【NHKの取材】2/24(土)昼頃、松山からNHKの取材クルー3人が車でやって来た。当初「映写用のスクリーンが要る」という話だったが、狭い仕事場を見てもらったところ、「これで何とかなる」というという話だったので、作業机とサイドテーブルの書類や本を片づけ中だったが、終えるのは後にして、天気は良いし林の中を歩いて、前のレストランで打合せを兼ねて昼食を共にした。勘定は割り勘である。
番組は3月28日(水)夜10:50〜11:15(25分間)
NHK総合TV:「修復腎移植」
として放映されるという。これとは別にETVで50分番組を放映する予定という。
番組は「ノー・ナレーション」で、2006年11月、いわゆる「病気腎移植」の公表以後の異常なバッシングとそれ以後に国際的にも腎移植移植が受け入れられ、広まって行く過程をナレーションなしで、関係者・当事者の証言映像を積み重ねて「再現・検証」するという手法を採るという。ドキュメンタリー映画の手法だ。
詳しいスケジュールが決まったら再通知を行うので、ぜひご覧頂きたい。
「フランスでもイタリアでも、昼食時に医者がワインの小瓶を、緊張をほぐすために飲んでいるよ」と言って、私は赤のグラスワインを飲んだが、他の3人は「職務中」なので、ノン・アルコールの飲料しか注文しなかった。
取材の方は、「修復腎移植」支持派の患者団体、医師、学者の方はもうほぼ終わっているようだが、あれだけ「修復腎移植」を批難・糾弾した日本移植学会の幹部、田中紘一・寺岡慧・高原史郞・吉田克法などは取材拒否のようだ。取材に応じるのは大島伸一さん(国立長寿医療研究所・名誉総長)だけらしい。
昼食を終え仕事場に戻って、ディレクターの質問に答えるかたちで録画が始まり、私が修復腎移植を支持したいきさつ、瀬戸内グループの総症例数が42例あり、その追跡調査をどうやって行ったかという話、修復腎移植の成績は生体腎移植には劣るが、死体腎移植の生着率よりも成績がよく、「第三の移植」になりえるという結果が得られたこと、フロリダ大の藤田士朗先生が英文化した論文は、2008年に「全米移植外科学会」トップ・テンの論文として表彰され、その後も小川由英先生(東京西徳州会H)のアルゼンチンの国際学会やアジア移植学会でも受賞したことを述べた。
「2006年に「病気腎移植」問題が発生した時、どうして日本移植学会は学問的論争で解決しようとしなかったのかが分からない。学問の真実は多数決では決まらない。
1980年代に米シンシナチ大のイスラエル・ペンが「移植がんの持ち込み説」を唱え、世界の移植医の常識になったのは、臓器移植患者にがんが発生した場足、それがドナー由来かレシピエント由来かを確実に決定する手法がなく、移植された臓器に発生したがんは移植時に持ち込まれたもの信じられていたにすぎない。
2000年代になって、移植がん登録とその追跡方法が改良され、さらにがんの遺伝子がドナー由来かレシピエント由来かを決めるのに、DNA解析が利用されるようになり、ペンのがん持ち込み説が崩壊した。
今では米UNOS、WHO、EU、英国、オーストラリアなど多くの先進国が、小径腎がん切除後のがん再発のリスクは極めて低い(1%以下)ことを認め、修復腎移植を承認している。
もし2006年の時点で、冷静になって修復腎移植を巡る学問的討論会が開かれ、これらのデータが真面目に議論され、1年くらいのうちに修復腎移植が容認されていたら、10年間のうちに2万人から3万人程度の日本の透析患者を救うことができただろう。その意味でこの「失われた10年」はまことに残念だ。」
ほぼそういう趣旨の話をした。ディレクターが私と向き合わせで、カメラさんが右手の本棚の隅、録音さんは左手のファイリング・キャビネット脇に立った状態での録音・録画だった。音声はカメラに写らないように、私の頭の上に棒の先に付けたマイクを突きだして録音した。
時折、私は机の前を向いて、PC画面上で3種の腎移植の生存率・定着率カーブを説明し、2007年当時もっとも激しい議論を呼んだ「下部尿管がんのある腎臓」を移植に用いたところ、レシピエントの肺に転移して患者が死んだとされた症例の具体的な「追跡調査」結果を説明した。
このレシピエントの死亡診断書は後に妻の元にコピーが保存されているのが発見され、それをもとに市立宇和島病院元職員の調査により、喀痰の細胞診により「扁平上皮がん」と診断され、後に肝臓転移を来して脳梗塞により死亡したと判明した。ドナーがんの持ち込みではなく、レシピエント由来の別ながんによる死亡である。
この話は麻野涼(高橋幸春)さんが小説化し、BSテレビでもドラマ化された。武田鉄也が演じる「万波誠」医師が患者遺族を訪ねて歩くシーンが印象的だった。
取材は4時半頃終り、コーヒーを飲みながらしばし雑談した後、機材を車に戻した取材クルーは次の目的地、香川県高松市に向かって去って行った。
「記事転載は事前に著者の許可が必要です。必ずご連絡いただきますようお願いいたします」
番組は3月28日(水)夜10:50〜11:15(25分間)
NHK総合TV:「修復腎移植」
として放映されるという。これとは別にETVで50分番組を放映する予定という。
番組は「ノー・ナレーション」で、2006年11月、いわゆる「病気腎移植」の公表以後の異常なバッシングとそれ以後に国際的にも腎移植移植が受け入れられ、広まって行く過程をナレーションなしで、関係者・当事者の証言映像を積み重ねて「再現・検証」するという手法を採るという。ドキュメンタリー映画の手法だ。
詳しいスケジュールが決まったら再通知を行うので、ぜひご覧頂きたい。
「フランスでもイタリアでも、昼食時に医者がワインの小瓶を、緊張をほぐすために飲んでいるよ」と言って、私は赤のグラスワインを飲んだが、他の3人は「職務中」なので、ノン・アルコールの飲料しか注文しなかった。
取材の方は、「修復腎移植」支持派の患者団体、医師、学者の方はもうほぼ終わっているようだが、あれだけ「修復腎移植」を批難・糾弾した日本移植学会の幹部、田中紘一・寺岡慧・高原史郞・吉田克法などは取材拒否のようだ。取材に応じるのは大島伸一さん(国立長寿医療研究所・名誉総長)だけらしい。
昼食を終え仕事場に戻って、ディレクターの質問に答えるかたちで録画が始まり、私が修復腎移植を支持したいきさつ、瀬戸内グループの総症例数が42例あり、その追跡調査をどうやって行ったかという話、修復腎移植の成績は生体腎移植には劣るが、死体腎移植の生着率よりも成績がよく、「第三の移植」になりえるという結果が得られたこと、フロリダ大の藤田士朗先生が英文化した論文は、2008年に「全米移植外科学会」トップ・テンの論文として表彰され、その後も小川由英先生(東京西徳州会H)のアルゼンチンの国際学会やアジア移植学会でも受賞したことを述べた。
「2006年に「病気腎移植」問題が発生した時、どうして日本移植学会は学問的論争で解決しようとしなかったのかが分からない。学問の真実は多数決では決まらない。
1980年代に米シンシナチ大のイスラエル・ペンが「移植がんの持ち込み説」を唱え、世界の移植医の常識になったのは、臓器移植患者にがんが発生した場足、それがドナー由来かレシピエント由来かを確実に決定する手法がなく、移植された臓器に発生したがんは移植時に持ち込まれたもの信じられていたにすぎない。
2000年代になって、移植がん登録とその追跡方法が改良され、さらにがんの遺伝子がドナー由来かレシピエント由来かを決めるのに、DNA解析が利用されるようになり、ペンのがん持ち込み説が崩壊した。
今では米UNOS、WHO、EU、英国、オーストラリアなど多くの先進国が、小径腎がん切除後のがん再発のリスクは極めて低い(1%以下)ことを認め、修復腎移植を承認している。
もし2006年の時点で、冷静になって修復腎移植を巡る学問的討論会が開かれ、これらのデータが真面目に議論され、1年くらいのうちに修復腎移植が容認されていたら、10年間のうちに2万人から3万人程度の日本の透析患者を救うことができただろう。その意味でこの「失われた10年」はまことに残念だ。」
ほぼそういう趣旨の話をした。ディレクターが私と向き合わせで、カメラさんが右手の本棚の隅、録音さんは左手のファイリング・キャビネット脇に立った状態での録音・録画だった。音声はカメラに写らないように、私の頭の上に棒の先に付けたマイクを突きだして録音した。
時折、私は机の前を向いて、PC画面上で3種の腎移植の生存率・定着率カーブを説明し、2007年当時もっとも激しい議論を呼んだ「下部尿管がんのある腎臓」を移植に用いたところ、レシピエントの肺に転移して患者が死んだとされた症例の具体的な「追跡調査」結果を説明した。
このレシピエントの死亡診断書は後に妻の元にコピーが保存されているのが発見され、それをもとに市立宇和島病院元職員の調査により、喀痰の細胞診により「扁平上皮がん」と診断され、後に肝臓転移を来して脳梗塞により死亡したと判明した。ドナーがんの持ち込みではなく、レシピエント由来の別ながんによる死亡である。
この話は麻野涼(高橋幸春)さんが小説化し、BSテレビでもドラマ化された。武田鉄也が演じる「万波誠」医師が患者遺族を訪ねて歩くシーンが印象的だった。
取材は4時半頃終り、コーヒーを飲みながらしばし雑談した後、機材を車に戻した取材クルーは次の目的地、香川県高松市に向かって去って行った。
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