【夜郎自大】
昔、前漢の時代に中国南西部に「夜郎国」という南蛮の小国があった。漢の天子の使いが初めて夜郎国を訪問した時「この国と漢とどっちが大きいか?」と夜郎国王が質問したという故事から「夜郎自大」ということわざが生まれた。「井の中のかわず」や「身の程知らず」の類義熟語だ。「世界の故事名言・ことわざ:総解説」(自由国民社)、「小学館・国語大辞典」には夜郎自大の項があるが、いずれも出典が『史記列伝・西南夷列伝』とあるだけで、詳しいことがわからない。日本の「日本語語源広辞典」(ミネルヴァ書房)にはこの項目がない。
仕方なく書架の岩波文庫『史記列伝・全5冊』の第4分冊にある「第56巻:西南夷列伝」を読みに行った。ここには漢の南端にある小国「滇(てん)」と滇の東に「夜郎」という小王国があった。漢の使者が最初に行ったのは「滇王国」だと書いてある。
<滇王は漢の使者と話をしていた時に、「漢とわが国とどちらが大きいかね」といった。夜郎侯の場合も同じであった。>(p.150) 当時は滇と夜郎を漢の首都長安を結ぶ陸路がなく、滇王も夜郎王も漢土の広さを知らなかったのだ。ただ日本最初の国語辞典「大槻文彦・言海」(明治24年)にはこの成語が載っておらず、「やろう」は「野郎」・「夜郎」と並記され「男子を蔑み呼ぶ語」とある。「藤堂明保・学研漢和大辞典」(1978)には、「夜郎自大」の項目があるが、説明は「小学館・国語大辞典」と同様だ。
思うに「史記列伝」の記載では、漢使に最初に「自大」な質問をしたのは「滇王」であり、ついで同じ愚問を発したのが「夜郎王」だから、成句としては「滇王自大」であるのが自然だ。そうならなかったのは何故だろう?
これを解くヒントは意外にも「諸橋轍次・中国古典名言集」(講談社学術文庫, 1979)にあった。これには「夜郎自大」の項目があるが、「史記列伝・西南夷伝」から以下のように原文を引用している。
「〔夜郎最大〕、滇王與漢使者言曰、漢孰與我大、(中略)不知漢廣大」
WIKIによるとこの箇所の原文はこうなっている。
【白文】滇王與漢使者言曰 漢孰與我大 (及夜郎侯亦然 以道不通故各自以為一州主) 不知漢廣大
【訓読文】滇王、漢の使者に言いて曰はく、「漢と我と、孰れが大なるか」と。夜郎侯に及びても亦然り。道の通ぜざるが故、各自ら一州の主と為るをもちて、漢の廣大なるを知らず。
「夜郎最大」という語句は諸橋が〔〕内に示す位置にはなく、「西南夷伝」冒頭に
「西南夷君長以什數,夜郎最大」(西南夷の首長は十指をもって数え、夜郎が最大である)という文章中に出て来る。諸橋は原文を勝手にいじって、〔夜郎最大〕という語句を別の箇所に挿入し、(及夜郎侯亦然 以道不通故各自以為一州主)という文章を(中略)としてカットしたのだろう。
「岩波・古語辞典」(1974)によると「やらう(野郎)」の初出は「日葡辞典」で、「田舎者」の意、鹿児島方言で「男子」の意だったという。(本辞典には「夜郎自大」はない。)「小学館・日本語源大辞典」(2005)によると、「野郎」の初出は「浮世草子・懐硯」(1687)だとある。しかしこの辞書に「夜郎」は載っていない。中国の成句に「夜 郎自大(yèláng-zìdà)」があるらしいが、中国起源かどうか不明だ。
欧米の大型辞書には語句の起源(出典、初出)が書いてある(もっともその大部分がラテン語かギリシア語だ)が、日本語の辞書には初出用例と出典まで載っているものがきわめて乏しい。興味深いのは「三省堂・広辞林第5版」(1973)には「夜郎自大」と「夜郎大」が同義語として載っていることだ。念のために「岩波・広辞苑第3版」(1983)も調べるとやはり「夜郎自大」と「夜郎大」が同義語としてあった。この辞書の第4版(1991)には「夜郎自大の考え」という用例が付加されている。恐ら当初は「事大」と「自大」を区別するために「夜郎大」という言葉があったのだと思われる。「小学館・国語大辞典」(1988)には「夜郎自大」以外は載っていない。
従って、「夜郎自大」という成句は明治20年代にはなく、それ以後に誕生し、1970年代までに過剰な自己肥大を意味する成句として普及したと思われる。
(WIKIによれば、日本史学者原勝郎(1871〜1924)が「安倍康季が日之本將軍と稱したのでも其一斑を窺はれる。此日之本將軍といふ名稱は、多分蝦夷を威かす爲めに用ゐたのであらうけれど、それにしても可笑しく立派過ぎて、夜郎自大の譏りを免れない。」(原勝郎 『日本史上の奧州』)という文脈で用いたのが最初とある。使用箇所はここだけ。(この論文は「青空文庫」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001037/files/44427_38008.html
で読める。刊本は「日本中世史の研究」同文館, 1929(昭和4)。)
原勝郎は日本史に「中世」という概念を導入した学者である。
これは仮説だが、「田夫野人」の意味で「夜郎」という言葉が誕生したのが江戸の中期で、明治24年「大槻文彦・言海」が出版された頃には「夜郎自大」という熟語はまだなかったと考えられる。
岩波文庫「史記・南夷列伝」の刊行は1975年だが、本文を素直に読むかぎり、「自大」だったのは滇国の王と夜郎国の王だったと考えられる。「諸橋轍次・中国古典名言集」(1979)が勝手に原文をいじって一部を省略し、「夜郎最大」という語句を挿入したことが、「夜郎自大」という語句の成立と関係しているように思う。ともかくこの語句は「史記列伝」の原文にはない。
「やろう」が日本語の「野郎」に通じるところから、「滇(てん)自大」と唱えるのは日本語の語呂がよくないので、野郎との連想もあって「夜郎自大」という語句表現が生まれたのではないかと思う。原勝郞がこの語句の初使用者だとすると初出は昭和4(1929)年ということになる。
いや語句の詮索でずいぶん脇道してしまった。しかし脇道にも三文の得がある。
「史記列伝」で糖尿病の古語を知るとは思わなかった。これは事項に書く。
昔、前漢の時代に中国南西部に「夜郎国」という南蛮の小国があった。漢の天子の使いが初めて夜郎国を訪問した時「この国と漢とどっちが大きいか?」と夜郎国王が質問したという故事から「夜郎自大」ということわざが生まれた。「井の中のかわず」や「身の程知らず」の類義熟語だ。「世界の故事名言・ことわざ:総解説」(自由国民社)、「小学館・国語大辞典」には夜郎自大の項があるが、いずれも出典が『史記列伝・西南夷列伝』とあるだけで、詳しいことがわからない。日本の「日本語語源広辞典」(ミネルヴァ書房)にはこの項目がない。
仕方なく書架の岩波文庫『史記列伝・全5冊』の第4分冊にある「第56巻:西南夷列伝」を読みに行った。ここには漢の南端にある小国「滇(てん)」と滇の東に「夜郎」という小王国があった。漢の使者が最初に行ったのは「滇王国」だと書いてある。
<滇王は漢の使者と話をしていた時に、「漢とわが国とどちらが大きいかね」といった。夜郎侯の場合も同じであった。>(p.150) 当時は滇と夜郎を漢の首都長安を結ぶ陸路がなく、滇王も夜郎王も漢土の広さを知らなかったのだ。ただ日本最初の国語辞典「大槻文彦・言海」(明治24年)にはこの成語が載っておらず、「やろう」は「野郎」・「夜郎」と並記され「男子を蔑み呼ぶ語」とある。「藤堂明保・学研漢和大辞典」(1978)には、「夜郎自大」の項目があるが、説明は「小学館・国語大辞典」と同様だ。
思うに「史記列伝」の記載では、漢使に最初に「自大」な質問をしたのは「滇王」であり、ついで同じ愚問を発したのが「夜郎王」だから、成句としては「滇王自大」であるのが自然だ。そうならなかったのは何故だろう?
これを解くヒントは意外にも「諸橋轍次・中国古典名言集」(講談社学術文庫, 1979)にあった。これには「夜郎自大」の項目があるが、「史記列伝・西南夷伝」から以下のように原文を引用している。
「〔夜郎最大〕、滇王與漢使者言曰、漢孰與我大、(中略)不知漢廣大」
WIKIによるとこの箇所の原文はこうなっている。
【白文】滇王與漢使者言曰 漢孰與我大 (及夜郎侯亦然 以道不通故各自以為一州主) 不知漢廣大
【訓読文】滇王、漢の使者に言いて曰はく、「漢と我と、孰れが大なるか」と。夜郎侯に及びても亦然り。道の通ぜざるが故、各自ら一州の主と為るをもちて、漢の廣大なるを知らず。
「夜郎最大」という語句は諸橋が〔〕内に示す位置にはなく、「西南夷伝」冒頭に
「西南夷君長以什數,夜郎最大」(西南夷の首長は十指をもって数え、夜郎が最大である)という文章中に出て来る。諸橋は原文を勝手にいじって、〔夜郎最大〕という語句を別の箇所に挿入し、(及夜郎侯亦然 以道不通故各自以為一州主)という文章を(中略)としてカットしたのだろう。
「岩波・古語辞典」(1974)によると「やらう(野郎)」の初出は「日葡辞典」で、「田舎者」の意、鹿児島方言で「男子」の意だったという。(本辞典には「夜郎自大」はない。)「小学館・日本語源大辞典」(2005)によると、「野郎」の初出は「浮世草子・懐硯」(1687)だとある。しかしこの辞書に「夜郎」は載っていない。中国の成句に「夜 郎自大(yèláng-zìdà)」があるらしいが、中国起源かどうか不明だ。
欧米の大型辞書には語句の起源(出典、初出)が書いてある(もっともその大部分がラテン語かギリシア語だ)が、日本語の辞書には初出用例と出典まで載っているものがきわめて乏しい。興味深いのは「三省堂・広辞林第5版」(1973)には「夜郎自大」と「夜郎大」が同義語として載っていることだ。念のために「岩波・広辞苑第3版」(1983)も調べるとやはり「夜郎自大」と「夜郎大」が同義語としてあった。この辞書の第4版(1991)には「夜郎自大の考え」という用例が付加されている。恐ら当初は「事大」と「自大」を区別するために「夜郎大」という言葉があったのだと思われる。「小学館・国語大辞典」(1988)には「夜郎自大」以外は載っていない。
従って、「夜郎自大」という成句は明治20年代にはなく、それ以後に誕生し、1970年代までに過剰な自己肥大を意味する成句として普及したと思われる。
(WIKIによれば、日本史学者原勝郎(1871〜1924)が「安倍康季が日之本將軍と稱したのでも其一斑を窺はれる。此日之本將軍といふ名稱は、多分蝦夷を威かす爲めに用ゐたのであらうけれど、それにしても可笑しく立派過ぎて、夜郎自大の譏りを免れない。」(原勝郎 『日本史上の奧州』)という文脈で用いたのが最初とある。使用箇所はここだけ。(この論文は「青空文庫」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001037/files/44427_38008.html
で読める。刊本は「日本中世史の研究」同文館, 1929(昭和4)。)
原勝郎は日本史に「中世」という概念を導入した学者である。
これは仮説だが、「田夫野人」の意味で「夜郎」という言葉が誕生したのが江戸の中期で、明治24年「大槻文彦・言海」が出版された頃には「夜郎自大」という熟語はまだなかったと考えられる。
岩波文庫「史記・南夷列伝」の刊行は1975年だが、本文を素直に読むかぎり、「自大」だったのは滇国の王と夜郎国の王だったと考えられる。「諸橋轍次・中国古典名言集」(1979)が勝手に原文をいじって一部を省略し、「夜郎最大」という語句を挿入したことが、「夜郎自大」という語句の成立と関係しているように思う。ともかくこの語句は「史記列伝」の原文にはない。
「やろう」が日本語の「野郎」に通じるところから、「滇(てん)自大」と唱えるのは日本語の語呂がよくないので、野郎との連想もあって「夜郎自大」という語句表現が生まれたのではないかと思う。原勝郞がこの語句の初使用者だとすると初出は昭和4(1929)年ということになる。
いや語句の詮索でずいぶん脇道してしまった。しかし脇道にも三文の得がある。
「史記列伝」で糖尿病の古語を知るとは思わなかった。これは事項に書く。
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