【史書の真偽】紀元前2,333年に、朝鮮に「壇君」という統治者がいたことを証明するにはどうしたらよいか。
方法は三つある。
第一は、比較史学・古文書による方法である。
前24世紀の世界では、メソポタミアですでに文字が出現し、シュメールの楔形文字、エジプトの表意文字がつくられていた。トロイ戦争が終わり、ギリシア世界は青銅器時代に入っていた。インドのインダス文明は銅、青銅の冶金術を開発し、鋳物をつくることができた。
中国にはまだ文字がなく、最古の王朝夏の成立は、BC2050年頃である。
従って、前2333年に朝鮮に起きた事件を中国の史書に記述することは不可能である。
朝鮮半島には「櫛目紋土器」を特徴とする文化がBC2400年頃に出現した。
この頃日本はとっくに縄文土器を作っていた。
従って「壇君」の実在もその統治開始年も、証拠がない。
第二は放射性同位元素C14や年輪年代学の手法を用いることである。
これには「壇君の墳墓」の発見とそこから木片が採取できることが前提となる。実在の人物なら古墳があるはずで、日本と違い天皇陵に対する発掘タブーがないから、発掘すれば木の断面を入手できる可能性がある。
もし木片が入手できれば、年輪によりその伐採年を割り出せるから、これで年代が決まる。C14含量から割り出す手法もある。
第三は、以上二つが不可能である場合、「朝鮮神話」の伝えるところによれば、歴代王朝の王はすべて「壇君の子孫」というのだから、壇君のY染色体を引き継いでいることになるはずである。
現存する韓国民あるいは朝鮮人のY染色体遺伝子DNAを調べ、それが5000年前にいた特定の人物に「収斂する」ことを証明すれば、ある特定の男性の遺伝子を多くの朝鮮人が受け継いでいることが証明され、神話の信憑性が高まる。
ミトコンドリアDNAの変異解析により、15万年前のアフリカに共通の女性ミトコンドリア・イブがいたと結論したのと同じ方法だが、壇君は男だからミトコンドリアDNAは使えない。
こういう科学的研究を韓国がやれるかな?「夢」をぶち壊すことになるから、やらないだろうな。
金富軾(きんふしき)が1145年に編纂した「三国史記」は「壇君神話」のような曖昧な話は原則記載していない。「三国」とは新羅、高句麗、百済をいう。
「新羅本紀」、「高句麗本紀」、「百済本紀」の三つが東洋文庫の1,2に含まれ、「三国年表」、「雑志(風俗、地理など)」が3に、「列伝」が4に収められている。この文庫版の欠点は、人名、地名、事項、引用書名の索引がないことで、日本史学は150年かかってもこの程度の研究しかできていない。
なお「列伝第四」には、512年に于山国(鬱陵島のこと)を征服した、新羅の「異斯夫(苔宗)」という将軍の話が書いてある。この「于山国」を現在、韓国側は「竹島=独島」だと主張しているが、人間が住めない竹島が「于山国」であるはずがない。
「三国史記」は高麗(Korea)による朝鮮半島統一後の「正史」だから、先行する統一国家「新羅」を前に、次いで「高麗」、最後に滅亡した「百済」を置いている。これは高麗の儒者であった金富軾としては、やむをえない配列だろう。史書として信頼性が高いのは三国とも編年体で記述されており、要所要所に中国の皇帝名と年号が書かれていることである。(朝鮮ははじめから最後まで中国の属国だったから、固有年号がない。)
さらに月蝕、日食、地震の記述もあり、これが絶対年代を割り出す資料となると思われるが、実は原資料が中国史書の引き写しである可能性もある。その場合、中国の首都では見えた日食が、朝鮮では見えなかったということもあろう。
実のところ、1000年近くにわたる三国の歴史を金富軾が何を資料として書いたのか、定かでないところがある。「日本書紀」には多数の引用文献名が見えるが、「三国史記」にはこれがほとんどない。(引用、参考にはしたが、書名を書かなかった。それなら、これは盗作の一種となる。)
さらに悪いことに、朝鮮王朝には王朝の交代、王の代替わりが起こるたびに、古い史書や文献を焼き捨てる「焚書」という伝統があった。現王朝に都合が悪いものは残さなかったのである。
これが朝鮮史の資料が乏しい最大の要因である。
江上波夫「騎馬民族国家」(中公文庫, 1984)では、東満州の騎馬民族「扶余」が北部朝鮮に移住して「高句麗」を建国し、その支族が東南に移住し「百済」を立て、さらにその一部が日本海を渡り、「大和民族」となったという説を唱えているが、この説の内容と「百済本紀」に書かれている内容にはオーバーラップする点が多い。
「百済本紀」は百済という国名のいわれを「百姓(多くの民)を済(すく)ったから」としているが、それを可能にするものは、「水田稲作」という新しい農耕技術の導入しかあるまい。
「百済(ペクチェ)」からの移民が作ったのが大和政権とすれば、日本で彼らが百済を「クンナラ(我らの国)」と呼び、それがなまって「クダラ」になったと得心がいく。「百済と書いてどうしてクダラと読むのか?」という疑問に対する、これがひとつの答えである。
金両基は「日朝同祖論」につよい反撥を示しているが、もともと漢の「楽浪郡」であった朝鮮の民族的起源が単一であるはずがなく、江上説に従えば日本の支配者は朝鮮族の一支族、百済族の分かれで、高麗や新羅とは別である。日本人そのものも単一ではなく、アイヌ系、縄文系、ポリネシア系、朝鮮(百済)系などいろいろいる。
それを支えるのが、HTLV-1ウイルスの分布、二重まぶたと前腕の「漢線」の有無、耳垢の乾燥・湿潤の違い、HLAハプロタイプの地理的差異などである。
人類学や遺伝学、比較地理病理学などは広義の歴史学に大いに貢献したが、こういう知見を総動員して、文献歴史学に新風を吹き込む方法はないものか。歴史学者に言っておきたいのは、こういう自然科学的なデータを(旧石器遺跡捏造事件における地磁気分布や脂肪酸データのように)わからないまま、丸呑みしないで、ちゃんと理解して批判的に受けとめることが必要だ。
方法は三つある。
第一は、比較史学・古文書による方法である。
前24世紀の世界では、メソポタミアですでに文字が出現し、シュメールの楔形文字、エジプトの表意文字がつくられていた。トロイ戦争が終わり、ギリシア世界は青銅器時代に入っていた。インドのインダス文明は銅、青銅の冶金術を開発し、鋳物をつくることができた。
中国にはまだ文字がなく、最古の王朝夏の成立は、BC2050年頃である。
従って、前2333年に朝鮮に起きた事件を中国の史書に記述することは不可能である。
朝鮮半島には「櫛目紋土器」を特徴とする文化がBC2400年頃に出現した。
この頃日本はとっくに縄文土器を作っていた。
従って「壇君」の実在もその統治開始年も、証拠がない。
第二は放射性同位元素C14や年輪年代学の手法を用いることである。
これには「壇君の墳墓」の発見とそこから木片が採取できることが前提となる。実在の人物なら古墳があるはずで、日本と違い天皇陵に対する発掘タブーがないから、発掘すれば木の断面を入手できる可能性がある。
もし木片が入手できれば、年輪によりその伐採年を割り出せるから、これで年代が決まる。C14含量から割り出す手法もある。
第三は、以上二つが不可能である場合、「朝鮮神話」の伝えるところによれば、歴代王朝の王はすべて「壇君の子孫」というのだから、壇君のY染色体を引き継いでいることになるはずである。
現存する韓国民あるいは朝鮮人のY染色体遺伝子DNAを調べ、それが5000年前にいた特定の人物に「収斂する」ことを証明すれば、ある特定の男性の遺伝子を多くの朝鮮人が受け継いでいることが証明され、神話の信憑性が高まる。
ミトコンドリアDNAの変異解析により、15万年前のアフリカに共通の女性ミトコンドリア・イブがいたと結論したのと同じ方法だが、壇君は男だからミトコンドリアDNAは使えない。
こういう科学的研究を韓国がやれるかな?「夢」をぶち壊すことになるから、やらないだろうな。
金富軾(きんふしき)が1145年に編纂した「三国史記」は「壇君神話」のような曖昧な話は原則記載していない。「三国」とは新羅、高句麗、百済をいう。
「新羅本紀」、「高句麗本紀」、「百済本紀」の三つが東洋文庫の1,2に含まれ、「三国年表」、「雑志(風俗、地理など)」が3に、「列伝」が4に収められている。この文庫版の欠点は、人名、地名、事項、引用書名の索引がないことで、日本史学は150年かかってもこの程度の研究しかできていない。
なお「列伝第四」には、512年に于山国(鬱陵島のこと)を征服した、新羅の「異斯夫(苔宗)」という将軍の話が書いてある。この「于山国」を現在、韓国側は「竹島=独島」だと主張しているが、人間が住めない竹島が「于山国」であるはずがない。
「三国史記」は高麗(Korea)による朝鮮半島統一後の「正史」だから、先行する統一国家「新羅」を前に、次いで「高麗」、最後に滅亡した「百済」を置いている。これは高麗の儒者であった金富軾としては、やむをえない配列だろう。史書として信頼性が高いのは三国とも編年体で記述されており、要所要所に中国の皇帝名と年号が書かれていることである。(朝鮮ははじめから最後まで中国の属国だったから、固有年号がない。)
さらに月蝕、日食、地震の記述もあり、これが絶対年代を割り出す資料となると思われるが、実は原資料が中国史書の引き写しである可能性もある。その場合、中国の首都では見えた日食が、朝鮮では見えなかったということもあろう。
実のところ、1000年近くにわたる三国の歴史を金富軾が何を資料として書いたのか、定かでないところがある。「日本書紀」には多数の引用文献名が見えるが、「三国史記」にはこれがほとんどない。(引用、参考にはしたが、書名を書かなかった。それなら、これは盗作の一種となる。)
さらに悪いことに、朝鮮王朝には王朝の交代、王の代替わりが起こるたびに、古い史書や文献を焼き捨てる「焚書」という伝統があった。現王朝に都合が悪いものは残さなかったのである。
これが朝鮮史の資料が乏しい最大の要因である。
江上波夫「騎馬民族国家」(中公文庫, 1984)では、東満州の騎馬民族「扶余」が北部朝鮮に移住して「高句麗」を建国し、その支族が東南に移住し「百済」を立て、さらにその一部が日本海を渡り、「大和民族」となったという説を唱えているが、この説の内容と「百済本紀」に書かれている内容にはオーバーラップする点が多い。
「百済本紀」は百済という国名のいわれを「百姓(多くの民)を済(すく)ったから」としているが、それを可能にするものは、「水田稲作」という新しい農耕技術の導入しかあるまい。
「百済(ペクチェ)」からの移民が作ったのが大和政権とすれば、日本で彼らが百済を「クンナラ(我らの国)」と呼び、それがなまって「クダラ」になったと得心がいく。「百済と書いてどうしてクダラと読むのか?」という疑問に対する、これがひとつの答えである。
金両基は「日朝同祖論」につよい反撥を示しているが、もともと漢の「楽浪郡」であった朝鮮の民族的起源が単一であるはずがなく、江上説に従えば日本の支配者は朝鮮族の一支族、百済族の分かれで、高麗や新羅とは別である。日本人そのものも単一ではなく、アイヌ系、縄文系、ポリネシア系、朝鮮(百済)系などいろいろいる。
それを支えるのが、HTLV-1ウイルスの分布、二重まぶたと前腕の「漢線」の有無、耳垢の乾燥・湿潤の違い、HLAハプロタイプの地理的差異などである。
人類学や遺伝学、比較地理病理学などは広義の歴史学に大いに貢献したが、こういう知見を総動員して、文献歴史学に新風を吹き込む方法はないものか。歴史学者に言っておきたいのは、こういう自然科学的なデータを(旧石器遺跡捏造事件における地磁気分布や脂肪酸データのように)わからないまま、丸呑みしないで、ちゃんと理解して批判的に受けとめることが必要だ。
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