モウズイカの裏庭2

秋田在・リタイア老人の花と山歩きの記録です。

カテゴリー「街並みと建物」の目次

2024年08月10日 | 街並みと建物

【カテゴリーごとの目次・頁の作成にあたって】
ブログを始めて三年目になると、
いつの間にか記事の数が増え、自分自身でも旧記事を探すのがタイヘンになって来ました。
当初はカテゴリーを細分化して対応しておりましたが、カテゴリーの数は本ブログでは百個まででした。
また私の使用しているテンプレートでは、
カテゴリーをクリックして出る「カテゴリーごとのブログ記事一覧」は五個まで表示される設定となっております。
すると、記事数が六個以上あるカテゴリーでは目的の記事を探すには、
記事一覧の最下段、「前ページ」を1~複数回、クリックする必要があります。
もう少し楽に記事を探す方法はないものか。
ブログではあまり例のないことかもしれませんが、
カテゴリーごとに目次の頁を作成し、「カテゴリーごとのブログ記事一覧」の先頭に据えることにしました。
というわけで、記事数が多めのカテゴリーから徐々に「カテゴリーごとの目次」の頁を作って行きます。
なお新しい記事を加えたら、その都度、目次の頁が先頭に来るようにしなければなりません
(現実には年一、二回やれればいい方かもしれません)。
ちょっと面倒ですが、少なくとも今までよりは効率よく記事が探せるようになることでしょう。
冬場は山に行かないので、新ネタ記事は夏場に較べて格段に少なくなります。
しばしの間、「カテゴリーごとの目次」の新規作成や更新が続きますので、どうかご了承お願いいたします。


(記事の配列は、おおむね訪問月日の順に並べ、降順とした。)


ミルハスで音楽?コンサートを。(2023年11月27日)

如斯亭に行ってみた。(2022年11月9日)

ミルハスは見るだけ(2022年9月30日)

三内丸山遺跡と黒石中町こみせ通り。(2014年8月11日)

New ミルハスのほとりで蓮を見る。(2024年7月30日)

New 秋田蕗を訪ねて五千里、いや五千米。(2024年6月5日)

New 街中で山の写真展を見た。(2024年5月1日)

能代の金勇に寄ってみた。(2017年4月2日)

早春の北陸旅行・富山シティ編(2017年3月6,7日)

早春の白川郷(2017年3月6日)

早春の北陸旅行・金沢タウン編(2017年3月5日)

横手かまくらと六郷天筆(2018年2月)

増田の内蔵に行ってみた。

初めての久保田城(2016年12月12日)



六郷の天筆
  
                                           能代の金遊


以上。

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ミルハスのほとりで蓮を見る。(2024年7月30日)

2024年08月04日 | 街並みと建物

これは秋田市千秋公園のお堀に咲くハスの花。




今年七月の秋田はどうしたことだろう。
中旬以降はずっと雨続きだ。

特に7月24日と25日の秋田は由利本荘市や横手湯沢など県南地方で大雨になった
(山形県庄内、最上地方でも大災害となった)。
そのため24日以降は外出もままならない状況が続いている。
約一週間後の30日は雨が止んだので、家内を誘って秋田市の街中に出てみた。

最初に訪ねたのは千秋公園の大手門のお堀。




此処はハスの名所だが、今年はお堀の中に浮橋スタイルの遊歩道が整備された
(詳細は「街中で山の写真展を見た。」の前半参照)。
今日はその浮橋を渡ってみようと思う。

千秋公園の中土橋を歩く。
行く手左奥の大きな建物はあきた芸術劇場ミルハス。




右手のお堀はハスでびっしりと覆われている。
お堀のハスは中土橋のベンチからもよく見える。




新しく作られた浮橋の遊歩道に踏み出してみた。







ここから見るハスの葉は秋田蕗に似ている。




以下、ハスのクローズアップ写真を連ねる。













花が完全に開くと、中心に如雨露(じょうろ)のような形のものが見えるようになる。

これは花托(かたく)と呼ばれる。

花托(かたく)のみ。

 



ウィキペディアによると、
日本での古名「はちす」は、花托の形状を蜂の巣に見立てたとするのが通説で、
「はす」はその転訛とのこと。












背景の建物は左からにぎわい交流館AU、県立美術館、秋田キャッスルホテル。




ひと通りハスを見たのでお堀から出る。

目の前には芸術劇場ミルハス。
施設の名称は今見て来たハスにちなむものと思われる。




次はハスではなく、フキ(秋田蕗)とそれを刈る観光レディ。

これはにぎわい交流館AUの観光PR用の看板だ。




5月1日に見た看板(こちら)とは違う写真になっていた。

今回は折角街中に出て来たので、
前から寄りたいと思っていた食器専門店「食器のさかいだ」(こちら)に向かった。
仲小路の通りを行く。




さかいだの店の入り口

 

(右上)ここにもハスが居た。


食器を購入したら、レジ横にネコが居た。
このお店の看板ネコ(保護ネコ)だそうだ。




以上。

コメント (4)
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秋田蕗を訪ねて五千里、いや五千米。(2024年6月5日)

2024年06月11日 | 街並みと建物

著名な秋田民謡のひとつ、秋田音頭に
「秋田の国では、雨が降っても、唐傘などいらぬ、
手ごろの蕗の葉、サラリとさしかけさっさと出て行がえ」

の歌詞があります。

現実には雨の日、蕗の傘をさして歩く秋田人は居ないのですが、
気持ちはわからないでもありません。




冒頭写真は5月1日、県立美術館で開催中の写真展を見に行った際、
向かいのにぎわい交流館AUで見た観光PR看板です
(詳細は「街中で山の写真展を・・・」を参照)。

実はこの後、家内が秋田蕗が実際に生えているところを見たい、
(`◇´)秋田県人なのに蕗を見ないまま死ぬのはいやだ。
などと急に自己主張し始めました。

その後、ネットで検索してみたところ、
自宅の有る御所野から車で10分程度、
距離で言うなら五千里いや五千米(メートル)程度、
走った秋田市仁井田地区に
蕗畑があると判りました。
6月になったらすぐに家内が直接電話して見学の予約を取り付けました。
以下は6月5日の秋田市仁井田、Sさんの蕗畑訪問記録です。

仁井田地区に入ると、そこは秋田市の一角なのに、
道の両側に商店は無く、ブロック塀に囲まれた農家風の住宅ばかりが連なっています。







この辺だろうと当たりを付け、家の前に出ていた老人に声を掛けたら、
なんとSさんでした。




蕗畑は住宅の奥のビニールハウスのかげに有りました。







この「よしず」で囲まれた中が蕗畑だと知らされちょっと驚きました。

ワタシ実は秋田蕗の畑はもっと広大な場所だと勝手に思っていました。
よしずで囲っているのは蕗の倒伏防止のためだそうです。
よしずを固定しているビニール紐をハサミで切り取り、
よしずの一部を取り除くと、巨大な蕗が現れました。







「今年は育ちが好くないので小さいが、よく育った葉は直径1メートルを優に超える。」

Sさんが鎌で数本刈り取って人が入れるスペースを作ってくれました。
そこに家内が入って行きました。




 





 


刈り取った茎の中はご覧のように空洞となっており、
アルファベットのAのようにも見えます。

Sさんによると、
昔は太くなった茎を砂糖漬けのお菓子に加工して食べたものだが、

最近は他にもっと美味しいお菓子がいっぱい有るので
蕗菓子などは誰も会いてしなくなった。

また蕗の栽培はけっこう面倒なようで・・・
連作を嫌うため、毎年のように掘り上げて移植しなければならない。

でかく育てるためには肥料もしこたま使う。
風に弱く折れやすいのでよしずで囲って保護している(県北の農家は囲わない)。
いずれにしろ手間ばかりかかってしょうがない。

後継者もいないので、この畑もあと二、三年で辞めるつもりだとのこと。
冒頭写真のような秋田おばこ(観光レディ)による蕗刈りパフォーマンスも
今年から取りやめ
・・・
と寂しいお話ばかりだった。

帰りに蕗の細い茎を数本と(隣に植わっていた)ほうれん草を頂いた。




蕗はその日の晩に煮物にして食べました。美味しかったです。
Sさん、ありがとうございました。

以上。

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街中で山の写真展を見た。(2024年5月1日)

2024年05月08日 | 街並みと建物

5月1日は約半年ぶりに秋田市の街中に出た。
前に出たのは、昨年11月下旬。
この時はミルハスで吉幾三のコンサートだった(記録はこちら)。

今回は山の写真家大川清一さんの写真展を見るために出た。
その会場は県立美術館。こちらは千秋公園向かいのエリアなかいちに有る。
エリアなかいちに着いてすぐ、
向かいにあるミルハス(建物)とお堀に新しく出来た浮橋を見に行った。




中土橋を渡ると




左にミルハス。




今日はミルハスには用が無いのでここでUターン。
お堀に新しく出来た浮橋を見る。これは主にハス(蓮)を見るために作られたと聞く。




蓮はまだ生えておらず、橋には立ち入り出来なかった。




エリアなかいちに戻ったら、午前10時ちょうど。





県立美術館は広場奥のグレイの建物。

にぎわい広場でラーメンフェスタが始まっていた。




ラーメンスープの匂いがとても心地よい。

写真展よりも腹ごしらえを優先した。




黄金真鯛極上塩そば(群馬県より出店)に挑戦。
美味かった。




続いて、蓮ではなく蕗。




秋田蕗の刈り取りはもう少し先だが、これはにぎわい交流館AUの看板だ。

 



(右上)今度こそ県立美術館に入館。

家内と写真鑑賞。写真撮影は条件付きで許可されていた。













素晴らしい写真ばかりだった。

もっとアップで載せたかったが、SNSへのアップ写真投稿はマナー違反なので自粛。

撮影機材一式
 


(右上)山で使用したテント


私にしては珍しいことだが、写真集「北東北山々の輝き」も購入した。

写真集「北東北山々の輝き」 (著者:大川清一、発行:秋田魁新報社)



以上。

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ミルハスでコンサートはいかが。(2023年11月27日)

2023年12月03日 | 街並みと建物

11月27日は秋田市の中心部にあるあきた芸術劇場ミルハスに行ってまいりました。
ここは昨年秋、本格オープンしたばかりの頃、ハス(蓮)ではなく、建物をミルだけのために行っております
こちら参照)
が、今回は音楽?コンサートをミルために行きました。
11月27日、開催されたのは吉幾三のコンサートでした。
私自身は特別ファンというわけではないのですが、
意外にも家内が熱烈なファンでして、私は運転手兼お相伴役でした。
コンサートの内容やその良し悪しはさておき、自身と同年代なのに吉氏の声量、歌唱力には圧倒されました。
また観衆の平均年齢はたぶん私と同年代以上ばかりだったのに驚きました。
音楽コンサートに行くのは、10年近く前の平原綾香以来ですが、
こんなに平均年齢が高かったコンサートは初めて・・・。いや自分が年取ったせいなのか。










ミルハスの詳細はこうです。⇒ あきた芸術劇場ミルハスのホームページ
コンサート会場になった2007席の大ホールはみごとでした。


吉幾三のコンサートポスター


コンサート・ホール内は撮影禁止だったので、ポスターでどうかご勘弁を。

・・・とfacebook上に投稿したところ、友人達から幾つかのコメントが寄せられました。
中でも、群馬県在住の西○△◆子さんのコメントはとても興味深い内容でした。
勿体ないので、西○さんの了解も得たうえで本ブログにも転載させて頂きます。
以下、西○さんと私とのやり取りです。


西○△◆子さん:
ここには、昔、秋田市のシンボルとして永く県民に親しまれ、
千秋公園の森を背景に瀟洒な姿をみせていた県記念館がありました。

古い記憶に、幼い頃、祖母に連れられて、バレェなど、鑑賞した記憶があります。
でも、昭和35年(私が小6の頃)老朽化を理由に解体され、跡地には県立図書館ならびに県民会館が出来て、
高校生の私は図書館で勉強したり、県民会館での高校演劇コンクール参加が思い出となってます。
今は、ミルハスになってるのですね!
ちなみに、昔の県記念館は、あの辰野慎吾氏なども設計に関与したという瀟洒なものでした。

(画像は県記念館)



西○△◆子さん:
実はこの記念館の前に、秋田県公会堂という建物があったようです。
明治40年の絵葉書にその様子が伺われます。
東宮(皇太子時代の大正天皇)御成婚記念事業として、
明治37年に落成した「秋田県公会堂」は大正7年4月、惜しくも焼失。

実はその頃、記念館が公会堂に増設されていて、この公会堂が消失したあと、記念館が残った訳です。
画像は明治時代の絵葉書に描かれた公会堂です。
この公会堂に使われた煉瓦が、県民会館取り壊し時(ミルハス建設時)に、
地下から発見されたとの新聞記事を見ました。




モウズイカ:

西○さん、貴重な情報ありがとうございました。
この場所には古くから特別な建物があったんですね。

もしかしたら江戸時代、佐竹家の時代も特別な場所だったかもしれませんね。

西○△◆子さん:
ここは久保田藩家老・渋江内膳などの渋江宗家の屋敷跡です。
江戸時代を通じて久保田城三ノ丸下中城の西側高台(現在のミルハス・元秋田県民会館所在地)にありました。
本丸が火災に遭った時は藩主の仮御殿として使われたり、
明治維新後も屋敷跡に、伝習学校や秋田県公会堂が建設されました。

モウズイカ:
西○さん、やはりそうでしたか。教えて頂きありがとうございました。

西○△◆子さん:
私の幼い頃、そこに記念館が建てられてましたが、
その周り(お掘に沿って)は久保田藩の重臣の屋敷がまだ残ってました。

当時の秋田カトリック教会は、そういう重臣の屋敷を使用してました。
畳の大広間に聖壇を置き、ドイツ人の神父さまがおミサを。
私はこの大きな屋敷の一室での教会学校に通ってましたが、畳の部屋に椅子テーブルで勉強しました。
渋江家は重臣中の重臣なので、この教会に使われた御屋敷よりも、大きかったんでしょうね。
実はミルハス建築前の記念館やその前の県公会堂など、
明治時代の秋田は、
イザベル・バードも述べていたように、
久保田は先進的な土地柄で、素敵な西洋建築が立ち並んでいたようです。

公会堂は焼けたのでしょうがないですが、
記念館は壊すのではなく、保存していたら、どれほど価値が有ったかと。

残っている画像を見ても、辰野金吾が関わっていたという情報を聞くに連れ、残念でなりません。


以上。

コメント (4)
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