ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【変わる新聞】難波先生より

2014-01-30 12:07:38 | 難波紘二先生
【変わる新聞】「産経」から社会面の4コマ漫画が消えた。他の面に移動したのではない。新聞の4コマ漫画は第2社会面の左上にあり、中身を読むことは滅多にないが紙面のエンド・マークとして有用だった。「毎日」と「中国」には残っている。
 連載小説は一度も読んだことがない。あれこそ紙面のムダ、金のムダと思うが、「産経」からはこれも消えた。代わりに2面に、ドン・キホーテをタネにしたつまらない連載随筆だか小説だかが載っている。たぶん社内の失業対策だろう。
 「毎日」は大きく予告したわりには、紙面がちっともかわらない。特色は何があるかというと、何もない。前は「読書欄」が売りだったのだが、最近は評者のレベルが落ちた。
 「中国」は鳥取、島根、山口、岡山と広島県ではほとんど読まれない記事に紙面を割きすぎていて、まさに地方紙だ。なんで各県版が出せないのかと思う。「共同」配信の書評も最近は質が低下した。
 「産経」は中の紙面が「マネー」、「生活」、「文化」等とカテゴリー化された。
 1/27の「文化面」を見ると「これ欲しい! タブレット①:7インチか9インチか、それが問題だ」という記事がのっている。見出しは「ハムレット」のセリフをもじったものだ。
 http://sankei.jp.msn.com/life/news/140127/trd14012709000002-n1.htm
 9インチ(iPadサイズ)と7インチ(Kindleサイズ)タブレットの合計シェアは、今やノートPCのそれに迫っているとか。7インチ高精細カラー液晶画面で、横にしてNEWSWEEK誌が見開きで一覧でき、画面拡大が容易にできるモデルが出れば、私もKindleから乗り換えるだろう。
 「産経」の購読者は高齢者が多く、IT機器を使いこなすのに慣れていない。そういう読者を教育するのも新聞の大きな仕事だと思う。本屋でマニュアル本を買っても、正直なところ読み切れない。そのうち古くなる。
 そこは難しい話をわかりやすく記事するプロだから、ぜひこういう記事を載せてもらいたい。いま60代の人は20年たったら多くは消える。団塊の世代が消える15年後には新聞が消え、タブレットに移行しているかも知れない。その時の勝者は「産経」だろう。
 「生活」面には「家計防衛術:携帯電話代の見直し」という記事が載っている。私はスマフォを使っていないから関係ないが、電話代に悩んでいる人には役に立つ記事だろう。
 ひとは新聞の良し悪しを何で判断するのだろうか。私は切り抜く記事の本数で判断する。
1/27の切り抜き数は、産経「宇宙からのメッセージ:小松左京と秘書のおかしな物語:医者嫌いの理由」とで3本。毎日は角川文庫の広告だけ。山田風太郎「人間臨終図鑑」が文庫3冊本と電子版で出た、というもの。切り抜きは記事だけとはかぎらない。この本の文庫版は2011年に徳間文庫の4冊本で出たばかりなのに、どうなっているのであろうか…
 AMAZONをのぞいてみると、「田島 昭宇」というイラストレーターが共著者になっている。少なくともここでは電子本は売られていない。著作権保持者は山田未亡人のはずだが。
 「中国」からは「対潮楼がある鞆の浦福禅寺が大改修になる」という記事のみ。
 「対潮楼」というのは福禅寺の対面に仙酔島があって、狭い海峡を流れる潮流を見ることができるからだ。森鷗外の居宅の書斎には確か似たような名前がつけられていたはず、といろいろ探した。山崎正和『鷗外:闘う家長』(新潮文庫)はすぐれた評伝だが、索引・年譜、参考文献の提示がない。本文を繰って、永井荷風が「観潮楼訪問記」を『日和下駄』に書いているのを知った。(『荷風随筆集(上)』, 岩波文庫)
 鷗外の居宅は駒込千駄木町の高台にあったようだ。根津神社の脇から上野の山に登る坂があって、「団子坂」とも「汐見坂」とも呼ばれ、晴れた日には南側はるかに海が見えたそうだ。
明治22(1889)末にここに越してきている。
 自宅の寝室にある「復刻版日本近代文学全集」の中に、どうしても箱の題名が読めない本が一冊ある。紙箱から無理して取りだし扉を開いたら、かろうじて「夏目」だけが読めて、漱石の著書と見当がついた。(添付1)
   これが夏目漱石『鶉籠(うずらかご)』,春陽堂, 明治40(1907)年の刊。目次はなくて、頁を繰ると「坊っちゃん」、「二百十日」、「草枕」の3作品が収められている。この時、「吾輩は猫である」は未完だったから、漱石の処女出版がこの本だ。1月にこの本を出して、2月に朝日新聞から招聘があり、4月に大学を辞めて入社している。時に漱石41歳。作家としては実に遅い出発だといえる。
 「漱石・鷗外」と並び称せられるから、漱石の方が先輩かと思っていたら、鷗外(1862~1922)、漱石(1867~1916)と鷗外が5年早く生まれ6年遅く死んでいる。こうしてみると鷗外がマルチ人間であったのに対して、漱石は「吾が猫」を39歳で書きはじめ「こころ」を48歳で書くまで、ひたすら執筆に専念した実質丸10年の活動しかない。39歳のユーモラスな作品と48歳の沈鬱な作品の間には、常人にすれば40年くらいの歳月がある。精神的プロゲリア(早老症)を患っていたとしか思えない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1月29日(水)のつぶやき | トップ | 【Kindle読書と夢】難波先生より »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

難波紘二先生」カテゴリの最新記事