レシピエントはやはり広島県在住の透析患者(64歳男性)だ。メディア報道はここにある。
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/zokibaibai/ren101201512069713.html
12/4午後、呉共済病院で摘出術を受けた後、腎臓は「瀬戸内グループ」の西光雄医師によりはるばる陸路宇和島まで運ばれ、徳州会病院で修復腎移植が行われた。伊予大洲のあたりから電話が入り「今、運んでいる途中だが、腎動脈が3本もある動脈奇形があり、しかも腎がんそのものは腎臓の中にあるようで表面から見えない。これで腎移植ができるやろか?」という不安そうな話だったので、「なに、フォルトゥナ(幸運)の女神は、いまやわれわれの方に微笑んでいる。(臨床研究としての)最後の移植になるだろうが、きっと上手く行くよ」と励ましておいた。
その後、宇島徳州会病院から電話があり、「臓器が届いたので、午後9時から手術に入る。10時から記者会見。手術終了は午前1時を予定」ということだった。
翌日は15:00から宇和島市で市立宇和島病院名誉院長近藤俊文先生の「日本の腎臓病患者に夜明けを」(創風社)の出版記念講演会があり、その後16:00から祝賀会が予定されていたので、12/5は朝8:30に自宅を出て、呉港からフェリーに乗った。水中翼船だと50分で松山港に着くが、カーフェリーだと2時間かけて瀬戸内海を渡る。10時のフェリーに乗ると正午に松山港に着く。
着く直前に万波誠に電話を入れると、「難しいオペで、腎動脈の方は途中で吻合して3本を2本にして外腸骨動脈につないだが、腫瘍(明細胞性腎細胞がん:迅速遠隔画像転送で確認)が腎門部の脂肪組織の中に埋没していて、なかなか見つからなかった。結局朝3時までかかり、排尿が見られた午前5時まで、常勤医は全員待機していた」と眠そうな声がした。寝ているところを起こしてしまったらしい。
松山観光港に着くと市街地を経て松山自動車道—大洲自動車道—宇和島自動車道と走って、14:00にホテルに着いた。定宿にしているJR宇和島駅の並びにあるビジネスホテルだ。チェックインした後、同じく並びにあるコンビニに飲み物と「愛媛新聞」を買いに行った。残念ながら記事が載っていない。少し部屋で横になって休息した後、定刻少し前にタクシーで宇和島城の裏側(西側)にある会場の結婚式場に行った。
大宴会場の半分を仕切って10人用のテーブルが6つあり、後に椅子席が用意してあった。近藤先生の講演は、パワーポントを使ってのもので、大変学術的な内容だったが、スクリーンが小さく高い天井からすぐにぶら下がっており、レーザーポインタの容易がなく、残念だった。
祝賀会では武田元介さんや青山淳平さん、仲田篤敏さん、宮本直明さん、三好喜久子さんなどとも久しぶりにお話しする機会があった。
青山さんには、
青山淳平「腎臓移植最前」(光人社, 2007/5)
青山淳平「小説・修復腎移植」(本の泉社2013/9)
という「修復腎移植」支援の本があるほかに、今年の6月に
「ひめぎん:愛媛銀行創業百年史」(愛媛銀行私家版)
という素晴らしい本をまとめられた。日本の銀行というものは、トップダウンで西周か渋沢栄一あたりが初めてものと思っていた私は、この本を読んで大いに恥じた。
「頼母子講」や「無尽講」を母体とする庶民金融が、会社となることで生まれた民間銀行がある。愛媛県にはかつてそういう銀行がいくつもあり、それらが合併して生まれたのが「愛媛無尽銀行」、後の「愛媛銀行」だと初めて知った。宇和島には昭和7(1932)年に「南予無尽会社」が設立されている。
頼母子講と無尽講が、ノーベル経済学賞をもらったアマルチア・センの「グラミン銀行」と同じ原理で動いており、目的は庶民金融だと知り、本当に驚いた。子どもの頃、我が家は貧乏で母が「頼母子講」に入っていたが、「利息」とか「利子」という言葉は使わなかった。「配当金」と呼んでいたと記憶する。
ともあれ、この本を執筆した青山さんのおかげで、愛媛銀行会長中山紘治氏の「修復腎移植」への理解が大いに進んだとみえ、祝電披露と近藤先生への花束贈呈があった。人口7万人の宇和島市には愛媛銀行の支店が3つもあるそうで、そのうち支店長2名が私の隣に座っていて名刺交換をした。
祝賀会では依頼されて「修復腎移植の夜明けは近い」という冒頭スピーチをした。家を出がけに家内が用意してくれたワイシャツとダークスーツを着ずに、カラフルなウールのシャツと茶色のズボンとジャケットと身につけ、ポケットにネクタイを入れ、登山靴を履いて軽自動車で出かけようとする私に、「下流老人、暴走老人じゃね」と家内が皮肉を言った。だが、私はそれよりラフな服装の男が、会場に姿を現すのを確信していた。私だって靴はホテルでよそ行きの革靴にはきかえたのだ。
だが「修復腎移植」の主役、万波誠は黒いダウンのジャンパーと素足にサンダルという、いつもの格好で遅れて姿を現し、左隣に坐った。移植した患者の排尿が100ml/時間まで容態がよくなったので出席できた、という。本当に患者第一の男だ。愛車で来たからとビールも飲まない。「足が冷たくはないの」と聞くと、「いや、学生時代からこれだから慣れている」と答えた。
「それよりも先生の顔は、2006年の12月に御宅に伺った時は、鬼のような恐い顔をしていたが、いまは仏さまのような柔和な顔になった」という。
「当たり前だろう、あの時は一番こっちが追いこまれていた時だ。下部尿管がんの腎臓を移植したところ、レシピエントの腎盂に再発したが、患者が腎臓摘出を拒否したので、腎盂腫瘍の部分切除のみですませた。ところが、その後に肺腫瘍が発生し、その肝転移で死亡した例(症例4)について、尿管がんの遠隔転移によるものだと日本移植学会が病腎移植の危険性を主張していた例だ。
その真相を明らかにするために、私は必死で情報を集めていた。<三好メモ>とあんたの散髪屋さんへの電話で、死亡診断書が妻のところに保存されていて、「原発性肺がんの肝転移」だと明らかになった例だ。
WOWOWのドラマ<死の臓器>では、あんたの役を演じた武田鉄也が車を走らせて、死んだ患者の息子に会いに行き、死亡診断書を発見するという、かっこよい話になっていたが、実際は私に怒鳴られて必死で捜索したんじゃないか。
今はあの当時とは違う。私はその後、糖尿病が見つかったが、糖質制限食をやり高ケトン体血症になっている。正常値の10倍くらいケトン体(1300μMol/L)がある。高ケトン体血症になるとアシドーシスが起こり、危険だと教科書には書いてあるが、あれは腎不全がある場合のことだ。腎機能が正常の場合、何が起こるかというと、イライラが収まる。
脳は必要なエネルギーの75%まではケトン体を燃やしてまかなうことができるそうや。先天性の小児てんかんの治療に<ケトン食>というて、人工的に血中ケトン体の濃度を高める方法があるそうだ。つまり血糖値を低くして、ケトン体を高くすると、仮にニューロンが発火しても、隣近所のニューロンに波及しないので、てんかん発作が抑えられるわけだ。てんかんは一時に多数のニューロンが連鎖発火して大量のグルコースを消費し、全身のけいれんが起こるという病気や。血糖値が高いと起こりやすい。
そんで私みたいに主食抜き、脂質とタンパク質からカロリーを取る1日1食の生活をしとると、当然高ケトン体血症になる。しかし余分のニューロンが発火せんから、雑念は消え、集中力が高まるというわけや。ケトン体の代謝について書かれた本によると、高ケトン血症の場合、脳波を調べるとアルファ波が出やすいそうや。
アルファ波なんて、座禅を組んで瞑想にふけっている時に出るもんやが、座禅なんか組まないでも、今の私の脳はアルファ波が出とる。柔和な顔付きになって当たり前や」てな会話をした。
付記:ケトン体の話は下記を参照されたい。
1) 宗田哲生「ケトン体が人類を救う:糖質制限食でなぜ健康になるのか」(光文社新書)
2) 釜池豊秋「糖質ゼロの食事術:医者に頼らない!糖尿病の新常識」(実業之日本社)
今度の修復腎移植のレシピエントは、糖尿病性腎症で透析歴10年、移植しなければもうそろそろ死ぬところだった。体重が75キロあり、極端な肥満だそうで、万波さんには病院食を糖質制限食に切り換えるようにアドバイスしておいた。彼も興味深そうに私の話を聞いてくれた。
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