ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修復腎移植ものがたり (2)和霊神社】難波先生より

2014-08-25 12:30:11 | 修復腎移植ものがたり
【修復腎移植ものがたり (2)和霊神社】
 田尻部長が案内してくれた官舎は病院まで歩いて行ける距離にあった。焼け跡に建てられた平屋の急造住宅で、風呂、台所に四畳半の茶の間と六畳の畳部屋が付いていた。田尻も前はここに住んでいたが、今は別に家を借りていた。夫婦は荷物を車から降ろし、あり合わせのもので夕食を終えると風呂を沸かし、くつろいでその日を終えた。
 翌日は土曜日だったが、朝早く出勤すると田尻が院内の挨拶回りに連れて行ってくれた。昭和30(1955)年代までは皮膚科と泌尿器科は「皮膚・泌尿器科」といって、一つの診療科をなしていた。梅毒が多く、その病変は皮膚に来るので、皮疹の見分けがつかなければ、泌尿器の医者は務まらなかった。抗生物質の発達や「売春防止法」の施行(1958)により、梅毒が減少するのと軌を一にして皮膚科と泌尿器科が分離して行った。
 田尻葵矩夫は市立宇和島病院の初代の泌尿器科部長だった。男は山口大学出身で、その下についたのである。田尻は泌尿器科発足以来、ひとり医長として頑張ってきたが、新しく医員を迎え部下ができたので嬉しそうだった。病院長、副院長、内科、外科、皮膚科の部長たちが主な挨拶先だったが、すぐに終わった。
 男はいったん官舎に戻り昼食をすますと、買い物に行くという女を乗せて、国鉄宇和島駅前の商店街に向かった。商店街の入り口で女を下ろすと、昨日見かけた和霊神社に車を向けた。駅の北側が和霊元町で、駅舎の西南端から神社に通じる道路があった。昨日通った大橋の下手にある神幸橋で須賀川を渡ると、右岸の崖上にある神社が目の前に見えた。川岸の駐車場に車を止めると、歩いて石段を登り拝殿の前に出た。賽銭箱の傍らで綱を引き、鈴を鳴らした後、ポケットの硬貨を投じると、男は二拍、二礼して家内安全と夫婦和合を祈った。庭を掃除していた初老の神主が石灯籠の脇に立ち、目を細めるようにして後ろから見つめていた。
 参詣を終え、はじめて神主に気づいた男は、あいさつしながら近寄ると自己紹介し、神社のいわれについて尋ねた。男は丸顔で、ひとの警戒心を解きほぐす笑顔をいつも湛えている。山口から市立病院に来たばかりの新しい医者だと知ると、神主も「それは、それは」と男をねぎらい、一息いれると語り始めた。
 「ご承知かとは思いますが、仙台から伊達政宗公の長男で庶子の秀宗公が入城され、以後、伊達藩十万石の城下町として明治維新まで続いたのが、この宇和島という町であります。最後の第八代藩主が宗城(むねなり)公で、洋学を奨励し、逃亡中の高野長英を一時かくまったりもしておられます。シーボルトの娘イネに「楠本」という姓を与えてもおられます。
 ここ南伊豫は戦国の昔、宇和郡と呼ばれておりました。宇和島市のあるこのあたりは板島郷といい、わずか七ヵ村しかなかったのです。いま城がある丘がかつての板島です。ここに最初に城を築いたのは西園寺公広(きんひろ)という、宇和郡をあまねく支配していた戦国大名です。九州から渡海して攻めてくる大友宗麟の水軍を防ぐため、永禄三(1560)年、板島に丸串城を築いたのでございます。しかし天正十(1582)年、毛利元就に攻められて西園寺氏は滅び、板島は毛利領になりました。秀吉の死後、家康についた藤堂高虎に慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦の後、伊豫二十万石が与えられ、板島には鶴島城とよばれるさらに立派な城が築かれました。
 その後、元和元(1615)年に伊達家から初代秀宗さまが入城されるまでの十五年間に、三人も領主が変わりました。板島が宇和島に、宇和郡が宇和島藩へと名前が変わったのは、秀宗公が家康から宇和郡を所領として与えられて、六年後のことでございます。これが当神社のいわれと深いかかわりがあるのでございます。
 ここは闘牛が有名でして、戦争中ここに疎開していた獅子文六さんが『大番』という小説に書かれ、映画にもなりました。闘牛は当神社の夏の祭礼の余興として始まったものが、独自の発展をとげたものであります。間もなく夏祭りですが、秋祭りには「牛鬼」というて、四つ足で胴体と首が牛、顔には鬼の面をかぶった獅子が出て参ります。牛鬼は、「もーに」と読みます。牛はモーと鳴き、顔がオニだからですかのう。子供の頃、祖父からそう聞かされました。はい、祖父もやはり神主でございました。
 政宗公は、長男秀宗が家康公の命により、遠く離れた四国へ移されるとき不憫に思われ、もっとも優秀な家臣山家(やんべ)清兵衛を付き家老とされたのであります。
 それが恐ろしい事件につながったのです。」(続)
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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-08-26 21:26:47
難波先生
初めまして、耳管開放症から聴覚過敏になり片頭痛になって少し落ち着いてきたものです。
殆ど家の中にいるので先生の便りなるものがとても楽しみです。電子辞書で熟語もたくさん調べましたし、ノートにも書きました。
何も知らなかったのですが、とても知りたいと思うようになりました。
ありがとうございます。
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Unknown (Unknown)
2014-08-26 21:27:58
難波先生
初めまして、耳管開放症から聴覚過敏になり片頭痛になって少し落ち着いてきたものです。
殆ど家の中にいるので先生の便りなるものがとても楽しみです。電子辞書で熟語もたくさん調べましたし、ノートにも書きました。
何も知らなかったのですが、とても知りたいと思うようになりました。
ありがとうございます。
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修復腎移植のこと (からしだね)
2014-08-27 12:18:12
近頃連日投稿させていただいております。
私が先生のブログの存在を知りましたのは、他の多くの方々と同じくSTAP事件がきっかけです。STAPに関心を持ちましたのも実はかなり遅く、3月の末ごろからだったと思います。
最初の頃はSTAP関連ばかり読んでいましたが、最近それ以外のトピックも読ませていただいております。
実は、私の親類にもう20年くらい透析を続けている従兄がおります。私の父が転勤族だった関係で、私の家族だけ親類縁者とは遠く離れて住んでおり、あまり交流はありません(この従兄とも子供の頃1度会ったきりです)。しかし先生がこのご活動を熱心にされていることを知り、私なりにこれから少しずつ読ませていただこうと思いました(偶然ですが私の両親は愛媛の出身で、この従兄も愛媛に住んでおります)。
この活動について何も知りませんでしたので、これから先生のブログを通じ、勉強させていただこうと思います。従兄にも何かプラスになることが伝えられたらと思います。透析を始めてもうずいぶんになりますので、難しいのかもしれませんが、、、。
これも何かのご縁ですのでよろしくご指導ください。
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