ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【Kindle読書と夢】難波先生より

2014-01-30 12:59:08 | 難波紘二先生
【Kindle読書と夢】床に就いてからの読書をKindleでやることにして、いま漱石「門」を読んでいる。いつものように即効性のマイスリー(ゾルピデム酒石酸塩)1錠と持続性のフルニトラゼパム1錠を睡眠剤として服用した後、風呂に入り床につく。この習慣はもう久しい。計算上はマイスリーの血中濃度が30分で上昇を始め、入眠効果を発揮して、次いで1時間でデパケンが効き始める。そこで入浴前か後に排尿しておけば、夜間にトイレに起きることなく朝まで熟眠できる。
 スタンドの灯りで文庫本を読んでいる時は、なかなか計算どおりに行かなかった。室内が明るいし、本を照らして読むのでつい眠気が到来するのが遅れた。読む本の内容にもよる。
 Kindleはバックライトがあるので明るさの調整もできる。スタンドを消して室内を暗くして読む。すると数ページ読むとすぐ眠くなる。オスラーは「寝る前の30分間」の読書を若い医師たちに薦めているが、とても30分もたない。それでKindleのスィッチを切って仰向けになり眼をつむると、しばしの間「入眠時幻覚」が生じることに気づいた。
 目蓋を閉じているのに、ベッドの左手にあるタンスや前方の「近代文学館復刻文学全集」を収めた書棚や天井と壁との境目が見える。目蓋を開くと闇の中にいる。どうかすると、左手の方でエアコンの音に混じって、人がさざめく音がすることもある。「ああ、これは幻覚だな」という自覚はある。要するに夢を見始めていて、脳内で再生された内部記憶が脈絡なく混じり合っているのだ。こうなると引き込まれるように眠ってしまう。

 脳の前頭葉に「前頭前野」と呼ばれる部分がある。ここは脳内情報に「実在感」を付与する部分で、この部分を損傷すると外部からの刺激と内部で再生された情報との区別がつかなくなる。これが「幻覚」である。目覚めたからといって、脳の諸機能がすぐに全開にならないように、「入眠」も脳の各部位がばらばらに眠って行く。だから前頭前野が先に休んでしまい、視覚、聴覚中枢が起きていると、幻視、幻聴が起きる。

 朝、久しぶりに夢を見て目覚めた。起きる前に部屋が寒いのでエアコンをつけようと、手探りでリモコンのスイッチを入れたら、エアコンにパソコンみたいな液晶パネルが付いていて、リモコンがマウスになっていた。オンにしたつもりが、パネルを見ると「カット・アンド・ペースト」になっていて、消し忘れた前のコマンドが入力されている。だからオンにならない。「馬鹿が!」と思わず声を出して自分を叱ったら、その声で本当に目が覚めた。
 ここでも入眠時と同じように、幻覚と現実とが入り混じった「夢とうつつ」の共存状態が一過性に起こっている。こういう目覚めはなぜか爽やかに感じられる。

 こういう状態だと、睡眠薬の減量が可能かもしれないな、と思う。Kindleを用いた睡眠前読書の効能については、論じた本やニュースを知らない。が、従来型読書とは原理が違うのは明らかだ。あるいは漱石の心に滲みる文章を読むのが関係しているのかもしれない。「入眠時幻覚」と睡眠の質、睡眠薬と睡眠の質と持続、覚醒の機構などについて、もう少し調べてみたいと思う。

 ひとさまには眠るための「入眠儀式」があるようだが、私にはない。眉間の真ん中下寄りに大きな黒子があるので、かつては目蓋を閉じて、それを見つめるように眼を凝らすと、意識を集中して眠りに落ちることもあったが、今はもう効かない。
 山田風太郎に「眠るための私の魔法」という一文があり、「眼をつぶったまま、安眠をもよおすような」想い出にふけるとよい、という趣旨のことを書いている。彼は4歳のころ開業医だった父に死なれ、母親は山田医院を継いだ弟と再婚した。その母も彼が14歳の頃に死んだ。叔父とは山田家の財産をめぐるトラブルもあり、よい想い出はすくない。
 「私の場合、幼い頃の故郷の想い出をつむぎ出すのが一つのならいであった。
  それも母親の生きていた、十二、三歳まで、大半小学校時代の想い出である。
  ……
  思えば、わが人生は哀切なものだ。―――など考えているうちに眠ってしまう。……
  こういうさびしい感傷もまたその効用を果たすのかも知れない。」
 疲れた脳を休ませ眠りに落ちるには、これもひとつの方法だろう。感傷には鎮静効果がある。私も日中、脳があまりにも疲労した時には、塩田美奈子か美空ひばりの歌で「津軽のふるさと」を聴くとリラックスする。
 もっとも最近はさらに先祖返りして、織井茂子の「君の名は」だとか、「あした」、「青葉の笛」、「宵待草」といった歌曲をもっぱら好んで聴いている。
 「青葉の笛」は平家物語に取材した大和田建樹(宇和島出身)の歌詞だが、2番前半の
「更くる夜半に 門を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉あわれ」(「日本唱歌集」, 岩波文庫)
 という歌詞に、歌人として後世に名を残したいと願った薩摩守平忠度(ただのり)の心情がよくあらわれている。忠度は平家都落ちの夜に、勅撰歌集の選考に当たっていた藤原俊成宅を訪れ自作歌集を手渡した故事にちなむのだ。武士は名を惜しみ、歌人は自作の廃れることを惜しむ。学者もこうありたいものだ。
 女性の澄んだ高音ですぐれた歌詞を歌われると、胸にツーンと来て心が洗われるような気がする。いま、「薩摩の守」は「キセル」と並んで無賃乗車の符牒になっているが、実物はすぐれた歌人だった。一ノ谷での散り際も美事だった。
 伴奏もよくないといけない。高峰三枝子「湖畔の宿」はいい歌だが、伴奏がバンジョーでは合わない。
 風太郎のもうひとつの入眠法は「漱石のある種の文章」を読むことだという。実は風太郎が入眠法として「幼い日の想い出」にふけるということを書いていたな、とだけ覚えていて書庫を探したら、『半身棺桶』(徳間書店)という随筆集にあった。が、そこに漱石の文を読むというのが「魔法」だ、と書いてあったのはすっかり忘れていた。彼があげている文は『思い出す事など』、『硝子戸の中』(どちらも岩波文庫)に含まれる随筆の文章だ。
 「これらの文章は、ふしぎに人の心を落ちつかせる。
  こんな現象を起こす作家の文章を、ほかに私は知らない。」
 やはりKindleで漱石の文章を読むのは、「入眠の魔法」かもしれない。
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