ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【府立医大事件・結末】難波先生より

2017-04-07 23:19:07 | 難波紘二先生
【府立医大事件・結末】2/28「毎日」大阪本社版によると問題の暴力団組長について「偽の診断書」を書いた疑いで、京府医大の関連病院「康生会・武田病院」の医師3名が逮捕された。組長はここから京府医大病院に紹介された、とある。韓国籍の一人(61)ともう一人の日本人医師(45)は「見返りに組長側から現金計100万円と商品券を受け取った」と記事にある。
 私立病院だから、これは法律に触れないが、京都での医師謝礼のおよその相場がわかる面白い記事だ。
 4/1「産経」は同大学の吉川敏一(69)学長の辞任に続いて、吉村了勇(のりお)京府医大病院病院長が3/31付で退任すると報じた。4/1付で新病院長となるのは、北脇城(きたわき・じょう)教授・学生部長で、副学長を兼任する(両記事を添付)。「毎日」はベタ記事で数行しかない。

 上の記事の二段目の黒いシミは、食用油(オリーブ油)のシミで、光を反射しないために生じたもの。晩酌しながら、食卓で切り抜くと、時にこういう事故が起こる。下の記事は3M社の「スコッチ・メンディング・テープ」でつないだもの。反射がまったく起こらない。

 前に、電車通りを隔てて市役所の向い側にある「広島市立文書館」に行った時、司書がこのテープの存在を知らないのにあきれ果てたことがある。館長もむろん知らない。
 私は「米国立医学図書館」がずっと前から破れた本のページの修復に、このテープを使っていることを知っていた。恐らくこの女性司書は、和綴じ本と洋綴じ本の紙質と製本法がどう違うか、和紙と洋紙、ことに戦争中と戦後に用いられたザラ紙(酸性紙)が普通の洋紙とどう違うかさえ分かっていないと思われた。
 3M社の文房具が優れていることは、阪大名誉教授宮地徹先生から教わった。先生もNCI留学生のさきがけで、「臨床病理学」という名著を書かれた。
 被爆当時の手書き文書(最初に被爆者の救援と調査に入った東大「都築班」の記録もここに保管されている)は、ザラ紙に鉛筆で書かれており、もうボロボロに風化している。(脱硫酸処理がなされていない。)ヒロシマの恥だ。
 小池聖一教授の「広島大学文書館」では、さすがにこういうことはないだろう。

 「毎日」京都支局の記者は、私立病院の医師には手厳しく、自分がかかるかもしれない大学病院には手ぬるいことがはっきりした。吉村病院長の実質的辞任には、ベタ記事しか書いていない。これは裏返しの「権威主義」である。こういうのは「公器」とも「社会の木鐸」ともいえない。「書かないこと」により私的メリットを得ようとしているだけだ。
 新聞記者は特権意識がつよく、名医がいると知られた呉共済病院泌尿器科外来の待合室から「順番を差し繰って、先に診てくれるように、主治医に頼んで欲しい」という電話が、自宅にかかってきて驚いたことがある。現役の社会部記者ならともかく、その時彼はもう定年退職していた。

 武見太郎は日本医師会長を永く務め、厚生大臣が就任後に、まず日本医師会館の会長室に挨拶に来たほどの権威があったが、銀座に診療所(自費診療のみ)を開いていた。診察は受付順で、「優先順位」を書いた案内板を待合室の壁に掲げていた。それは「1.現役の国務大臣、2.緊急の患者」となっていた。(順位は逆だったかもしれない。)

 アメリカには「医師が他の医師の本人・家族を診療する際には料金を請求しない」という慣行がある。日本でも「商工会会員」だと一流ホテルでも、割引で利用できる。娘の結婚披露宴では、広島市宇品のプリンス・ホテルを使い、エドの両親の部屋は瀬戸内海が一望できるツィン・ルームを家内が割引料金で手配した。エドの母親は当時、カリフォルニア大バークレー校の図書館司書だった。

 京府医大事件については、「100年の歴史(京大より古い)を誇る府立医大で、こんな不祥事が起こるとは!」という、同窓会役員の強烈な義憤を聞いた。
 元もと、京大医学部は研究中心で、傑出した学者を多く輩出している。それが行き過ぎて「捕虜人体実験の731部隊」まで誕生した。
 それに比べて京府医大は賀茂川の西、京都御所の近くにあり、京都市民の病院として、尊敬されていた。つまり市民に「よい医療を提供する大学病院」という定評があった。

 今回の事件はその信頼を大きく損なったものだが、井原西鶴によると、「信用は簡単に失われるが、取り戻すのも易い」という。「人のうわさも七十五日」ということわざもある。
 ともかく「膿を出し切って、早期の全治」を期待したい。
 警察は雑魚を逮捕しただけで、大物は逃げ切ると思うが、もう学内の要職にはつけないだろう。同大病院長、吉村了勇日本臨床腎移植学会・理事長の実質的失脚を見ると、田中紘一(元日本移植学会理事長)と同様に、「修復腎移植」反対の中心になって活動した人物だけに、同移植術が受けられなくて無念の死をとげた、多くの移植待ち透析患者の「祟り」があるのでは?と思ってしまう。

 「君子過ちて 改むるに はばかることなかれ」(「論語」)という。
 大島伸一氏は、松山地裁で裁判の証人として「自分は当時欧米で病腎移植が行われていることをまったく知らなかった」と証言して、実質的に謝罪した。アホな裁判長はこの意味を理解できなかった。
 大島先生はいまも愛知県にある「国立長寿医療研究センター」の名誉院長として健在だが、謝罪していない事件当時の他の学会幹部にも、不吉な運命が待ち受けているような気がする。


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