【写真】は重要な証拠と一般にされるが、説明を変えるととんでもないことになる。
文藝春秋の「世界戦争犯罪事典」をめくっていて、「米軍に捕らえられた慰安婦たち」の写真を見つけた。「慰安婦と日本軍の慰安所」の項(P.106-112)で、キャプションは「北ビルマのミートキーナで米軍に捕らえられた日本人慰安婦たち(1944年8月14日)」とある。(添付1)
ところが、韓国の今年6/10付「中央日報」に掲載された写真は、場所と日付は同じなのに「朝鮮人慰安婦」となっている。(添付2)
PHOT 1には最前列右端に頬がぽっちゃりした女性が写っていて、その隣に白い襟をした服をつけ、頭にナース・キャップのような飾りをつけた女性が写っている。
左端に奥に向かってアジア系とわかる4人の米兵が写っているが、3人が無帽で、一番後がキャップ型の軍帽をつけている。前3人は日系と思われ、一番前は下顎が飛び出した「受け口」をしている。
その横に右向きにうつむいて坐った男とその奥に座った女が見えるが、彼らの正体については後に述べる。
PHOTO 2では、上記2名の慰安婦を2名の兵士(情報係?)が尋問している。
右にいるのはPHOTO 1の左端、前から3人目にいる理知的な顔立ちの兵士である。
左にいるのは、一番前にいる受け口の頑丈そうな兵士である。
どちらの写真も背景に「有刺鉄線」が写っており、「捕虜収容所」であることは間違いない。
ミートキーナは地名変更により現在は「ミャンマー・ミチナ」になっているが、日韓の報道は「1944年8月14日、撮影」では一致している。違うのは「戦争犯罪事典」では「日本人慰安婦」で、提供先が「ORION PRESS/ 共同通信/ 毎日新聞/ World Wide Press」のいずれか(個々の写真には出所が記載されていない)ということ。
「中央日報」の報道では、「朝鮮人慰安婦」で、
http://japanese.joins.
com/article/566/172566.html?servcode=400§code=410
「米陸軍通信隊写真部」が撮影したと報じられていること。
11/5付「産経」は、北ビルマのミートキーナ(現ミャンマー・ミチナ)の日本軍拠点を占領した後、米軍が慰安婦から聴取した記録が見つかったと報じた。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131105/plc13110509210006-n1.htm
記事には、<ミートキーナ(同ミチナ)で捕らえた朝鮮人慰安婦20名らから尋問した内容。 >
とあるが、「産経」は 朝鮮人であることの確認は取ったのか?
というのは、ビルマのサルヴィン川の上流にある中国領拉孟(らもう)にも日本軍守備隊1,300人が駐屯しており、鉄道のないここでは慰安婦は20人(うち日本人15人、朝鮮人5人)だった。
ラングーンから鉄道が通じているミートキーナで、慰安婦が全部朝鮮人ということは、考えにくいと思う。
あるいは秦郁彦氏による写真説明が間違っている可能性も、ないとはいえないだろう。
ともかく「産経」にも「共同」にも、学術的立場から見ても批判されないような調査を期待したい。
(一晩寝て11/23朝、頭がすっきりしたところで、再調査したら謎が解けた。
ネットに「テキサス親父」と名乗る在米日本人がいる。それが米公文書館から取り寄せたAPO689号「米軍報告書」をネットで公開した。そのコピー全文が今、英文と日本語訳と原本の写真つきでダウンロードできる。それを一級建築士の松井という人がアップしたのが、今年の7/23。
http://ameblo.jp/matsui0816/entry-11578841844.html
「産経」スクープの情報源はこれですな…。いまや新聞社がネット情報で記事を書く時代だから、新聞読者が減るわけだ。
で、この米軍報告書の最後のページには尋問を受けた朝鮮人慰安婦20人と「日本人市民」2名の名簿が載っている。
報告書を読むと、攻囲されたミートキーナで慰安婦の死者も出ているので、最初に何人いたかはわからない。その箇所は報告書に書いてない。
慰安婦の供述から、丸山房安大佐の守備するミートキーナ守備の第114連隊は、はじめに空港が連合軍空挺部隊により奪取され、大損害が出たことがわかる。水上源蔵少将が増援に派遣されたのだが、増援兵力が少なく、実権は最後まで丸山大佐が握っていた。
慰安婦の供述は、服部卓四郎「大東亜戦争全史」(原書房)など戦記記述と合致しており、これら慰安婦がミートキーナで捕虜になり、レド捕虜収容所に送られ、そこで尋問されたという。この「報告書」は本物である。
なお、PHOTO 2で、右の尋問している米軍兵士の名前は、「アレックス・ヨリチ」で、帰化日本人。元共産主義者のカール・ヨネダが指揮する「対日心理作戦グループ」に所属していた。ヨネダは後に中国延安にいた毛沢東を訪問しており、理想主義・人道主義の立場から、共産主義に敬意を抱いていた。
CF. J.D.Harrington:「Yankee Samurai」, Pettigrew Enterprises, 1979
そこで「慰安婦名簿」を見る。(添付3)
出身地はすべて朝鮮半島で、都市は釜山から平壌まで南北に広がっている。「日本人市民」2名は、姓が同じで年齢が高い男女であり、これは恐らく夫婦で、「慰安所」の経営者であろう。
名前はヨネダ・エイブンと同トミコ、京畿道京城(ソウル)の出身。Photo 1の左端に右向きに坐り、うな垂れているのは、顔を写してほしくなかったのであろう。
「報告書」原文をよく読むと、
<This report however deals with the Korean"comfort girls" recruited by the Japanese and and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some of 703 of these girls to Burma in 1942.>
(本報告書は、慰安婦一般ではなく、日本人により募集されビルマ駐留日本軍に配属された朝鮮人慰安婦を扱う。日本人は約703人のそのような慰安婦を1942年、ビルマに送ったといわれる。))
<Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master" at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyna. They were, Koyoei, Kinsui, Bakushin-ro, and Momoyama.>
(およそ800人のこれら朝鮮人慰安婦は、このように(「兵士の慰問」、「病人の看護」などのウソがあったことを指す)募集され、日本人の「楼主」(売春宿の経営者)と共に1942年8月20日頃、ラングーンに上陸した。慰安婦たちは8ないし22の組に分かれて到着した。ラングーンからビルマ各地に分散したが、通常は日本軍基地がある、ある程度の大きさの都市に落ちついた。ミートキーナには、最終的に4組がやって来た。楼閣の名前は、「共栄」、「錦水」、「楽心楼」、「桃山」であった。)
とある。「Bakushin-ro」は「Rakushin-ro」の誤記であろう。さもないと遊廓として日本語の意味が通じない。
つまり、ミートキーナには4つの慰安所があったが、そこにいた慰安婦のうちで、朝鮮半島で募集された朝鮮人のみを対象に、尋問して「報告書」が作られたのである。「心理作戦チーム」の目的は朝鮮人慰安婦から、虐待や日本兵の残虐さ・非人道性について聞きだし、宣伝用のリーフレットを作成する材料にすることにあった。
報告書にある「慰安婦の要望」の箇所には、「自分たちが捕虜になったことを報じるのは、やめてほしい」と要望したとある。
「報告書」からビルマに700~800人の朝鮮人(朝鮮応募)がいたことがわかる。ミートキーナに4箇所の慰安所があり、捕虜になった朝鮮人慰安婦が20人である。秦の研究によると、慰安婦の人種別構成比は平均的に日本人4: 現地人3:朝鮮人2: その他1という。(まるでABO式血液型の比率だ。)
従って20/ 0.2=100人の慰安婦が4箇所に分かれて、ミートキーナにいた計算になる。現地人の30人は市街戦が始まった際に、逃亡したであろう。
1940年当時、朝鮮人の文盲率は70%、日本語が分かる朝鮮人は20%で、「ラジオの第二放送(朝鮮語)」は「日本語の直訳的放送」であり、一般朝鮮人の話す言葉と解離していたため、「分からない」という不評が高かった。
Cf. 水間政:「朝日新聞が報道した<日韓併合>の真実」, 徳間書店, 2010
このため朝鮮人慰安婦の尋問に当たっては、「困難があった」とヨリチは報告書に書いている。
後に「エイズ問題」の厚生省調査班長になった塩川優一は、第十八師団(菊兵団)の軍医としてミートキーナに駐留した経験があるが、その回顧録「菊兵団軍医のビルマ日記」(日本評論社, 2002)には、軍慰安所の存在について記載がない。
結論=「世界戦争犯罪事典」(p.107)「北ビルマのミートキーナで米軍に捕らえられた日本人慰安婦たち(1944年8月14日)」と6/10付「中央日報」に掲載された写真は場所と日付は同じなのに「朝鮮人慰安婦」と説明が異なっているのは、なぜだろうか。
1) ミートキーナ日本軍守備隊は残存部隊500名が、1944年8月1日、水上守備隊長の命令でイラワジ川の東岸に撤退している。
2)8月3日、水上大将(大本営より玉砕を前提に二階級特進)は「残余部隊は南方へ転進すべし」という命令を発した後、ピストル自決した。(この水上大将の最期とミートキーナの最後については、防衛指令部付丸山豊陸軍軍医中尉の手記「月白(つきしろ)の道」が残されている。しかし、この本にも慰安所のことは書いてない。)
3)連合軍のミートキーナ占領は8月4日。
4)「米軍報告書」が記載する「慰安婦捕獲日」は8月10(9)日、
5)「レド捕虜収容所」への到着が8月15(14)日。( )内は米国時間。
Cf. 文藝春秋編:「完本・太平洋戦争(上)」, 文藝春秋, 1991(丸山豊「月白の道」抜粋を収録)
まず、慰安婦たちがその雇用主と共に捕獲されたのは、守備隊が全滅した6日後であり、独自に脱出した形跡はないから、市内に潜伏していたところを、捕虜になったのであろう。
その後、陸路自動車でインド北東の端にあるレド(レド公路の起点)の捕虜収容所に送られた。
写真撮影は米国時間の8月14日、つまり到着の日に行われた。これが「世界戦争犯罪事典」に使用されている「集合写真」であろう。
「中央日報」が掲載している写真(Photo 2)は、慰安婦たちの着衣が異なっており、撮影日が8月15日以後の可能性が高い。「報告書」には「尋問日=8/20~9/10, 1944」となっている。この写真が「ヤラセ」でない限り、実際の尋問が始まった8月20日以降に撮影されたもので、撮影日付はPhoto 1, 2とも間違っている可能性がある。
ついで、誰が撮影したのか?という問題だ。
「報告書」には「写真添付」の旨の記載がなく、もし米軍が撮影したとすれば「米軍G2情報部隊機動隊」とする「中央日報」の説明には妥当性がある。しかし連合軍側の従軍記者が撮影した可能性も否定できない。これらの写真のオリジナルな出所が米軍であるなら、そのネガとプリントは「米公文書館」に保管されているはずである。学術的にはそこまで確認しないといけない。
民間にプリントが(対日宣伝のため)提供され、それが二次的に出版社・新聞社に回ったのであれば、しばしば「出所不明」となる。そのため、一次情報のチェックができなくなり、「誤説明」が付け加えられることが多い。
問題の2枚の写真の場合「ミートキーナで捕虜になった朝鮮人慰安婦」とする「中央日報」の説明が正しく、文藝春秋の「日本人慰安婦」とする説明が間違っていると思われる。
誤情報はしばしばそれと気づかれないまま、ひとり歩きする。平時に起これば「風評」だし、有事に起これば「流言飛語」となる。同一の情報が共有できないと、個人間の対立やひいては国家間の対立にまで至ることがある。
無責任な言説でないかぎり、その出典を明らかにし、引用する場合は図表の原典や出所を明記するのが常識である。日本の出版物には、ことに写真のクレジットが欠けたものが多いように思う。
歴史的に有名な捏造写真に、壇上で演説するレーニンの足もとに「赤軍」創設者トロツキーが写っていたのを、スターリン時代になってトロツキーが「反革命」とされたため、彼の姿を巧妙に消した写真をソ連政府がばらまいたという事件がある。
ジョージ・オーウェル「1984年」では、「真理省」という役所が出て来て、独裁者ビッグ・ブラザーの言説が過去と違ったら、現在に合わせて過去を修正するという奇抜なプロットが採用されている。あれはオーウェルの独創ではなく、この「写真のトロツキー抹消」事件から思いついたものだ。
韓国はいま、米国公文書館から「慰安婦がらみ」の資料コピーを国家的に集めているらしい。そのなかには捏造されたり、説明が変えられた写真もあるに違いない。韓国メディアがそれに騙されるのは仕方がないが、日本のメディアや学者が騙されたら、物笑いのたねになるだけだ。
文藝春秋の「世界戦争犯罪事典」をめくっていて、「米軍に捕らえられた慰安婦たち」の写真を見つけた。「慰安婦と日本軍の慰安所」の項(P.106-112)で、キャプションは「北ビルマのミートキーナで米軍に捕らえられた日本人慰安婦たち(1944年8月14日)」とある。(添付1)

ところが、韓国の今年6/10付「中央日報」に掲載された写真は、場所と日付は同じなのに「朝鮮人慰安婦」となっている。(添付2)

PHOT 1には最前列右端に頬がぽっちゃりした女性が写っていて、その隣に白い襟をした服をつけ、頭にナース・キャップのような飾りをつけた女性が写っている。
左端に奥に向かってアジア系とわかる4人の米兵が写っているが、3人が無帽で、一番後がキャップ型の軍帽をつけている。前3人は日系と思われ、一番前は下顎が飛び出した「受け口」をしている。
その横に右向きにうつむいて坐った男とその奥に座った女が見えるが、彼らの正体については後に述べる。
PHOTO 2では、上記2名の慰安婦を2名の兵士(情報係?)が尋問している。
右にいるのはPHOTO 1の左端、前から3人目にいる理知的な顔立ちの兵士である。
左にいるのは、一番前にいる受け口の頑丈そうな兵士である。
どちらの写真も背景に「有刺鉄線」が写っており、「捕虜収容所」であることは間違いない。
ミートキーナは地名変更により現在は「ミャンマー・ミチナ」になっているが、日韓の報道は「1944年8月14日、撮影」では一致している。違うのは「戦争犯罪事典」では「日本人慰安婦」で、提供先が「ORION PRESS/ 共同通信/ 毎日新聞/ World Wide Press」のいずれか(個々の写真には出所が記載されていない)ということ。
「中央日報」の報道では、「朝鮮人慰安婦」で、
http://japanese.joins.
com/article/566/172566.html?servcode=400§code=410
「米陸軍通信隊写真部」が撮影したと報じられていること。
11/5付「産経」は、北ビルマのミートキーナ(現ミャンマー・ミチナ)の日本軍拠点を占領した後、米軍が慰安婦から聴取した記録が見つかったと報じた。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131105/plc13110509210006-n1.htm
記事には、<ミートキーナ(同ミチナ)で捕らえた朝鮮人慰安婦20名らから尋問した内容。 >
とあるが、「産経」は 朝鮮人であることの確認は取ったのか?
というのは、ビルマのサルヴィン川の上流にある中国領拉孟(らもう)にも日本軍守備隊1,300人が駐屯しており、鉄道のないここでは慰安婦は20人(うち日本人15人、朝鮮人5人)だった。
ラングーンから鉄道が通じているミートキーナで、慰安婦が全部朝鮮人ということは、考えにくいと思う。
あるいは秦郁彦氏による写真説明が間違っている可能性も、ないとはいえないだろう。
ともかく「産経」にも「共同」にも、学術的立場から見ても批判されないような調査を期待したい。
(一晩寝て11/23朝、頭がすっきりしたところで、再調査したら謎が解けた。
ネットに「テキサス親父」と名乗る在米日本人がいる。それが米公文書館から取り寄せたAPO689号「米軍報告書」をネットで公開した。そのコピー全文が今、英文と日本語訳と原本の写真つきでダウンロードできる。それを一級建築士の松井という人がアップしたのが、今年の7/23。
http://ameblo.jp/matsui0816/entry-11578841844.html
「産経」スクープの情報源はこれですな…。いまや新聞社がネット情報で記事を書く時代だから、新聞読者が減るわけだ。
で、この米軍報告書の最後のページには尋問を受けた朝鮮人慰安婦20人と「日本人市民」2名の名簿が載っている。
報告書を読むと、攻囲されたミートキーナで慰安婦の死者も出ているので、最初に何人いたかはわからない。その箇所は報告書に書いてない。
慰安婦の供述から、丸山房安大佐の守備するミートキーナ守備の第114連隊は、はじめに空港が連合軍空挺部隊により奪取され、大損害が出たことがわかる。水上源蔵少将が増援に派遣されたのだが、増援兵力が少なく、実権は最後まで丸山大佐が握っていた。
慰安婦の供述は、服部卓四郎「大東亜戦争全史」(原書房)など戦記記述と合致しており、これら慰安婦がミートキーナで捕虜になり、レド捕虜収容所に送られ、そこで尋問されたという。この「報告書」は本物である。
なお、PHOTO 2で、右の尋問している米軍兵士の名前は、「アレックス・ヨリチ」で、帰化日本人。元共産主義者のカール・ヨネダが指揮する「対日心理作戦グループ」に所属していた。ヨネダは後に中国延安にいた毛沢東を訪問しており、理想主義・人道主義の立場から、共産主義に敬意を抱いていた。
CF. J.D.Harrington:「Yankee Samurai」, Pettigrew Enterprises, 1979
そこで「慰安婦名簿」を見る。(添付3)

出身地はすべて朝鮮半島で、都市は釜山から平壌まで南北に広がっている。「日本人市民」2名は、姓が同じで年齢が高い男女であり、これは恐らく夫婦で、「慰安所」の経営者であろう。
名前はヨネダ・エイブンと同トミコ、京畿道京城(ソウル)の出身。Photo 1の左端に右向きに坐り、うな垂れているのは、顔を写してほしくなかったのであろう。
「報告書」原文をよく読むと、
<This report however deals with the Korean"comfort girls" recruited by the Japanese and and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some of 703 of these girls to Burma in 1942.>
(本報告書は、慰安婦一般ではなく、日本人により募集されビルマ駐留日本軍に配属された朝鮮人慰安婦を扱う。日本人は約703人のそのような慰安婦を1942年、ビルマに送ったといわれる。))
<Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master" at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyna. They were, Koyoei, Kinsui, Bakushin-ro, and Momoyama.>
(およそ800人のこれら朝鮮人慰安婦は、このように(「兵士の慰問」、「病人の看護」などのウソがあったことを指す)募集され、日本人の「楼主」(売春宿の経営者)と共に1942年8月20日頃、ラングーンに上陸した。慰安婦たちは8ないし22の組に分かれて到着した。ラングーンからビルマ各地に分散したが、通常は日本軍基地がある、ある程度の大きさの都市に落ちついた。ミートキーナには、最終的に4組がやって来た。楼閣の名前は、「共栄」、「錦水」、「楽心楼」、「桃山」であった。)
とある。「Bakushin-ro」は「Rakushin-ro」の誤記であろう。さもないと遊廓として日本語の意味が通じない。
つまり、ミートキーナには4つの慰安所があったが、そこにいた慰安婦のうちで、朝鮮半島で募集された朝鮮人のみを対象に、尋問して「報告書」が作られたのである。「心理作戦チーム」の目的は朝鮮人慰安婦から、虐待や日本兵の残虐さ・非人道性について聞きだし、宣伝用のリーフレットを作成する材料にすることにあった。
報告書にある「慰安婦の要望」の箇所には、「自分たちが捕虜になったことを報じるのは、やめてほしい」と要望したとある。
「報告書」からビルマに700~800人の朝鮮人(朝鮮応募)がいたことがわかる。ミートキーナに4箇所の慰安所があり、捕虜になった朝鮮人慰安婦が20人である。秦の研究によると、慰安婦の人種別構成比は平均的に日本人4: 現地人3:朝鮮人2: その他1という。(まるでABO式血液型の比率だ。)
従って20/ 0.2=100人の慰安婦が4箇所に分かれて、ミートキーナにいた計算になる。現地人の30人は市街戦が始まった際に、逃亡したであろう。
1940年当時、朝鮮人の文盲率は70%、日本語が分かる朝鮮人は20%で、「ラジオの第二放送(朝鮮語)」は「日本語の直訳的放送」であり、一般朝鮮人の話す言葉と解離していたため、「分からない」という不評が高かった。
Cf. 水間政:「朝日新聞が報道した<日韓併合>の真実」, 徳間書店, 2010
このため朝鮮人慰安婦の尋問に当たっては、「困難があった」とヨリチは報告書に書いている。
後に「エイズ問題」の厚生省調査班長になった塩川優一は、第十八師団(菊兵団)の軍医としてミートキーナに駐留した経験があるが、その回顧録「菊兵団軍医のビルマ日記」(日本評論社, 2002)には、軍慰安所の存在について記載がない。
結論=「世界戦争犯罪事典」(p.107)「北ビルマのミートキーナで米軍に捕らえられた日本人慰安婦たち(1944年8月14日)」と6/10付「中央日報」に掲載された写真は場所と日付は同じなのに「朝鮮人慰安婦」と説明が異なっているのは、なぜだろうか。
1) ミートキーナ日本軍守備隊は残存部隊500名が、1944年8月1日、水上守備隊長の命令でイラワジ川の東岸に撤退している。
2)8月3日、水上大将(大本営より玉砕を前提に二階級特進)は「残余部隊は南方へ転進すべし」という命令を発した後、ピストル自決した。(この水上大将の最期とミートキーナの最後については、防衛指令部付丸山豊陸軍軍医中尉の手記「月白(つきしろ)の道」が残されている。しかし、この本にも慰安所のことは書いてない。)
3)連合軍のミートキーナ占領は8月4日。
4)「米軍報告書」が記載する「慰安婦捕獲日」は8月10(9)日、
5)「レド捕虜収容所」への到着が8月15(14)日。( )内は米国時間。
Cf. 文藝春秋編:「完本・太平洋戦争(上)」, 文藝春秋, 1991(丸山豊「月白の道」抜粋を収録)
まず、慰安婦たちがその雇用主と共に捕獲されたのは、守備隊が全滅した6日後であり、独自に脱出した形跡はないから、市内に潜伏していたところを、捕虜になったのであろう。
その後、陸路自動車でインド北東の端にあるレド(レド公路の起点)の捕虜収容所に送られた。
写真撮影は米国時間の8月14日、つまり到着の日に行われた。これが「世界戦争犯罪事典」に使用されている「集合写真」であろう。
「中央日報」が掲載している写真(Photo 2)は、慰安婦たちの着衣が異なっており、撮影日が8月15日以後の可能性が高い。「報告書」には「尋問日=8/20~9/10, 1944」となっている。この写真が「ヤラセ」でない限り、実際の尋問が始まった8月20日以降に撮影されたもので、撮影日付はPhoto 1, 2とも間違っている可能性がある。
ついで、誰が撮影したのか?という問題だ。
「報告書」には「写真添付」の旨の記載がなく、もし米軍が撮影したとすれば「米軍G2情報部隊機動隊」とする「中央日報」の説明には妥当性がある。しかし連合軍側の従軍記者が撮影した可能性も否定できない。これらの写真のオリジナルな出所が米軍であるなら、そのネガとプリントは「米公文書館」に保管されているはずである。学術的にはそこまで確認しないといけない。
民間にプリントが(対日宣伝のため)提供され、それが二次的に出版社・新聞社に回ったのであれば、しばしば「出所不明」となる。そのため、一次情報のチェックができなくなり、「誤説明」が付け加えられることが多い。
問題の2枚の写真の場合「ミートキーナで捕虜になった朝鮮人慰安婦」とする「中央日報」の説明が正しく、文藝春秋の「日本人慰安婦」とする説明が間違っていると思われる。
誤情報はしばしばそれと気づかれないまま、ひとり歩きする。平時に起これば「風評」だし、有事に起これば「流言飛語」となる。同一の情報が共有できないと、個人間の対立やひいては国家間の対立にまで至ることがある。
無責任な言説でないかぎり、その出典を明らかにし、引用する場合は図表の原典や出所を明記するのが常識である。日本の出版物には、ことに写真のクレジットが欠けたものが多いように思う。
歴史的に有名な捏造写真に、壇上で演説するレーニンの足もとに「赤軍」創設者トロツキーが写っていたのを、スターリン時代になってトロツキーが「反革命」とされたため、彼の姿を巧妙に消した写真をソ連政府がばらまいたという事件がある。
ジョージ・オーウェル「1984年」では、「真理省」という役所が出て来て、独裁者ビッグ・ブラザーの言説が過去と違ったら、現在に合わせて過去を修正するという奇抜なプロットが採用されている。あれはオーウェルの独創ではなく、この「写真のトロツキー抹消」事件から思いついたものだ。
韓国はいま、米国公文書館から「慰安婦がらみ」の資料コピーを国家的に集めているらしい。そのなかには捏造されたり、説明が変えられた写真もあるに違いない。韓国メディアがそれに騙されるのは仕方がないが、日本のメディアや学者が騙されたら、物笑いのたねになるだけだ。
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