
森の王者 作者大隅 充
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まだレオンの病の初期症状が出る前の山桜の咲く
春の月のきれいな夜。そういえばチャータは、あれ
は何だったのかと今にしてみれば思い出す。すっか
り一人前気取りで親の言うことなんか聞かなくなっ
たレオンが珍しく夜中に寝ぐらのブナの木の洞に何
度も入って来て寝ているチャータとシロの間に潜り
込むと赤ん坊のようにペロペロとシロの足を舐めた
り、チャータの首に噛みつき、うるさいと怒ると素
直に腹を出してコロンとひっくり返ってみせたりし
た。
それが朝まで何度でも繰り返すものだからチャー
タは寝不足で陽の出とともに洞の巣を出た。どうし
た?わが息子よ。と嗜めてもレオンは、怯えたとい
うよりはこの上なく幸せだよという澄んだ眼をして
駄々っ子のように舐めたり噛んだりを繰り返した。
今考えても後にも先にもあんなことは、あれ一回
きりだった。そしてその後何日もしないでレオンは
歯が抜けて辛そうに泣き叫んだ。そして息をしなく
なったのは山桜が散るのと同じころだった。
わが息子レオンが死んで季節は、葉桜から新緑に
山が萌え出した当たりから母シロの様子がおかしく
なった。一日ブナの洞から出なくなった。チャータ
が何か言っても頷いて溜息ばかりをつく。ときどき
涙を浮かべている。仕方ないのでチャータは食事の
エサを咥えて来ては食べさせてやらなければならな
くなった。母親が幼子になってしまった。
それは、一年たっても治らなかった。むしろシロ
の引きこもりは、タルカの狂い病よりも性質の悪い
心の病だった。そして終いにはモノも食べなくなっ
てしまった。どんなに新鮮な肉を運んで行っても鼻
先を近づけるだけでどうしても口に持っていこうと
しなくなった。日に日に痩せていった。そして生命
のぎりぎりのところでシロはチャータから水と食物
を口移しで補給した。
このシロの引きこもりの一年の間にグレーの弟は
山を逃げるように降りた。山自体が悪い病に侵され
ていた。ブナも樺も春になっても葉をつけず森は枯
れ木が目立つようになった。チャータもいよいよこ
の生きものの気配のなくなった山を去る決意をして
嫌がる痩せこけたシロを咥えて引きづりながら山を
降りて白神の谷へ入った。
白神の谷には野イチゴが赤々と絨毯のように咲き
乱れて山から逃げて来た生き物でいっぱいだった。
チャータはその谷の斜面に凭れるように折れたダテ
カンバの倒木の下に穴を掘り、シロのための巣をつ
くった。野イチゴを目当てにリスやムクドリがやっ
て来て、又そのリスを目掛けてキツネが出入りする。
当分エサには困らない。あの死んだようになった山
の生活からしたら天国のようだとチャータは思った。
先に山を降りたグレーの弟とも再会した。痩せこけ
て骨だらけだったグレーの弟がここではすっかり元
のふくよかな体格に戻ってチャータと一緒にになっ
てシロの回復のためにエサをせっせと運んだり、シ
ロの前で満月の夜など奇妙なステップのオオカミダ
ンスをして見せたりした。谷の生活が半年も続いた
頃にはシロも少しは癒されたのか、引きこもりは同
じだけど取りあえず自分でチャータの運んで来たエ
サを食べるまでになった。
白神の谷は、ツキノワグマの一家とチャータを中
心としたヤマイヌのグループと住み分けができてい
て争い事もなく実に平和な楽園に見えた。
そんな秋の長雨がやんだ日。チャータはウサギを
追って白神の谷を抜けだして、ニレやハギの花が咲
くなだらかな丘に出た。朝方までつづいた雨が止み
、遠い山脈の向こうから射す陽にその丘は金色に染
まっていた。そしてちょうど丘の真上に虹が救いの
女神のかざす色鮮やかな手のように花の丘に差し延
ばしていた。
チャータは、その丘の麓で足を止め、虹に見とれ
ていたが、やがてその虹の中に一匹のメスオオカミ
がいることに気付いた。余りに夢のような光景なの
で目を何度もこすって見直したがやはりその美しい
オオカミの姿は現実にその丘の花を食んで立ってい
た。それはあの、いつか霧の湿原で見た栗毛のメス
オオカミだった。