【書評】
1)エフロブ「買いたい新書」に東京日日新聞社会部編「戊辰物語」,岩波文庫をアップしました。今の毎日新聞社が昭和3年、戊辰戦争(北越戦争)から60年後に生存者から聞き書きした貴重な証言が沢山あります。
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1363851758
これを手許に置いて参照すると、NHK大河ドラマや幕末維新小説の味わいも一段と深まるのではないか、と思います。
2)書評家百目鬼恭三郎の死後に出た『風の文庫談義』(文藝春秋, 1991)の帯には、「峻烈並びない書評家」とある。しかし「文庫本の解説」として書かれた本書所収の文章を見ると、きわめて客観的かつ評価が妥当である。『高橋是清自伝』の解説はごく妥当だ。
ところが「週刊文春」に「風」という匿名で書いた、約100本の書評をまとめた『続・風の書評』(ダイヤモンド社)を読むと、およそ9割が取りあげた本をコテンパンにやっつけている。ほめているのは東大卒の小室直樹『日本<集合>主義の魔力』(ダイヤモンド社)ほか数冊、といってもよい。
司馬遼太郎『ひとびとの跫音(あしおと)』(中央公論社)でさえ「作者の講釈が多すぎる」と批判されている。あの作品は正岡子規の養子忠三郎の人生を扱ったもので、遼太郎は「坂の上の雲」を書くときに、子規に関する資料を求めて忠三郎の世話になった。読者は1905年の日露戦争はおろか、明治という時代をまったく知らないのだから、時代小説と同じで作者のコメントが必要なのである。
辞書、事典、年表、ことわざ集、小説、飜訳本、随筆、詩集、歌集、書評集にいたるまで、俎上に載せてその誤りを摘出し、至らざる及ばざるを指弾する。まれにほめても末尾でけなす。これでは書評された方はたまらないだろうと思う。
書評というのは週刊誌の場合、書くのが週に1回で、多くても紹介できるのは4冊だろう。年に200冊だ。(実際には百目鬼は2年間で108冊しか紹介していない。)年に数万冊出る本の中から選ぶのだったら、推薦できる良い本を選ぶのが読者のためだといえるだろう。「この本は買うな」というためだったら、取りあげないのが最善だろう。
「百目鬼書評」の欠陥は、わざわざそういう本を選び、著者の無知や至らなさを糾弾している点にある。しかも書評を読むと、著者のターゲットは明らかに「進歩的文化人」や「平和主義者」に向けられている。「朝日新聞文化部」にいて、これが貫けるはずがない。結局、1984年に朝日を退社し、7年後の1991年に肝硬変のため65歳で死去した。
彼の書評を読んで気がつくのは、東大出身者の本と朝日新聞社から出た本に対する書評が甘いことと、旧制新潟高校の同級生である丸谷才一の著書への評価が甘いことだ。これは明らかに「身びいき」である。もっとも、学歴のない長谷川伸の著作など、これは故人だけに評価は公正だと思う。『相楽総三とその同志』、『日本俘虜史』はすぐれたノンフィクションであり、『ある市井の徒』は破天荒な自叙伝である。
しかし、百目鬼の『読書人読むべし』(新潮社, 1984)などは、立花隆『僕はこんな本を読んできた』(文藝春秋, 1995)が及びもつかない、すぐれた書評集であることは確かだ。この書評家に対して谷沢永一が無関心でいるはずがなく、どこかで何かを述べているはずだが、今のところ見つけられない。
私の「買いたい新書」の書評は、百目鬼とは異なり「推薦できる本」だけを取りあげている。そのためにせっせと本を買い、ページをめくって品定めをしている。索引がない、参考文献の記載がない、事実関係の間違いがあるなど、どんな本にも欠陥があるが、それを前に出せば推薦する意味がない。だからさりげなく指摘し、全体としては推奨するというかたちの書評にするところに苦心がある。
1)エフロブ「買いたい新書」に東京日日新聞社会部編「戊辰物語」,岩波文庫をアップしました。今の毎日新聞社が昭和3年、戊辰戦争(北越戦争)から60年後に生存者から聞き書きした貴重な証言が沢山あります。
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1363851758
これを手許に置いて参照すると、NHK大河ドラマや幕末維新小説の味わいも一段と深まるのではないか、と思います。
2)書評家百目鬼恭三郎の死後に出た『風の文庫談義』(文藝春秋, 1991)の帯には、「峻烈並びない書評家」とある。しかし「文庫本の解説」として書かれた本書所収の文章を見ると、きわめて客観的かつ評価が妥当である。『高橋是清自伝』の解説はごく妥当だ。
ところが「週刊文春」に「風」という匿名で書いた、約100本の書評をまとめた『続・風の書評』(ダイヤモンド社)を読むと、およそ9割が取りあげた本をコテンパンにやっつけている。ほめているのは東大卒の小室直樹『日本<集合>主義の魔力』(ダイヤモンド社)ほか数冊、といってもよい。
司馬遼太郎『ひとびとの跫音(あしおと)』(中央公論社)でさえ「作者の講釈が多すぎる」と批判されている。あの作品は正岡子規の養子忠三郎の人生を扱ったもので、遼太郎は「坂の上の雲」を書くときに、子規に関する資料を求めて忠三郎の世話になった。読者は1905年の日露戦争はおろか、明治という時代をまったく知らないのだから、時代小説と同じで作者のコメントが必要なのである。
辞書、事典、年表、ことわざ集、小説、飜訳本、随筆、詩集、歌集、書評集にいたるまで、俎上に載せてその誤りを摘出し、至らざる及ばざるを指弾する。まれにほめても末尾でけなす。これでは書評された方はたまらないだろうと思う。
書評というのは週刊誌の場合、書くのが週に1回で、多くても紹介できるのは4冊だろう。年に200冊だ。(実際には百目鬼は2年間で108冊しか紹介していない。)年に数万冊出る本の中から選ぶのだったら、推薦できる良い本を選ぶのが読者のためだといえるだろう。「この本は買うな」というためだったら、取りあげないのが最善だろう。
「百目鬼書評」の欠陥は、わざわざそういう本を選び、著者の無知や至らなさを糾弾している点にある。しかも書評を読むと、著者のターゲットは明らかに「進歩的文化人」や「平和主義者」に向けられている。「朝日新聞文化部」にいて、これが貫けるはずがない。結局、1984年に朝日を退社し、7年後の1991年に肝硬変のため65歳で死去した。
彼の書評を読んで気がつくのは、東大出身者の本と朝日新聞社から出た本に対する書評が甘いことと、旧制新潟高校の同級生である丸谷才一の著書への評価が甘いことだ。これは明らかに「身びいき」である。もっとも、学歴のない長谷川伸の著作など、これは故人だけに評価は公正だと思う。『相楽総三とその同志』、『日本俘虜史』はすぐれたノンフィクションであり、『ある市井の徒』は破天荒な自叙伝である。
しかし、百目鬼の『読書人読むべし』(新潮社, 1984)などは、立花隆『僕はこんな本を読んできた』(文藝春秋, 1995)が及びもつかない、すぐれた書評集であることは確かだ。この書評家に対して谷沢永一が無関心でいるはずがなく、どこかで何かを述べているはずだが、今のところ見つけられない。
私の「買いたい新書」の書評は、百目鬼とは異なり「推薦できる本」だけを取りあげている。そのためにせっせと本を買い、ページをめくって品定めをしている。索引がない、参考文献の記載がない、事実関係の間違いがあるなど、どんな本にも欠陥があるが、それを前に出せば推薦する意味がない。だからさりげなく指摘し、全体としては推奨するというかたちの書評にするところに苦心がある。
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