ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【チューリップ市長】難波先生より

2015-01-06 16:50:00 | 難波紘二先生
【チューリップ市長】
 病理学的な裏付けがある「がん」を最初に記載したのは誰だろう?と「病理学原本抜粋」という英語資料集を読んでいたら、興味深い「発見」(私にとって)があった。オランダ、アムステルダムの医師ニコラス・テュルプ(1593〜1674)が1641年に刊行した『医学的観察』という本に、膀胱・尿管癌の最初の記載があった。

 これがまた変わった症例だ。
 患者は10代の少年の頃、膀胱結石のため手術を受けたが、その後に膀胱と直腸の間に穴が開いてしまった。いわゆる膀胱直腸瘘(ろう)ができたため、尿がペニスの先から出ず、肛門から出るようになった。この状態で少年は商人になり、特に他には健康異常もなく40代になったが、この頃からお尻の痛み、尿が急に出る、排便困難、ペニスのかゆみをおぼえるようになった。
 恥ずかしいところの病気なので、10年ほど忍んでいたが耐えきれなくなって、名医の評判の高いテュルプ(チューリップのオランダ語)博士に受診した。

 彼は、レンブラントの有名な絵「解剖学講義」(1632)で、黒いつば広の帽子をかぶり、黒いガウンを身につけ、学生たちに死体左腕の筋肉と腱の走行を指し示している人物だ。(写真1)なお、この筋の走行には間違いがあるといわれる。(藤田尚男「人体解剖のルネサンス」平凡社)
 テュルプの視線、周囲の見学者の視線がみなあらぬ方向を向いているのも不自然で、私はちっとも名画と思わない。例の「レンブラント光線」の当て方も不自然だ。光源が2箇所に置かれている。
(写真1)
(写真1:レンブラント:テュルプ博士の解剖学講義, 1632年製作。「世界の名画1000の偉業」より。同じ年に講義が行われたのならテュルプは39歳。)

 患者の尿は肛門から出て、それは砂状の結石と汚い垢のようなものを含んでいた。ところがこの患者は腕の絶えざる震え、強度の不眠症、つよい食欲不振と微熱があり、手術どころかこの症状を緩和するには、アヘン製剤を処方するほかなかった。痛みはとれたが、食事がとれないため衰弱して、間もなく死んだ。
 病理解剖をしてみると右腎は正常だったが、左腎は「膿と脂肪の塊」におかされ、膀胱から直腸に通じる瘘管は長さ1横指ほどもあり、不規則な(乳頭状の?)癌が全周を取りまいていた。死因は尿毒症というよりも、敗血症の所見のように思われる。

 テュルプはこの症例を、膀胱砕石術の際の不手際により生じた膀胱直腸瘘の瘘管壁に、30年近くたって癌が発生したものと解釈し、「医師は砕石術の際に生じた傷がしっかりと治るように注意しなければならない」と強調している。
 膀胱癌は、19世紀にアニリン色素が合成されて染色に使用されるようになり、染料工場の労働者に多発することが知られた。それ以前は稀ながんだった。テュルプが記載した「膀胱・直腸の瘘管に続発したがん」はきわめて稀なもので、病理解剖がなされた膀胱癌の報告としては世界最初のケースだろう。

 17世紀のオランダ、ことにアムステルダムでは、チューリップの取引が盛んで、世界初のバブル経済「チューリップ・バブル」が起こったことで知られる。
 チューリップは中央アジア原産で、こよなく酒を愛した12世紀イランの詩人・天文学者オマル・ハイヤームの詩集「ルバイヤート」にも、美人のメタファーとして歌われている。この花は、まずコンスタンチノープル(イスタンブール)に伝わり、1562年にアントワープに入り、やがてオランダ中に広まった。

 チューリップはアブラムシが媒介するある種のウイルスに感染すると、花弁の色がさまざまに変わり、珍しい模様も出る。(恐らくB.マクリントックがトウモロコシの斑形成で発見し、1983年にノーベル賞をもらった、「動く遺伝子」トランスポゾンがからんでいると思われる。)
 たちまちオランダ中で、この珍しい異国の花に対する熱狂があふれた。デューマの小説「黒いチューリップ」は伝説を素材としたもので、実際には黒にちかい濃い紫色のものしか存在しないそうだ。

 1993年にアムステルダムで生まれた商人ピーターの息子、ニコラス・ピーターゾーン(「ピーターの息子」)は医者になった。当時のオランダ人は姓をもたず、父親の名前に息子を意味するSoonをつけて、姓とした。ニコラスは自宅の玄関の紋章にチューリップを用いるほど、この花の愛好家であり、とうとう姓をテュルプ(チューリップ)と変えた。彼はライデン大学の教授にもなった。ニコラス・テュルプ教授の誕生である。

 チューリップ熱が広がり、球根の供給と需要の間に解離が生じた。当時のチューリップは種から育てると花が咲くまで7年もかかった。球根から分かれる子球根は、年に2〜3個しかできない。品薄のため球根価格は高騰した。アムステルダムにチューリップの株式市場が常設された。世に12株しかないといわれた稀少株には住宅2戸が買える値段がついた。
 それでも資本を調達して、その株(球根)を買えば、翌年は子株が生まれ、それらを売れば投資金を取り戻して利益が出る。手許には元株が残る。

 こうして球根が投資対象となり、1634年からチューリップ価格が急に上昇を始めた。バブルが始まったのである。当時のオランダ人は年収の20%を貯蓄し、それを低利の銀行にではなく、主に貿易投資に廻していたといわれる。この金がチューリップ市場に向かったから、価格は右肩上がりで上昇した。
 ことに「約束手形」が発明され、地中にある子球の「引き渡し手形」が先物で取り引きされるようになると、取引きから季節性がなくなり、しかも手形決済額の1割を内金として支払えばよいところから、ちょっとした小金のある手職人なども市場に参入した。

 例えれば今が秋で、6ヶ月後に土中から掘り出される予定の球根価格が1個2万円になると売り手が予測すると、今5個買えば約束手形で10万円が必要だが、実際にはその1割の1万円を内金として支払えばよい。引き渡し時の球根価格が倍の4万円になっていれば、それを売れば20万円になる。すると、1万円の投資から、19万円の利益が生まれることになる。
 その逆に決済の時点で1個が1万円に下落していれば、売っても5万円にしかならないから、5万円の損失が出る。その程度のリスクならルーレットで遊ぶのと変わらない。
 実際には、欲に目がくらんだ人たちは、誰もが必ず値段が上がると考えてもっと多くの金をチューリップの先物市場に投資した。

 今や、オランダでは猫も杓子も、借金してまで球根の引き渡し手形(オプション)を求めて狂奔するようになり、球根1個のオプション価格は暴騰した。が、市場は1637年1月末から大暴落をはじめた。利口な一部の人たちが売り逃げし、球根がだぶつきはじめたので、一挙に売り相場となり5000ギルダーの球根が、3ヶ月で50ギルダーまで値を下げた。半値どころか100分の1になったのである。先の例でいうと1万円投資した人は9万9000円の損失を出した。
 当時、市民の平均年収が200〜400ギルダーで、小さなタウンハウスは300ギルダーで買えた。(オランダの通貨ギルダーは、ユーロに変わったので今はもうない。)オランダ人は現物だけでなくチューリップの花の絵をも愛したが、当時の巨匠が描いた最高の花の絵でも、1枚が1000ギルダーしなかった。

 さて、まさにこの「チューリップの時代」を、わが「チューリップ博士」はどのように生きたのであろうか?
 医師ピーターゾーンが姓を「チューリップ」に変えたのは、1621年、28歳のときである。その翌年にはアムステルダム市議会の「長老議員」に選ばれている。家紋にも自宅の紋章にも、議員の公印(印鑑でなく、溶かした赤い蝋に押す印章)にもチューリップのデザインを用いた。チューリップ博士は、政治家としても人気があり、アムステルダムの市長を4期つとめている。それはチューリップ人気のためだけではなかった。
 その著書「医学的観察」を読めば、彼が旺盛な好奇心と優れた観察力(名医の条件)を備えており、しかも自分の見聞を詳細に記録していたことが明らかだ。(小保方晴子にはこれがまったくない。)

 東洋の茶は1610年、茶葉のかたちでマカオからオランダに輸入された。T.スタンデージ「世界を変えた6つの飲み物」(インターシフト)には、1640年頃「ニコラス・ディルクスというオランダ人医師が<茶は万能薬>だとして、その薬効を強調した」という要旨の記述がある。このディルクス(Dirks)は、チューリップ博士のバブル破裂後の別姓である。
 テュルプは「バブル破裂」により、オランダ国民に大きな損害を与えた花と自分が関連づけられるのを嫌がり、自宅の紋章を見えにくい位置に動かし、Tulpと書いた表札も取り外した。
 他方で、植物学にも詳しかった彼は、新しい飲み物、茶の効用を積極的に評価し、その普及につとめた。後に英国でも「南海バブル破裂」事件(1720)が起こり、物理学者ニュートン(造幣局長官もやった)は個人で2万ポンド(今のお金で約1億円)の損失を被っている。バブル破裂後の経済回復には、人びとの記憶が薄れるのが前提になるので、およそ30年かかる。(日本でも、1990年のバブル破裂の記憶がない世代が多数派になるまでは、無理だろう。アベノミクスに個人消費を促す効果がないのは当たり前だ。)

 経済の回復にはせっせと働き、失った富を市民個人が蓄積するしかない。市長になったディルクス博士は茶(発酵させた黒い茶=紅茶:興奮剤カフェインと感染予防剤カテキン、ポリフェノールが含まれる)を健康飲料として奨めるとともに、1655年には市長として、議会の同意をえて「ぜいたく禁止令」をアムステルダム市に公布している。オランダ文化に伝統的な「酒を飲んでの大盤振る舞い」に批判的な態度を示し、「結婚披露宴で50人以上の客を招待すること、披露宴が2日を超えること」などを禁止したのだ。

 飲み食いの勘定を参加者で均分すること、日本語の「ワリカン」を英語で「Dutch Treat(オランダ流:go Dutchとも)」という。英国人が「オランダ人は人におごらない」と皮肉ったものだ。この言葉はオランダが1637年の史上初のバブル破裂後に、経済的にも国民精神の上でも立ちなおって行く過程で、生みだされたものかもしれない。

 テュルプ自身はチューリップに対する愛着を終生、失わなかったようだ。1652年、57歳でアムステルダムの外科医組合から引退する時、チューリップ型の銀杯を後輩の組合員たちに寄贈し、組合の宴会での最後の乾杯の際には、これを使ってほしいと要望している。
 死後1716年に刊行された「医学的観察」の扉に掲載されている彼の肖像は、皮膚の色艶こそレンブラントが描いた若い頃と変わらないが、髪の毛と鬚はすっかり白くなっている。(写真2)
   
(写真2:メイジャー「Classic Descriptions of Disease」より)

 喫茶の風習はその後ヨーロッパに次第に広まって行ったが、茶の木をヨーロッパに移植することには誰も成功しなかった。よって中国からの茶葉の輸入量の増大に比例して、ヨーロッパの銀が中国に流れた。
 英東インド会社はこの輸入超過問題を解決するために、支那人にインドから安くアヘンを輸出して、彼らをアヘン中毒にしておいて、その後アヘンの値段をつり上げて、茶による対中国貿易赤字を相殺することを考えた。これが結局は阿片戦争—大平天国の乱—義和団の乱を引き起こし、清朝が崩壊し、朝鮮と満州の支配権をめぐって、日本とロシアが衝突して日露戦争がおき、さらには日中戦争—太平洋戦争へとつながる。げに「茶、恐るべし」である。
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2 コメント

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Unknown (Mr.S)
2015-01-07 13:08:54
このレンブラントの解剖の絵はよく見た記憶がありますけど、私は良い絵だと思いますよ。
解剖を見守る人々の視線がまばらなのが自然であり、医師の視線は後方に隠れて絵には描かれていない研究生の方向に視線が向いていると言えます。
光源が二か所あっても不思議ではないでしょう。
観る人にそれぞれの表情を分かりやすく描いてある絵だと思います。
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Unknown (Unknown)
2015-01-08 00:12:33
> 例えれば今が秋で、6ヶ月後に土中から掘り出される予定の球根価格が1個2万円になると売り手が予測すると、今5個買えば約束手形で10万円が必要だが、実際にはその1割の1万円を内金として支払えばよい。引き渡し時の球根価格が倍の4万円になっていれば、それを売れば20万円になる。すると、1万円の投資から、19万円の利益が生まれることになる。

ここの計算はめちゃくちゃですね。手付けしか払わないんですか?
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