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【吾妻鏡】難波先生より

2013-11-26 12:47:46 | 難波紘二先生
【吾妻鏡】前に、この本の既刊5冊を岩波文庫で揃えた話を書いた。
 治承4(1180)年4月から、暦仁元(1238)年まで、58年間の鎌倉幕府の時代の歴史書がそろったと思っていた。ところが「岩波文庫総目録」を調べると、「全8冊のうち5冊が既刊」とある。信じられない。
 第1分冊の初版は、1939年8月に出ている。それから74年経っても全巻が刊行されないとは…。


 他に文庫本はないから、恐らくこれは「国史大系」というようなシリーズ本で揃えるしかなく、日本史の専門家でもほとんど読んだ人がいないのではなかろうか…。
 
 11月の初め、高校のクラス会で伊豆半島に遊んだ。頭の中では、「伊豆半島はもと太平洋の沖にあり、本州に衝突したため富士山・箱根山地が形成された」と理解していても、実際に現地を見るのとは大違いで、小田原、湯河原、熱海、伊東、下田、湯河原、三島と伊豆半島のその付け根のあたりは温泉だらけだ、ということを「発見」した。


 これはすぐ下にマグマがあるということだ。ちなみに広島県には温泉がほとんどない。中央構造線が東西に走っている四国には、有名な道後温泉がある。


 「そしたら、鎌倉に拠点を置いた鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡』には、さぞかし地震の記録が多いだろうな」と思ったのが、この書をめくる気になった原因のひとつである。
 伊藤博文の暗殺者、安重根の左手薬指が「詰められている」という事実の発見もある。


 確かに「吾妻鏡」には、地震の記録がずば抜けて多い。石橋克彦は「天正18(1590)年の小田原北条氏の滅亡以前は、鎌倉時代を除くと関東地方の地震の歴史文献はきわめて少ない」と書いている。
 Cf.石橋克彦:「大地動乱の時代」, 岩波新書, 1994 (索引、引用文献なし)


この地震学者石橋も伊藤和明も、せいぜい宝永の富士山噴火くらいまでで、「吾妻鏡」の記録を文献として挙げていないから、地震学者はこれを読んでいないと思われる。
 Cf. 伊藤和明:「地震と噴火の日本史」、岩波新書, 2002(索引、引用文献なし)


それは日本史の素人でも読めるちゃんとした現代語訳の「吾妻鏡」を出さない日本史及び国文学の専門家が悪い。74年経っても、文庫を完結させない出版社も悪い。
 というわけで、私が眼を通せたのは文庫本5冊、治承4(1180)年~暦仁元(1238)年までの58年間にすぎない。
 が、何とこの間に
 <治承=養和=寿永=元歴=文治=
  建久=正治=建仁=文久=建永=
  承元=建暦=建保=承久=貞応=
  元仁=嘉禄=安貞=寛喜=貞永=
  天福=文曆=嘉禎=暦仁>
 と24回も改元している。短い場合は、1年に2回改元が行われている。


 改元は天変地異があると行われるから、鎌倉時代にそれらがいかに多発したか、しかも鎌倉幕府は、相模湾を挿んで伊豆半島に対面する、三浦半島の付け根にあったのだから、フィリピン・プレートの移動の影響をもろに受けたはずだ、ということがわかる。


 実際、この書を繰ってみると、地震、噴火が実に多発している。とても全部は調べきれないが、「理科年表 2002」(丸善)を見ると、1177(治承元)年から1241(仁治2)年までに、大地震が7回起こっている。うち5回は鎌倉で、大きな被害が出ている。(建物等の被害が明細に記録されているから、地震学者が読めばマグニチュードが計算できるだろう。)
 北条氏は伊豆半島が「本願の地」だが、この頃は鎌倉に移っていた。「吾妻鏡」は鎌倉で書かれているから、伊豆の被害はあまり書いてない。


 最近、小笠原諸島西之島の東方500mで海底火山が爆発して、新島」ができ、「日本の領海が500m広がった」と喜んでいる無邪気な「愛国主義者」と妬んでいる韓国のマスコミがあるが、決して喜んではいられない。


 添付図1は、上記の石橋克彦「大地動乱の時代」(p.123)からの引用だが、太平洋プレートがフィリピン海プレートにもぐり込むところに、「伊豆・小笠原海溝」が形成されている。
 つまり伊豆半島の延長が伊豆諸島であり、その南が小笠原諸島だ。
 これらの島々はすべて起源は海底の火山噴火にあり、それは「スラブ」と呼ばれるプレートの厚いタイルが、隣接するプレートの下にもぐり込むために起こる。(日本には火山性の島が多いが、韓国には済州島しかない。)


 このスラブが地表から100キロ下に達したところに、「マグマ溜まり」が形成され、噴火が起きやすい「火山フロント」が形成される。この火山フロントは、伊豆大島から三宅島、八丈島をへて、硫黄島まで達するほぼ直線をなしている。


 従ってもし仮に、この火山フロント上にある三宅島、伊豆大島が噴火したら、フィリピン海プレートがユーラシア・プレートにもぐり込む地点である「相模トラフ」は東で「伊豆小笠原海溝」に接しているから、相模トラフにも異変が起きる可能性がある。


 そうなると、12世紀末から13世紀前半、鎌倉時代に同地方を襲ったような多発性の大地震が900年ぶりに繰り返す恐れがないとはいえないだろう。まあ、八丈島、三宅島が大噴火するまでは安全だろうが…。


 この項を書くのに、
 井尻正二, 湊正雄:「地球の歴史」, 岩波新書, 1965/3
 を参照した。
 これは索引(但し事項索引だけ)があるよい本だが、まだ「プレート・テクトニクス」理論が採用されていない。無理もない、1982年に私が広島大に赴任した時、隣の部屋にいた地学の教授は、この理論を知らなかった。アメリカでは既に「ワシントン・ポスト」日曜版が大きく取り上げていたのに…。


 で、この本には定価表示がないのに気づいた。
 私がもっている最古の岩波新書は、
 安田徳太郎:「世紀の狂人」, 1940/2 で、これには奥付に「定価50銭」とある。その次ぎに古いのが、畑中武夫:「宇宙と星」, 1956/7だが、これには帯があり奥付と帯の両方に「定価130円」と書いてある。


 ところが井尻の本は、表紙を保護するハトロン紙があるのに、帯がない。奥付の定価表示もない。不思議に思って中扉を見ると、鉛筆で「150」と書かれている。これで謎が解けた。


 この本は古本屋で買ったのだろう。古本屋が帯に定価が書いてあるので、それがあると定価とあまり変わらないことがばれるので、帯をはずして150円の値段を付けたのだろう。
 買った本は第12刷で、1970/11刊だから定価は150円以上だったのだろう。1971/11に出た岩波新書の、鈴木尚:「化石サルから日本人まで」は帯がなくて、奥付に「定価380円」と印刷してある。(これは1981年第10刷なので、71年初版の数値とは違うかもしれない。)


 どうやら、1970年代に岩波新書には、「帯のみに定価を付ける」、「奥付に定価を付ける」という2法式が共存していたようである。今の本には、帯にしか定価が書いてない。いつそうなったのかわからない。
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