ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【生き胆】難波先生より

2013-10-31 12:27:31 | 難波紘二先生
【生き胆】木下真弘「維新旧幕比較論」(岩波文庫)という本を捲っていたら、面白い記述に出くわした。
 1)オランダのライデン大学コレクション「写された幕末」の中に、横浜の刑場で打ち首にされた罪人の首が晒されている写真がある。首は「清水」とあった。この「比較論」の「編年」の項に、「明治4年、清水某を英人某を刺殺するをもって、斬に処す」とある。
 写真の雰囲気では幕末と思われたので、注を見ると「元治(げんじ)元(1864)年10月、矢田部藩士清水清次が英国士官2名を鎌倉で殺害し、翌年11月、横浜で斬首された、とあった。「谷田部藩」というのは今の「つくば市」にあった一万六千石の小さな藩である。藩祖は細川幽齋の次男で細川家(熊本の細川家と親類)だ。


 元治元年は、水戸天狗党の決起、京都の池田屋騒動、蛤御門の戦い、下関戦争などがあり、激動の年だった。脱藩浪士が異人を切ったところで、大きなニュースにはならなかったのだろう。調べたかぎりでは、この事件の犯人清水の首が写真に写されたことは書いてない。


 2)明治2年の項に、「罪囚の死骸につき胆を抜き、およびその死骸を撃ちて刀剣の利鈍を試みると禁ず」とある。
 「首切り浅右衛門」家のように、首切り役人には二つの副業があった。
 一つは大名から依頼された刀剣の試し切りで、これは首を刎ねる時に使うこともあったが、多くは死後死体を土段の上に載せ、「胴切り」して切れ味を試した。
 もう一つは、死後に胆のう、陰茎などを漢方医に、あるいは頭蓋骨を洋医に売り渡すことである。これについては岩波文庫:篠田鉱造「明治百話」に最後の山田浅右衛門による述懐が収められている。
 作家有島武郎の弟、里見は1888(明治21)年、横浜生まれだから斬首刑を見ていないが、その「ひえもんとり」(大正6発表)には、斬首刑の様子とその直後に「ひえもんとり」と称する「生き胆」取りの連中が殺到して、早い者勝ちの競争になることを示している。


 「ひえもんとり」競争では刃物を持つことが許されていないので、人体にある唯一の刃物、歯が勝負を決める。まず死体の右肋骨弓の下部にかぶりつき、腕が入る穴を開ける。そこから手を突っ込んで胆のうを探り当て、「えび茶色でナスのかたちをした」胆のうを引きちぎる。
 これに負けた者は第二の獲物を目指す。それは両足首にあるアキレス腱を包む、「石鹸の泡のような脂肪」である。これは持ち運びできないので、足首に齧り付いて、白い脂肪をジュルジュルと吸い出して呑みこむ。
 
 処刑のある日には、民衆がまるで芝居見物に出かけるように、「楽しい見ものがあるかのように、上機嫌になって、面白おかしい話をしながら」集まってきた、とある。この時処刑された男は「土佐訛り」であった、人の胆でつくった「浅右衛門丸」のことなら、この国の人間なら誰でも知っている、とあるから場所は横浜処刑場か、江戸の鈴ヶ森処刑場であろう。
 明治2(1869)年まで、1869このような慣行が許されていたとは信じられないが、多くの資料があり事実だろう。柳田国男「日本の昔話・伝説」には「猿の生き胆取り」の話は出てくるが、こういう残酷な話は収録されていない。「よい子」になっているのである。
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