【藤堂先生講演会】2/20(水)は確定申告に行く家内の車に同乗して、JR西条駅から列車で広島駅に行った。そこから路面電車でANAホテルに行き、宇和島から見えた近藤先生、広島の移植外科医の福田先生と昼食をともにした。福田先生、ご馳走様でした。
万波誠の腎移植は3月の第2週に1000例に達する見込みだ。これには院外で行った他施設での執刀数はふくまれていない。宇和島市立病院と徳洲会病院という勤務施設での移植数だ。その宇和島市立病院で第1例手術に協力したのが、広島大第二外科で福田先生はHLAを調べる技師のトレーニングまでやっている。
二人はなんと40年ぶりの再会だそうだ。お二人の話を聞いていると、日本の移植をダメにしたのが、小紫芳夫が牛耳る「日本臓器移植ネットワーク」の発足で、当時の厚生官僚を意のままに動かし、各地の移植医が作りあげていた「草の根移植ネットワーク」を潰して中央集権的組織を形成したのが諸悪の根源だという。
私の「第三の移植」原稿にも書き込んであるが、当時の移植学会理事長太田和夫(東京女子医大教授、故人)を追放し、移植医を排除するために仕組まれたのが「欠陥US腎事件」で、ユダが寺岡慧(移植学会前理事長)だ。アメリカのネットワークUNOSは地域の自主性を重んじたもので、移植医が中心にいる。その情熱が臓器確保の力となっているが、日本ではそれがない。野元などという現場を知らない基礎免疫学者と大久保という「患者貴族」が支配している。
食後、近藤先生と旧天満屋にある「丸善=ジュンク堂」まで歩いて行った。幸い晴天で、福富町と違い雪はなく暖かかった。トライアスロンで鍛えてある近藤先生の足取りはとても80歳には見えない。平和大通り(100メートル道路)を東に歩いたが、通りの北側はホテルなどの高層ビル街に変わっている。(何しろ広島市を離れて18年になる。)三川町交差点を左折し、「中央通り」という広島市をほぼ南北に走る大通りに入る。
ここはかつては「八丁堀」という繁華街に通じる目抜き通りで、地価も一番高かったのだが、両脇の店舗の品格も落ち、薄汚い感じに変わっている。南北に電車が通り、オフィスビルが林立し、百貨店そごうやリーガロイヤル・ホテル、市民病院、美術館、映像文化ライブラリー、地下街シャレオがあり、原爆ドームに歩いて行ける「紙屋町」のある「鯉城通り」の賑わいにはとうてい及ばない。広島市の重心は確実に西に移動している。
東広島市と違うのは若者の姿が少ないことだ。これは広島大学が東広島市に移転したためだ。学生のいない町にはあまり将来性がない。せいぜい観光客をあてにするしかあるまい。
かつての天満屋百貨店は閉店し、その後にはヤマダ電機と「丸善ジュンク堂」、それに9,10階にレストラン、11階に美容院が入っている。本屋に行って「岩波生物学辞典CD-ROM版」を返品し(MacOS9.0対応でOSⅩでは読めない)、岩波現代新書を10冊ばかり買い、配達を依頼する。「生物学」の棚にコルバート「脊椎動物の進化」や「日本産クモ類図鑑」を見つけたが、価格が3万円近くするので買うのをやめた。コルバートの本など、ペンギンブックの英語本なら2000円で入手できる。
店長の話によると、この店はもとは「丸善=ジュンク堂」だったのだが、ジュンク堂は広島駅前にあり、丸善はかつて「本通り」に店舗があり、知名度が高いので「丸善」に変更したとのこと。経営はジュンク堂で、親会社は「大日本印刷」だそうだ。
外商はなく、別店舗の「丸善外商部」が行っている、外商を通せば割引で商品を引き渡すという。次回からはそうすることにした。
8階の雑誌売場をのぞいて見たら、「天声人語書き写しノート」と「天風録」のそれとが並べて置いてあった。(添付1)開いてみると中はマス目のある白紙で、本でも雑誌でもない。「天声人語」の方は2011年から発売しているので、「天風録」は猿まねである。AMAZONにはこういう辛辣なレビューが載っている。
<マスコミ各社の報道姿勢が厳しく問われる昨今、自らを省みるどころか読者に書き写しを促すとは
おそろしく傲慢で厚顔無恥な社風に驚くばかりです。
このように立派な装釘のノートに書き写さずとも、「チラシの裏」でよいでしょう。森林資源の無駄遣いです。>
この「ノート」を自社新聞の「書籍ベストセラー」欄に載せるのだから、開いた口がふさがらない。学者なら「データ捏造」といわれるだろう。紙メディアはこうして自己の信用を落とし、自らの墓穴を掘っている。
その後、「コーヒーでも…」と9階のレスラン階に上がって見たが、気軽にコーヒーが飲める店でなかった。洋食と和食の2店舗があり、和食の方は「神楽坂」とあり「袋町公園」の近くにある小料理屋「神楽坂」の出店かと思われたが、「閉店」の看板が出ていた。で、丸善に引き返して、「タリーズ」でコーヒーを飲んだ。
近藤先生が、「軟らかくて美味いビフテキが晩飯に食いたい」といわれるので、考えたが「神石牛」を食わすところしか思いつかないので、広島駅裏にあるホテル・グランヴィアにある「神石」というステーキハウスに案内した。
ここは21階にあり、広島市の東半分がよく見わたせるのだが、2年ほど前に東側に「シェラトン・ホテル」ができて、眺望が妨げられるようになった。しかし夕暮れになると、夜景はきれいだった。手前が新幹線北口駐車場である。この左手の道路にそって県医師会館や広島県の「放射線治療センター」が作られ、医療ゾーンになる予定だ。(添付2)
ポケットに20倍ズームのカメラが入っていたので、望遠でホテルのレストランの窓を撮影してみると、客はほとんどいなかった。点灯した客室数は約40%、これで黒字が出るのだろうか?
近藤先生にご馳走になって、19時から医学部構内の同窓会館で開かれた藤堂省先生の講演会に出席した。約100人ほどの参加者があった。藤堂先生は23歳でピッツバーグに留学され、スターズルの下で移植術を学ばれた。1997年にピッツバーグ大教授から北大外科教授に移籍、北海道での臓器移植推進に努力された。
北海道の仕事は終わったので、今後は九州の1000床もある大きな民間病院で働かれるそうだ。
麻野涼『死の臓器』を贈呈したら、「修復腎移植は中四国をブロックとした新たな移植ネットワークが作られ、その中で取りあげられるだろう」と励ましの言葉をいただいた。
そのためにも、「紙の弾丸」として近藤先生の本をはやく世に出さなければいけない。
万波誠の腎移植は3月の第2週に1000例に達する見込みだ。これには院外で行った他施設での執刀数はふくまれていない。宇和島市立病院と徳洲会病院という勤務施設での移植数だ。その宇和島市立病院で第1例手術に協力したのが、広島大第二外科で福田先生はHLAを調べる技師のトレーニングまでやっている。
二人はなんと40年ぶりの再会だそうだ。お二人の話を聞いていると、日本の移植をダメにしたのが、小紫芳夫が牛耳る「日本臓器移植ネットワーク」の発足で、当時の厚生官僚を意のままに動かし、各地の移植医が作りあげていた「草の根移植ネットワーク」を潰して中央集権的組織を形成したのが諸悪の根源だという。
私の「第三の移植」原稿にも書き込んであるが、当時の移植学会理事長太田和夫(東京女子医大教授、故人)を追放し、移植医を排除するために仕組まれたのが「欠陥US腎事件」で、ユダが寺岡慧(移植学会前理事長)だ。アメリカのネットワークUNOSは地域の自主性を重んじたもので、移植医が中心にいる。その情熱が臓器確保の力となっているが、日本ではそれがない。野元などという現場を知らない基礎免疫学者と大久保という「患者貴族」が支配している。
食後、近藤先生と旧天満屋にある「丸善=ジュンク堂」まで歩いて行った。幸い晴天で、福富町と違い雪はなく暖かかった。トライアスロンで鍛えてある近藤先生の足取りはとても80歳には見えない。平和大通り(100メートル道路)を東に歩いたが、通りの北側はホテルなどの高層ビル街に変わっている。(何しろ広島市を離れて18年になる。)三川町交差点を左折し、「中央通り」という広島市をほぼ南北に走る大通りに入る。
ここはかつては「八丁堀」という繁華街に通じる目抜き通りで、地価も一番高かったのだが、両脇の店舗の品格も落ち、薄汚い感じに変わっている。南北に電車が通り、オフィスビルが林立し、百貨店そごうやリーガロイヤル・ホテル、市民病院、美術館、映像文化ライブラリー、地下街シャレオがあり、原爆ドームに歩いて行ける「紙屋町」のある「鯉城通り」の賑わいにはとうてい及ばない。広島市の重心は確実に西に移動している。
東広島市と違うのは若者の姿が少ないことだ。これは広島大学が東広島市に移転したためだ。学生のいない町にはあまり将来性がない。せいぜい観光客をあてにするしかあるまい。
かつての天満屋百貨店は閉店し、その後にはヤマダ電機と「丸善ジュンク堂」、それに9,10階にレストラン、11階に美容院が入っている。本屋に行って「岩波生物学辞典CD-ROM版」を返品し(MacOS9.0対応でOSⅩでは読めない)、岩波現代新書を10冊ばかり買い、配達を依頼する。「生物学」の棚にコルバート「脊椎動物の進化」や「日本産クモ類図鑑」を見つけたが、価格が3万円近くするので買うのをやめた。コルバートの本など、ペンギンブックの英語本なら2000円で入手できる。
店長の話によると、この店はもとは「丸善=ジュンク堂」だったのだが、ジュンク堂は広島駅前にあり、丸善はかつて「本通り」に店舗があり、知名度が高いので「丸善」に変更したとのこと。経営はジュンク堂で、親会社は「大日本印刷」だそうだ。
外商はなく、別店舗の「丸善外商部」が行っている、外商を通せば割引で商品を引き渡すという。次回からはそうすることにした。
8階の雑誌売場をのぞいて見たら、「天声人語書き写しノート」と「天風録」のそれとが並べて置いてあった。(添付1)開いてみると中はマス目のある白紙で、本でも雑誌でもない。「天声人語」の方は2011年から発売しているので、「天風録」は猿まねである。AMAZONにはこういう辛辣なレビューが載っている。
<マスコミ各社の報道姿勢が厳しく問われる昨今、自らを省みるどころか読者に書き写しを促すとは
おそろしく傲慢で厚顔無恥な社風に驚くばかりです。
このように立派な装釘のノートに書き写さずとも、「チラシの裏」でよいでしょう。森林資源の無駄遣いです。>
この「ノート」を自社新聞の「書籍ベストセラー」欄に載せるのだから、開いた口がふさがらない。学者なら「データ捏造」といわれるだろう。紙メディアはこうして自己の信用を落とし、自らの墓穴を掘っている。
その後、「コーヒーでも…」と9階のレスラン階に上がって見たが、気軽にコーヒーが飲める店でなかった。洋食と和食の2店舗があり、和食の方は「神楽坂」とあり「袋町公園」の近くにある小料理屋「神楽坂」の出店かと思われたが、「閉店」の看板が出ていた。で、丸善に引き返して、「タリーズ」でコーヒーを飲んだ。
近藤先生が、「軟らかくて美味いビフテキが晩飯に食いたい」といわれるので、考えたが「神石牛」を食わすところしか思いつかないので、広島駅裏にあるホテル・グランヴィアにある「神石」というステーキハウスに案内した。
ここは21階にあり、広島市の東半分がよく見わたせるのだが、2年ほど前に東側に「シェラトン・ホテル」ができて、眺望が妨げられるようになった。しかし夕暮れになると、夜景はきれいだった。手前が新幹線北口駐車場である。この左手の道路にそって県医師会館や広島県の「放射線治療センター」が作られ、医療ゾーンになる予定だ。(添付2)
ポケットに20倍ズームのカメラが入っていたので、望遠でホテルのレストランの窓を撮影してみると、客はほとんどいなかった。点灯した客室数は約40%、これで黒字が出るのだろうか?
近藤先生にご馳走になって、19時から医学部構内の同窓会館で開かれた藤堂省先生の講演会に出席した。約100人ほどの参加者があった。藤堂先生は23歳でピッツバーグに留学され、スターズルの下で移植術を学ばれた。1997年にピッツバーグ大教授から北大外科教授に移籍、北海道での臓器移植推進に努力された。
北海道の仕事は終わったので、今後は九州の1000床もある大きな民間病院で働かれるそうだ。
麻野涼『死の臓器』を贈呈したら、「修復腎移植は中四国をブロックとした新たな移植ネットワークが作られ、その中で取りあげられるだろう」と励ましの言葉をいただいた。
そのためにも、「紙の弾丸」として近藤先生の本をはやく世に出さなければいけない。
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