ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【中古DVD】難波先生より

2014-01-09 12:31:16 | 難波紘二先生
【中古DVD】で「太平洋の奇跡」(東宝, 2011) を観賞した。約2時間。
 1944年6月13日から開始された米軍のサイパン島攻略戦と7月7日の最後の日本軍による総攻撃と7月9日、米軍による「サイパン占領」の宣言以後に、ゲリラ戦を戦った「フォックスと呼ばれた男」の物語だ。
 映画についてはWIKIに詳しい説明がある。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/太平洋の奇跡_-フォックスと呼ばれた男-


 もとが「レンタル用DVD」なので、2本の予告編をスキップできない(一時停止もメニュー画面も「無効」と出る)という欠点があるが、予想していたような録画面の傷により、再生が中断するということはなかった。


 それより目立ったのは、日本軍の装備、戦闘方法などについての「考証不備」だった。ジャケットには時代考証担当者の名前がない。
 原作はよくできているのだが、監督に才能がない。米側が監督した部分はよくできている。英語もきれいで字幕を見ないでもわかる。
(元もと1960年代までの標準米語は、英国英語に近かった。あの頃のアメリカ映画を見れば、それがよくわかる。)


 サイパン島はグアム、テニアンと並んで「マリアナ諸島」の一つで、「小笠原諸島」の南方にある。


 1521年マゼランが「発見」、スペイン領となった。
 1898年の米西戦争により、米国がグアム島をスペインより奪った。
 1899年、スペインはカロリン諸島、マーシャル諸島およびグアムを除くマリアナ諸島をドイツに売却した。(400万ドル)
 1914年、第一次大戦に英米側で参戦した日本は、南洋のドイツ領を占領した。
 1919年、パリ講和条約および国際連盟の発足に伴い、グアムを除く上記諸島が日本の「委任統治領」となる。以後、サイパンではサトウキビ栽培が盛んとなり、「南洋興発」という会社ができ、多数の日本人が移住した。サイパン戦直前には、島の平地面積の70%をサトウキビ畑が占めていた。


 サイパン島は南北に長い島で、中央北寄りに高さ約500メートルの「タポチョー山(Mt.Tapocau)があり、この北側に東西に延びる「死の谷」と呼ばれた渓谷がある。島全体は火山性隆起によりできたもので、西海岸にはよく発達したリーフがある。島北端は断崖絶壁で、洞窟が沢山ある。


 1935年以後、日本軍は島の南北に飛行場を、西海岸に水上機用の基地を建設した。
 1941年の太平洋戦争開始にともない、東条内閣はこの島を「絶対国防圏」の南端と位置づけた。マリアナ諸島のテニアン、サイパンが米軍の手に落ちると、ここに飛行場を作れば、小笠原諸島の硫黄島を日本軍が保持していても、米軍は爆撃機B29を使用して、日本本土を爆撃することが可能となる。


 しかし、日本軍がマリアナ諸島及び小笠原諸島の防衛にあたる「第31軍」を新設したのは、1944年2月。サイパン防衛に当たる第43師団を名古屋から配置換えしたのは4月のことで、米軍上陸のわずか2ヶ月前だ。在留邦人の引き揚げは第一陣が、潜水艦の攻撃により全滅したためストップしていた。
 以上がサイパン島略史である。



 (以下、映画を見て、変だと思った点をあげる。私が間違っていたら、ご指摘ください。)


 ★1:7月6日10:00に、一緒に指令部洞窟で自決したのは、南雲忠一(中部太平洋方面艦隊司令長官、第14航空艦隊司令長官=名目上のサイパン防衛軍司令官、海軍中将)、斎藤義次(第43師団長、陸軍中将)、井桁啓司(第31軍参謀長、陸軍少将)の3人。が、映画では4~5人が自決するように描かれている。


 介錯は形だけの切腹の直後に、拳銃で後頭部項(うなじ)のところを撃つので、射入孔から血は飛び散らない。(映画では血がドバッと飛び散る。)


 相手が正座しているから、介錯人は立て膝をし、拳銃を項に押し当てるように発射しないと、一発で即死させられない。介錯人が立位だと距離が1メートル近くなり、射入角が45度下向きになり、脳幹部を破壊できない。また、この距離での命中率は100%でない。
 映画では、介錯人の副官らはいずれも立位で、腕を伸ばして拳銃を発射している。


 ドン・ジョーンズの本では自決者が4~5人となっている。しかし、トーランドは、自決用の新しい洞窟を探し、斎藤中将の自決を介助(ピストルで項を撃つ)した平櫛孝陸軍少佐(前指令部報道係)の証言を引用し、平櫛は他の2将軍が同時に自決するのを目撃したとしている。


(平櫛の手記=後出 によると「斎藤中将を真ん中に、右に南雲中将、左に井桁少将がはるかに祖国に面して正座した」とある。)
 平櫛は総攻撃で重傷を負い、意識不明のまま米軍捕虜となった。(この話はジョン・トーランド「大日本帝国の興亡3:死の島々」(早川文庫)には書いてある。トーランドの書は1970年刊で、ジョーンズの本書は1979年日本語で最初に出版されているので、ジョーンズにはトーランドの本を調べる時間があったはず。

 脚本執筆者は、ちゃんと文献リサーチをしないといけない。)
 
 ★2:日本陸軍の軍服はカーキ色なのに、米海兵隊と同じ濃い草色の軍服を着ている。また全員が胸に階級章を付けたまま攻撃に参加している。
 空の水筒を腰に付けたまま突撃している。これらはいずれもありえないことだと思う。それに、陸軍特有の「兵隊言葉」がぜんぜん出て来ないのもおかしい。米軍の英語には出てくる。この違いは、日本側と米軍側で映画監督が違うためであろう。


 降伏のために隊伍を組んで下山するシーン(添付1)を見ると、シャツの胸または襟に階級章がついている。陸軍は布地が赤で、兵は★の数で階級を、下士官は中央の金筋と★の数で階級を、尉官は上下の金モールがこれに加わる。主人公の大場大尉は胸章に三つ星、赤字、モールがあるので階級と合致している。


 左先頭は上等兵の胸章をつけている。その後は黒字の胸章に三つ星。それにベルトの上にもうひとつ革ベルトを付けている。丸いバックルでないから、海軍か?ズボンも青い色をしている。そうだとしたら、先頭は海軍のズボンをはいた陸軍上等兵なのか?
 略帽にも階級章がつくはずだが、付いているのは大場大尉の帽子だけ…。
 長袖シャツを着ているのは、丸い眼鏡をかけた、神主出身の池上上等兵だけ。いずれも汚れや穴のないこざっぱりした清潔なシャツである。
 1年半もジャングル戦をやった部隊とは思えない。


 大場大尉を含め、全員がすねにゲートル(巻脚絆)を付けている。これは兵隊用の装備で、将校は「革脚絆」を使用する。
 戸井昌造「戦争案内」(平凡社ライブラリー)には、学徒動員第1回生で、大陸線線に送られた画家戸井の「兵隊と将校」の服装、装備、待遇etcが美事なスケッチにより解説されている。


 米兵の狙撃シーン写真を見ると、左撃ちしている例があるが、日本軍は左利きにも右に銃を担がせたのであろうか?全員が右肩に銃を担っている。


 ★3:負傷のため、最後の総攻撃に参加できない最下級の下士官(胸章から見て伍長)が、拳銃で自殺する場面が出て来る。が、伍長が拳銃を持つことは出来るのか。武器は厳重に管理されているはず。
 歩けない兵士には、8人に1個の割合で、自決用の手榴弾が与えられたのが実際である。


 ★4:隠れている洞窟に米軍が迫り、応戦する場面では戦闘帽なのに、総攻撃の時は鉄兜をかぶり、その上に日の丸がついた鉢巻をしている。こんな馬鹿な話はない。敵に射撃の的を与えるようなものだ。鉢巻は頭を圧迫して、神経を集中するために使用するものだ。お飾りではない。


 ★5:最後の総攻撃に生き残った大場大尉が、山に引き上げる途中で壊れた民家に立ち寄り、置き去りにされた網カゴの中に、生後半年くらいの赤児を見つけ、米軍が発見しやすいように、軒下に赤い布をくくりつける。
 その前に大尉は、腰からパンをとりだし、千切って水筒の水に浸し、赤ん坊に食べさせてやる。兵隊の食糧は乾パンで、あの状況下で「焼いたパン」を持っているはずがない。
 半年後、看護婦の青野千恵子が捕虜収容所でこの赤ん坊に会うが、ぜんぜん成長していない(同じ赤ん坊)。こんなこともありえない。
 1945年12月、降伏した大場大尉は青野が抱く、同じ赤ん坊に再会するが、これも全然成長していない。つまり三つのシーンは、ほとんど同時に撮影されている。


 ★6:サイパン島防衛の任を帯びた第43師団は、1944年5月末に2船団にわかれて、名古屋港から出港した。第1船団は無傷で到着した。が、第2船団(歩兵第118連隊)は7隻中5隻が潜水艦攻撃により沈没し、武器・弾薬・装備食糧を失い、サイパン到着兵員数はほぼ丸腰の約5,500人にすぎなかった。
 このためサイパン守備軍は、
 陸軍= 2万5,500名
 海軍= 6,200名
 であったが、飛行場拡充のための設営隊が含まれており、戦闘要員はもっと少なかった。原住民(チャモロ族)4,000人および在留日本人3万3,000人を合わせた民間人の数よりも少なかった。しかも陸軍の大部分は島に着いたばかりで、戦闘訓練はできていないし、地形も熟知していなかった。


 そこに艦砲射撃と空爆に援護されて、上陸戦闘を専門とする海兵隊3個師団と陸軍1個師団をあわせて7万1000人以上が上陸したのだから、はじめから勝負はついていた。だから、
 6月15日=米海兵隊上陸
 同夜:日本軍の総攻撃(全滅)
 6月16日夜:日本軍残存部隊の総攻撃(全滅)
 7月6日:日本軍指令部自決
 7月7日:残存兵力約1,000人と民間人3,000人が「自殺攻撃」。
  攻撃に加わらなかった民間人は崖から飛び降り自殺。
  (サイパンにおける組織的戦闘の終了)
 7月9日:米軍による「サイパン占領」の宣言
 となったわけである。
 映画ではこの辺の事情が、予備知識になるように描かれていない。


 ★7:1945年8月15日の天皇の「玉音放送」以後、米軍機が戦争の終結を告げ、降伏勧告のビラを飛行機から播き、それを読んだ大場大尉自ら捕虜収容所に潜入し、作成に協力した日本人に会い、日本本土が焦土と化しているのは事実かと尋ねる場面がある。


 事実と知りながら、なおも抗戦する動機が不明である。
 ビラを読んだ兵士が、小銃用着剣で喉をついて自殺しようとするシーンが出てくる。傍に三八式歩兵銃が置かれている。通称「ゴボウ剣」は1年以上にわたる山中での自活生活で、剣先も刃先も鈍化しているはずで、自決するなら銃口を口にくわえ、硬口蓋に当て、足の指で引き金を引くのが普通である。


 ★8:大場隊を降伏させるため、トラックにラウドスピーカを積み、若い男性歌手が歌う島崎藤村「椰子の実」を流し、郷愁を誘う場面が出て来る。これは二つの理由からありえない。
 第一。この頃はテープレコーダーはなく、まだ針金式録音機の時代で、きれいな音が出せない。蓄音機でレコードを廻すのが普通。すると走行トラックだと、レコードから針が飛んでしまう。録音盤を聞かせるのなら、停車して行うのが常識。



 第二。「椰子の実」の作詞は古く明治時代にさかのぼるが、岩波文庫「藤村詩抄」が出てひろく知られるようになったのが昭和2年。NHKの依頼で大中寅二が作曲し、「国民歌謡」になったのが昭和11年。歌ったのは東海林太郎で、レコードも彼の歌唱でポリドールから出ている。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/椰子の実


 従って、大場隊が米軍の流す「椰子の実」を聴くのであれば、それは東海林太郎の声でないとおかしい。昭和10年代のラジオ普及率はまだ低く、自宅にラジオもない貧しい家が沢山あった。受信機そのものが高く、交換用の真空管も高かった。だから終戦の詔勅は多くの人が一箇所に集まって聞いたのである。
 1945年の米軍が、「今様」の歌い方の別歌手による「椰子の実」を流すのはとてもおかしい。


 ★「親兄弟の仇をうつ」と看護婦の青野(井上真央)が、ヤクザ上がりの堀内一等兵(唐沢寿明)から射撃訓練を受けるシーンがある。


 手製の三脚に銃身を載せており連射可能だから、軽機関銃と思われるが、ラジエターがなく、弾倉を下部から装着するようになっている。実包を発射した後、反動でひっくり返るから、軽機は間違いないだろう。
 当時の軽機は、小銃弾と共通の弾が使える「九九式」で、重量が約10キログラムあった。長さは約1メートル。これは弾倉が上部に着く。


 青野が練習する銃は、日本軍のものではないと思われる。モデルガンでは実包が撃てないそうだから、映画に迫力を出すために米軍の実物を使用したのであろうが、興ざめだ。


 なお、米側撮影ユニットは監督、考証がしっかりしており、米語も当時の発音や俗語がちゃんと採用されている。これに較べると日本側撮影ユニットは目茶苦茶である。


 ★9:最後の、「大場隊」が降伏のために下山するシーン。様式化されているので、あまりリアリズムを追求するのも問題があるかもしれないが、総員が「四十七人」、全員の銃と帽子、ズボンとシャツがそろっており、洗濯したようにきれいで、ボタンも全部ついており、革靴も穴が明いていない、というのはジャングル戦を戦った部隊としてはきわめて不自然。


 祥伝社文庫版「タッポーチョ:太平洋の奇跡」の末尾に「大場隊降伏式」の写真が掲載されている(年号の1945年を間違えて、昭和45年になっている)。これを見ると、軍服の上着を着用したものが半数、残りは半袖シャツである。これは前列しか見えないが、前列には16名しかいない。
 軍歌「歩兵の本領」を歌いながら、歩調をとって、行進するなどありえない。米軍相手に16ヶ月ゲリラ戦を戦ったのだから、負傷し歩行困難なもの、手が不自由なもの、栄養失調であるものがいて、当然であろう。
 
 ★10:この映画の日本側主役は「大場栄」大尉(竹野内豊)で、これは実在の人物。米軍側の主役ハーマン H.ルイス少佐(Sean McGowan)は作者ドン・ジョーンズ(当時伍長でサイパン戦に参加とされている)がデフォルメされている可能性があり、実在の人物かどうか不明である。またDon Jones自体も、AMAZON洋書を検索したかぎりでは英語作品が見つからず、仮名である可能性がある。
 英語著作権は2011年に「Eizabeth Cemal」なる人物に設定されている。


 昭和57年の日本語版に序文を寄せた大場栄は「(日本語訳を読むと)ところどころ彼がフィクションの筆を加えているし、起ったことの解釈がわれわれ日本人と違うところもある」と書いている。
 従って、この原作及び映画はあくまでも「フィクション」である、と考えるべきであろう。


 サイパン島の北端、マッピ岬は「バンザイ・クリッフ」と米軍が呼んだ高い崖で、上端が海にせり出しており、下が岩礁になっているのが見えないので、多くの邦人が、海に飛び込むつもりで、ここから飛び降り自殺して、30メートル下の岩に叩きつけられて折り重なるようにして死んだ。


 ★サイパン戦を戦った名古屋第43師団指令部参謀の平櫛孝少佐は、戦後「地獄絵図・サイパン島」を発表している。これによると米軍の「サイパン占領宣言」が7月9日になったのは、日本側の「自殺攻撃」が7月7日早朝から7月8日まで続いたためだという。日本軍(竹槍で参加した民間人を含む)遺棄死体は4,311体。(文藝春秋編「完本・太平洋戦争:上、所収)


 海軍側兵士の記録は、青木隆(サイパン島守備隊、海軍兵曹)の「サイパンの海碧く」(「実録太平洋戦争4」、中央公論社)、
 民間人の記録は、菅野静子(サイパン島陸軍特志看護婦)の「絶望の道」、(同上、所収)
 がある。
 隣のテニアン島の最期を記録した、
 大高勇治(海軍陸戦隊機銃隊長、海軍中佐)の「死の島は生きている」(同上所収)はすぐれた記録文学になっている。


 サイパン戦の位置づけについては、
 服部卓四郎「大東亜戦争全史」(原書房)が、付録に「軍部隊組織図、作戦地図」などを含んでいて詳しい。元大本営参謀である。
 佐山二郎「小銃、拳銃、機関銃入門」(光人社NF文庫)は日本軍の兵器を解説しているが、初心者向きとはいえない。


 【演技について】主人公の大場大尉というのは、面白い人物だから仲代達也のような性格俳優にやらせたら、「玉砕」から「持久」さらに「降伏拒否」までの心理変化をうまく演じられて、深みのある映画になっていただろう。
 竹野内も井上真央も「ダイコン」(いくら食っても食中毒しないから「あたらない」、転じて演技の下手な役者をいう)だ。


 どうしてダイコンか。顔の演技ができないからだ。役者は表情筋を自由に操り、観客の「ミラー・ニューロン」に働きかけないといけない。
 そのためには理想的には以下の条件を備えている必要がある。


 1)左右の眼を独立して閉じられること(ウィンクができる)。
 2)外鼻孔を拡げられること。(仲代はこれができる、「小鼻を動かす」と俗にいう。)できれば、左右を独立して拡げられること。
 3)耳介筋を収縮させ、耳を動かすこと。これがやれれば、「ジャングルのなかで、高度に警戒心を発揮している男」の演技ができる。
 4)左右の眉毛を独立して上下左右に動かせること。
 5)額に縦横のシワを自由に作れること。
 これらはいずれも外眼筋に属すので、訓練すればできる。


 スポーツ選手は筋力のトレーニングが必要だが、俳優には演技力の基礎となる表情筋のトレーニングが不可欠である。これができれば「百面相」ができるのである。
 
 まあ、辛うじてヤクザ一等兵の唐沢寿明の演技が記憶に残るくらい。しかしジャングルに立て籠もる兵隊がメタボのはずがない。
 撮影開始前に「糖質制限食」をして体重を2割減らすべきだった。昔の役者は、演技のために減量も増量も必死でやった。「楢山節考」で「おりん婆さん」を演じた田中絹代は、役のために前歯を抜いた。
 「そこまでやるか…」とみんな映画を観に行ったのである。
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