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2019-12-09 21:48:52 | Atwiki
バカッター

登録日:2014/12/29 Mon 13:38:43
更新日:2019/12/06 Fri 17:01:37NEW!
所要時間:約 25 分で読めます

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2ちゃんねる SNS Twitter まなみ インターネット上の問題 ツイッター バカ バカッター ヘイトスピーチ 世界共通語 人生ギャンブラー 人生終了 冷蔵庫 夏休みフィーバー 小売店 想像力不足 承認欲求 損害賠償 流行語大賞 炎上 特定班 自爆 若さゆえの過ち 飲食店

バカッターとは、情報サービス「Twitter」に存在する一部のユーザーに対する呼称及びネットスラングである。

「バカ」と「ツイッター」を掛け合わせた造語であり、文字通り「おバカなツイッターユーザー」という意味合いがある。

主に公共の場で迷惑行為を働きその様子をTwitterにアップする、痛いツイートを繰り返して炎上する…等のケースがあるが、当記事では前者について記載する。

目次
【概要】
【何故バカッターが生まれるのか】
【バカッターの影響】
【バカッターの対策】
【対応に関する注意】
【バカッターのジャンル】
【主なバカッター事例】
【海外のバカッター】
【公人のバカッター】

【概要】

Twitterとは2006年頃から開始された短文投稿サービスで、アメリカのTwitter社が発信元となっている。
パソコン、携帯、スマホから、最大140文字で手軽に近況を投稿することができ、2008年から日本でもサービスが開始され、利用者は一気に膨れ上がった。
ただのコミュニケーションツールに留まらず、有名人による情報発信にも利用されており、21世紀を代表する情報サービスといえる。

しかし、誰でも簡単に登録が出来て手軽に利用できるという点から、中にはモラルの低いユーザーによるツイートも多い。
彼らは公共の場において迷惑行為を行い、それをあろうことか撮影してツイッターにアップするようになったのである。
そんな「バカなツイートをする者」を総称して「バカッター」と呼ぶようになり、2010年頃からこの名称は普及してきた。

当初はツイートしたユーザーそのものを「バカッター」と呼んでいたが、2013年に爆発的に発生した「バカッター」の中には、
友人知人が行っている迷惑行為を撮影したものや、迷惑行為をしている人々を撮影した通行人なども存在するため、
徐々に「バカッター」と呼ばれる対象は被写体へと移行していった。

特に2013年の夏頃から大量に発生した「バカッター」は社会問題にもなり、若者を中心とするTwitter利用者のモラルを問い直すこととなった。
2014年初頭に向けて徐々に沈静化していっており、以降はなりを潜めるようになったが、それでも完全になくなったわけではなく定期的に盛り返しが起こっており、同じSNSであるInstgramの「ストーリー」機能や、TilTokでもバカッターと同様の事件、騒動が相次いでおり、それらもまとめて「バカッター事件」と総称される。
蔑称ではあるが、問題提起も兼ねてか2013年の流行語大賞にノミネートされた。



【何故バカッターが生まれるのか】

手軽に情報を投稿できるというサービスの性質上、社会経験に乏しく精神的に幼い10代の若者でも簡単に自分の思想を投稿できたりする。
そして、10代後半~20代前半の若者は自己顕示欲が強く、自分たちの行いを社会に知らしめて自慢したがる傾向にある。
要は一昔前に流行った未成年の喫煙や飲酒も似たようなものであるといえる。

しかし覚えておいていただきたいのは、Twitterは全世界の利用者が情報を共有できるという点にある。
だが近年はスマホなどモバイルでの利用が多いため、LINEのタイムラインのように*1「仲間内しか見ないツール」と勘違いしている者も多く、世界の誰でも見られる状態になっていることの自覚が乏しく、検索やRTで無関係の人に掘り出されてしまう危険性を考えていないことが多い。*2
仲間内で自分たちの武勇伝を自慢するのはまだいいが、全世界に向けて醜態を晒しているだけでなく、個人情報をダダ漏れさせているにも等しい。


「バカッター」は大半が上述の若者であるが、中にはいい歳をした中高年、政治家や思想家、芸能人などでも失言をして炎上することが多々ある。



【バカッターの影響】

バカッターが投稿されると、十中八九は炎上する。
大量のリツイートで拡散されたツイートは、大手電子掲示板「5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)」にまずアップされ、そこからいわゆる「特定班」と呼ばれる者たちが動き出す。
投稿された写真の背景、バカッターの過去のツイートを遡る等して個人名、住所、電話番号、勤務先(あるいは学校)を特定し、「5ちゃんねる」に晒す。
バカッターをやらかす者の殆どはプロフ欄やFacebookへのリンク、制服姿や通勤通学先の実名を含む書き込みなど個人特定が容易となる情報を自ら載せており、特定には半日も要さないことが多い。
アップされた「バカッター」自身は、騒動に発展するやいなや当該ツイートを削除、あるいはアカウント自体を凍結して逃亡することがほとんど。
ただし、既にアップされた情報から警察へ通報されたり学校へ通報されるなどして、社会的制裁を受けるケースが大半である。

また、これを小売店や飲食店などでやられると、店を運営する側としてはたまったものではない。
「バカッター」が関わった品物に関して軒並み廃棄処分するハメになったり、個人店では最悪の場合閉店に追い込まれたケースさえある。
こうなった場合、多額の損害賠償を企業から請求されることも珍しくなく未成年や学生でも親が代わりに巨額の賠償を負うこともある。

バカッターの結末としては、学生ならば退学、謹慎処分に追い込まれたり、社会人であれば逮捕や解雇(自主退社という体裁の解雇も含む)、左遷などの処分を受けたり、フランチャイズ店の経営者であれば本部に経営権を取り上げられたりもする。無論、逮捕などの法的処置を受け実名で報じられることもある。2019年5月にはバカッターを行ったアルバイトら3名が警察に書類送検された。
親に賠償を肩代わりしてもらう場合でも、その巨額さゆえよほどの金持ちでない限り家の経済状況が苦しくなり我慢生活に突入となる。
公務員・マスメディア関係勤務・芸能人などの公人・準公人・その他責任の重い仕事であれば所属先から実名公表された上の処分を受けることもあり、こうなればまともな再就職はきわめて難しくなる。
中にはアカウントを凍結した後行方不明になるケースや、炎上してもしぶとく反論をし続けるケースもある。
また稀な例ではあるが、一連の騒動を謝罪した後、以前と同じアカウントでTwitterを継続するものもいる。

このようなバカッターの炎上に注目し、それらをまとめたブログなどのサイトの存在も登場している。
単純な情報まとめに終わらず、莫大な広告収入を企んでいるサイトも少なくないようで、収入の為に炎上の悪化を狙って過激な見出しなどで観覧者を煽る。
元は炎上を起こす人間が悪いとはいえ、このようなサイトもなかなかあくどい性質だと言えるだろう。



【バカッターの対策】

炎上した時に被害を抑える方法はいくつかある。
余計な反論や抵抗をせず、誤りは誤りと認める。
顔写真や住所・勤務先や学校などの組織がバレる情報は書かない。自宅付近の写真でもバレる。
釈明と謝罪を済ませた後は、沈静化するまで沈黙を貫く。

とはいえ、これらも対症療法の域を出るものではなく、最も適切なのは「自分のツイートが炎上に繋がるかもしれない」ということをよく考えることだろう。


【対応に関する注意】

忘れてはいけないのは、バカッターに対する誹謗中傷、ましてや特定して個人情報を晒すのも犯罪行為ということ。
御存知の通り日本は法治国家であり、相手が如何に問題行動を繰り返していたとしても、上記の行為を行えばそれは「私刑」であり、バカッターと同類になる。

誹謗中傷に関しては勿論「名誉棄損」に当たるし、たとえバカッター本人が誰の目にも触れる形で個人情報を晒していたり、アップロードした画像や動画から個人を特定出来たとしても、それをネット上で公開すれば違法となる。

…つまり、犯罪行為や過激な発言を目にしたら、拡散や批判に入らず運営や警察等実在の公的機関に通報するべきである。


【バカッターのジャンル】

誹謗中傷系
一番単純で数が多いタイプだろう。
個人名等の個人情報を挙げて対象を誹謗中傷する。
誹謗中傷した対象の人間関係から個人情報を特定され、自身が炎上させられるはめになる場合が多い。
特定民族に対しての悪口雑言であるヘイトスピーチもこれに近い。

犯罪予告系
有名人や無差別に人を殺害する、建造物を爆破するなどの犯罪予告。
2008年に起きた秋葉原通り魔事件以降、この手の文言には皆敏感になっていたため、そうした層を通じて目立ちたいと思ったものたちが多い。
物によっては威力業務妨害に該当、言うまでも無く犯罪である。
「予告しただけ」などと思ってはいけない。
例えば1974年に共産系極左テロリスト『狼』が起こした三菱重工爆破事件では犯行予告をいたずらだと断じたばかりに死者8人、負傷者376人を出す大惨事に発展しており、たとえいたずらかもしれないと思っても万が一のリスクは看過してはならないという教訓を残した。それによってイベントの中止や業務の停止を余儀なくされたり、本来不要な警備にかかるコストなどで時には数千万円~数億円もの損害が出ることもあり、予告された側はたまったものではないのだ。

業務妨害系
遊園地のアトラクションで暴れて運行を停止させる、店員に土下座を強要するケース。

器物損壊系
店の備品を壊す、他人の車のボンネットに乗るケース。
小売店等で商品の一部を壊す、食べるなどしたものも該当。
最近で有名なのは2018年のハロウィンの軽トラひっくり返したあの件だろう。

冷蔵庫in
小売店、飲食店で多発。
食べ物などが入っている冷蔵庫の中に入り込み、商品をダメにする。
主に夏場に涼をとろうとしたアルバイト店員がこのケースに多く該当する。
ガンダムさんでもネタにされたり。

不正行為自白系
違法行為やカンニング、校則違反を自ら自慢する。見つかって単位や入学資格がパーになった者も。

食材系
飲食店で多発。
アルバイト店員が食材を口に入れたり、床に敷き詰めた食材の上に寝そべったりした他、客として来た若者がテーブルに置いてあるソースや醤油を鼻の穴などに突っ込むケース。
アルバイトのスタッフが行うものを特に「バイトテロ」と言う。ドラマの題材になったこともある。

不謹慎系
不幸に見舞われた人々を対象にあえてバカにした発言をすることで、周りの注目を浴びようとするケース。
主に東日本大震災発生直後に流行した。

鉄道系
駅のホーム下に降りた様子を撮影しているケースや、モラルに欠けた撮り鉄などが自分の行為を自慢するなど。
業務妨害系と被る部分もある。

虐待系
我が子に煙草を咥えさせたり、押しあてたりした様子を撮影したケース。
「バカッター」の大半が未婚の若者であるためレアなケースだが、中には所謂「事実婚」のものも多い。

公然猥褻系
自分の性器をTwitterにアップしたり、公共の場で全裸になったり、性行為中の写真を掲載したりする。バカッターではないが旧アニヲタの集いでも発生したことがある。
女性バカッターのケースは少ないものの、後述の例のように皆無なわけではない。
ホモに嗅ぎつけられたら大変なことになるので注意。

デマ系
デマと気づかず無闇にRTすることで風評被害に加担する。また、注目されたいためにわざとデマを撒くケースもあり、これは上記の「不謹慎系」とも重なる部分が多い。
代表例は2016年の平成28年熊本地震の際、神奈川在住の20歳会社員が「動物園からライオンが逃げた」とのデマをコラ画像つきでツイした事件があげられる。
この件では偽計業務妨害で逮捕された。

自身の主張や理念の賛同者を増やしたり、気に入らない物&者を叩こうとする余り、捏造や曲解を平気で行うアカウントも後を絶たず、中には人命に関わる冗談では済まないデマツイートをしたりする輩も多く、それが事実のようにバズった時等はまるで漫画版デビルマン終盤よろしく地獄のような光景が広がる事もある。
尚バズったツイートの内容が本当かどうか検証するのが趣味のようなツイッタラー*3も多いため、後先考えずデマを口走ったり、それを事実のようにRTすると1週間と立たず*4デマがバレることも珍しくなく、デマを吹いた当人はもちろん、事実であるようにRTしたアカウントらも信用が地に落ちることになる。場合によってはフォロワーが激減したりブロックされたり袋叩きにされたりする。インガオホー

ブラック企業系
社長などが、労働者の権利行使を「社会人失格」「学生気分」などと貶したり、自分の企業でやっている「病気でも出社しろ」「有給取らせない」といった労働者へのブラックな扱いを白状してしまうケース。
自営業者は経営も大変な上、労働者としての保護を受けない。
そのため、労働者の権利について意識が甘かったり知識がなかったりで、「自分のやっている苦労くらい労働者も当然」という感覚になりやすく、ついブラック発言をしてしまうことがある。
違法であることを指摘されても「業界ではこれくらい当然」と開き直り続けたり、過去ツイートから更にブラック行動が発掘されるケースも。

未成年系
明らかに未成年と分かるにも関わらず、飲酒や喫煙、パチンコ等成人のみに許された行動を行っているケース。
「バカッター」を特定する過程で判明するケースが多い。
違法行為だけではなく、世間知らずゆえにやらかしてしまう危険性の高い無茶な行為もある。

学級崩壊系
学校などで行った虐めの様子をアップするケース。
「バカッター」よりもYoutube等の動画投稿サイトで多く発生しており、また「バカッター」の場合はネタだったというケースも多い。
先生方にあえてケンカを売り、先生方が耐えきれずに買うとその行為を流すという例も。

盗撮系
電車等で見知らぬ他人や一方的に知っているだけの公人や相手を撮影し、その人を侮蔑するケース。
バカッター騒動の鎮静後も根強く残っており、自分が一方的に「ムカついた」「可笑しかった」と思った通りすがりの私人に対して行う者もいる。

情報漏洩系
客など他人の個人情報、企業秘密に関する情報、職務上の守秘義務にあたる情報を無断で公開する。

違法コピー系
ソフトなどの著作物の違法コピー、雑誌掲載の漫画などのスキャン画像アップ(一場面程度なら大目に見てもらえても、早売りや全ページスキャンなどはきつく対応される危険性が高い)を堂々と行う。
Twitterではアウトだがまとめサイト系などでは黒よりのグレー。
「インストール」と書くべき所を「ダウンロード」と書いてしまい違法コピーと騒がれた例も。

偏見の拡散系
知識の誤認、怪しい有名人を盲信したりすることによって培われた偏った主張を行う。
また、民族・国籍などの差別発言(ヘイトスピーチ)を行ったり犯罪者や言い訳不能なレベルの所属組織の不祥事を擁護するなどする。

セクハラクソリプ系
女性ユーザーや女性の公人に対し、しつこいセクハラリプを送りつける。特に一部の声優やアイドルは標的になりやすくこれでTwitterをやめてしまった者もいる。

逆張り系
常識に反することをわざと言って注目を集めようとする。


【主なバカッター事例】

ジャンプやサンデーの未発表作をネットにアップ
2010年発生。当事者は14歳の中学生。
発売前のジャンプ、サンデーの作品をYouTubeにアップし、著作権侵害で逮捕。

声優に対する殺害予告
2011年発生。当事者は24歳の作業員男性。
声優の平野綾を侮辱する発言を繰り返し、「殺した」などと発言。威力業務妨害で逮捕。

「地震イェーイ」発言
2013年発生。当事者は19歳の高卒女性。
東日本大震災を受け、「関西にも大地震が来て人がたくさん死ねばいい」とツイートし炎上、批判されても開き直りを続ける図太さを見せた。
このユーザーは他にも大量の炎上ネタを量産し続け有名となったが、現在はアカウントを凍結している。

アイスケースに入り込む
2013年発生。当事者は高知にあるローソンのオーナー。
オーナーの息子と思しき人物が、アイスケースに入り込む様子を撮影し、炎上。
最終的に当ローソンは加盟店契約を打ち切られ、従業員を全員解雇、休業することとなった。
若者がアイスケースに入って店側に損害賠償を請求されるケースが多い中、店側が「バカッター」と化した稀有な例である。上述の通りガンダムさんでもネタにされた。

ブロンコビリーで冷蔵庫に入る
2013年発生。当事者はアルバイトの専門学校生。
バイト中に業務用冷蔵庫に入り込み「バイトなう( ̄∇ ̄)」と投稿し、炎上。
当然即クビ、店側は損害賠償請求を検討していることも発表、更に同店は閉店においこまれる。
特定班により拡散された情報により、通っていた学校中に悪事が知れ渡る。
結果外に出るのが怖くなり、引きこもり化の末路へ。

USJでアトラクションの運行を妨害
2013年発生。当事者は19歳の神戸大学学生他。
USJの水上アトラクションで暴れたり、ボートを転覆させたりとやりたい放題で、その内容をTwitterで告白し炎上。
追及を逃れるためか、「ジェットコースターで手首を骨折した」というツイートと証拠写真を投稿するが、捏造と判りさらにヒートアップ。
本名どころかご尊顔まで公開となり、書類送検されたに留まらず大学を自主退学するまでに追い込まれた。

レジカウンターでM字開脚
2013年発生。当事者はミニストップのアルバイト店員。
レジカウンターに登ってM字開脚を行い、チ●コの部分にスキャナーを押しあてている。
当ミニストップは、警察に被害届を出したという。

早稲田大生カンニング
2010年に早稲田大学生がテスト中のカンニング行為をツイートしたところ、
その中に担当教授の実名(有名評論家の東浩紀)があったため当本人に捕捉されて「きみなに考えてるの」と怒られた上、炎上。
これを見てメディアが取材に訪れたたため学校にもバレてしまった。

パトカーによじ登り記念撮影
2013年発生。当事者は北海道の漁師の少年。
停止中のパトカーのボンネットに仲間たちとよじ登り、「中二病だから」と記念撮影。
器物損壊の容疑で全員逮捕され、謝罪。

ピザハット顔面パック
2013年発生。当事者はピザハットアルバイト店員。
ピザの生地を顔に押し当て「ピザって息できないんだな。おやすみ地球」と投稿。
運営する日本ケンタッキーの迅速な対応により、当事者は即刻クビ及び損害賠償を請求された。

ピザーラ&西友で大暴れ
2013年発生。当事者はピザーラの女性従業員2名。
ピザーラの店の流しや冷蔵庫に入るだけでは飽き足らずスーパーの西友にも入り込み、パン台の上に乗る、買い物かごに入る、商品棚に入る、備品を荒らすなどやりたい放題。
数枚に渡って彼女らの悪行がTwitterに流された。
ピザーラ、西友の両方から損害賠償を請求されただけでなく、彼女らの通う高校までが謝罪に出る騒動となった。

娘に未精算の商品を食べさせる
2013年発生。当事者は被写体の幼女の母親。
マックスバリュで未清算のチーズを娘に齧らせた様子を投稿。
瞬く間に炎上しフルボッコにされるも、逆に開き直って反論し続けた。
その後の消息は不明。

有名人の個人情報暴露
プライベートで歩いている芸能人を盗撮して写真をアップしたり、店員が客として来た有名人の個人情報を暴露する事件も複数発生している。
特に有名な事件は、2011年にアディダスの新人女性社員がよりによって自社と契約をしている選手であるハーフナー・マイクとその妻が来店したことを中傷コメントつきで暴露した事件などがある。
なお、前述のアディダス女子社員は間もなく退職(実質解雇と思われる)に追い込まれている。

「しまむら」店員に土下座を強要
2013年発生。当事者は介護職の43歳の女性。
「従業員の商品管理の悪さに立腹した」当事者が、しまむらの店員と店長に土下座させた様子をアップ。具体的に何に腹を立てていたのかについては曖昧なままである。
当事者が以前から上から目線発言を繰り返していたこともあり、ネットでは瞬く間に当事者に批判が集中した。
アカウントは即刻削除されたものの個人情報が次々と特定され、最終的には強要容疑で警察に逮捕されるまでに至った。
ニュースにも取り上げられており、おそらく「バカッター」関連では一番有名なものと思われる。

すき家露出狂バイト事件
2015年5月にすき家のアルバイト女子高生が服を脱ぎ、見せてはならないものまで見えた写真をアップしクビになった事件が発生している。
なお、祭り当時に「現役JKの裸」という餌に釣られて検索しあとで後悔した者は多い。

セブンイレブンバイト個人情報暴露事件
セブンイレブンの男性バイトが、立ち読みをした客やトラブった客の盗撮写真だけでなく、車のナンバーや免許証などの個人情報を盗撮アップした上罵倒を繰り返していたことが2015年11月に発覚、本人は退職。

浦和サポーター差別発言事件
浦和レッズのサポーターを名乗る高校生がガンバ大阪のパトリック選手に対し黒人差別丸出しの叩きツイを行うも、騒動に恐れをなして学校に親とともに自首、関係各所に謝罪。

中学生ヒッチハイク事件
ある中学生が「ヒッチハイクでアメリカを横断する」と宣言し渡米まではしていた模様。在米日本人を中心とするユーザーが「アメリカは治安が悪く危険」「州によってはヒッチハイク自体禁止」であると呼びかけ、同時に一部は当局にオフラインでも働きかけ中学生は保護、帰国と相成った。

ぱよぱよちーん事件
Facebookでのヘイトスピーチイラストに逆上した自称市民活動家。
その画像に「いいね」を押した人の個人情報リストを拡散しようとしたが、逆に2chやツイ住民達に過去のツイートを片っ端から掘り返される返り討ちに遭う。
更に当時勤務していた外資系セキュリティソフト会社での職権濫用を疑わせる行動が多数発覚、
元タレントの千葉麗子に馴れ馴れしく「ぱよぱよ(おはようの意味らしい)」とリプライを送りまくるなど、ネタを提供するツイも多かったため炎上(なお、千葉とは既に仲違いした模様)。
勤務先に多数の問い合わせがいき該当社員は自主退社を余儀なくされた。

更に彼と市民運動関係で繋がりがあった別の男性も、芋づる式で過去問題発言(他者への脅迫まがい)や黒いバックボーンがバレる。
更に地方議員だった母親のブログでの不用意な発言から身元がバレ、勤務先の有名デザイン会社を自主退社する羽目になっている。

更にこの騒動の発端のリスト作成に苦言を呈した人権派弁護士に対し、またも同じ自称市民団体仲間の別メンバー(HNから闇キャンと呼ばれる)が、散々罵倒を繰り返して弁護士を怒らせた結果、地方新聞社の部長職という身元を割られて全国紙や自社公式に実名を公表された上、会社からは部長職剝奪の上無期限無給休職処分となり、事実上のクビでこちらも辞職。
いい歳をした中年男性がたった1ヶ月の間に3人も立て続けに仕事をなくすという結果となった。
さらにしばらく後にこの騒動が再燃焼し、HN「チャンシマ」の市民運動家メンバーが「大手証券会社の部長職」という身元がバレ、過去に対立する相手や嫌いな政治家への「死ね」発言連発も掘り起こし。会社にも通報が行き役職を剥奪された。

国会議員の知識不足による不祥事
近年では現政権への批判材料としてtwitterや2chからの情報を用いる場合が増えている。
しかしソースをよく確認しないで書き込んで、直ぐに間違いを指摘されネットで袋叩きに会う場合も多い。

最近では民進党の玉木雄一郎議員が

「リーマンショック前に似ている」と総理が説明した4枚の資料の英語版を見て驚いた。
日本語版には11か所も登場した「リーマンショック」という言葉が英語版には一度も出てこない。
日本語版にはあるカッコ書きの説明部分もない。悪質な情報操作だ。

などと投稿した。
が、『リーマンショック』はそもそも和製英語であり海外では使用しないの当然である。
書き込んだ後に自分でも誤りに気が付いたのか

リーマンショックは和製英語でthe financial crisisと書いてあるではないか

と自分で投稿、が直ぐに削除。
その後はこの件に関してだんまりを決め込み、火消しのつもりか話題そらしの政権批判を連続で投稿。
消したツイートは即座に掘り起こされ失笑を買った。

後日

当然和製英語だとは認識している
今や必ずしもそう言い切れなくなってきてると思われます
例えば、CNNの記事や外務省の出す外交青書でも使われています

等と言い訳ツイートしたが、どうみても恥の上塗りでしかなかった。

元首相のツイート「デマ認定」事件
政権交代をした元首相が2019年2月に北海道で発生した地震の原因を「地下施設への炭酸ガス貯蔵実験(CCS)によるもの」とツイート。*5
それを道警によって「災害時のデマの一例」として発表される事態になった。

AVパッケージリツイート事件
数年前にとある公人のツイッターのアカウントが、AVパッケージをリツイートしてしまった事件である。なお、該当ツイートは削除されている。
言動だけなら笑い話で済むだろうが、よりにもよってそのアカウント主は、現韓国大統領であったため…
韓国政府が2019年2月、アダルトコンテンツなどを一斉遮断するという方針に出た際、この過去のツイートの魚拓が発掘され
韓国ユーザーの一部では祭となった。



【海外のバカッター】

こうした行為は日本だけのものではなく、欧米やアジアでも同様の騒動が多々巻き起こっている。
実名をネットで比較的書く傾向の強いアメリカでも、麻薬使用や不潔行為、職業上の不適切な行為などを堂々書いて騒動になる若者は絶えない。
またいい歳をした大人の自爆も日本同様多く、デリケートな問題である人種・民族差別発言などを行い即日解雇された者も少なくない。バカッターはある意味世界共通語なのである。
アメリカは差別的言動については日本よりも敏感であり、主演俳優の差別的言動一発で人気ドラマが即打ち切りになった例も。
アジア圏でも、韓国軍人が軍機密情報のモニター画面の写メをアップしてしまう事件などが起こっている。
平穏に暮らす先進国の若者だけでなく、中東のテロ組織「イスラム国」メンバーとして参画したニュージーランド人が、
位置情報機能をオフにしていなかったために組織の拠点がバレバレになってしまったという敵側からすればチャンスになりそうな事件すらある。

さらにはツイッターかどうかまでは不明だが、「イスラム国」構成員が司令部前で自撮りした写真を投稿した結果、
その投稿を発見した米軍がその場所を特定、投稿から22時間後に航空機搭載型のJDAM精密誘導爆弾3発を叩き込み吹っ飛ばしたという事例が2015年6月に起きている。
もしかしたらこれは過去最大級の炎上なのかもしれない。主に物理的な意味で。



【公人のバカッター】

芸能人・政治家・評論家・市民運動家でも、ツイッターで馬脚を現し信頼を失うもの、スキャンダルがバレる者は少なくない。
芸能事務所に所属している場合、近年は契約に「SNSは事務所が確認した公式アカウント以外を使わないこと」が盛り込まれていることも多いが、
これに違反してプライベートの友人や恋人と遊ぶために裏アカウントを取っている芸能人も存在する。
しかしこれらがファンや共演した別芸能人の熱心なおっかけなどにより突き止められて炎上するケースも後を絶たない。
またマスメディア関係でも、出版社・新聞社の社員が職権乱用や批判意見への逆ギレで炎上する事件が相次いでいる。
主な公人のバカッター自爆は以下のパターンがある。

知識の足りないジャンルについて不用意な発言をする
東日本大震災による原子力発電所事故以降に表出化したが、知識不足のまま反原発運動にのめり込む芸能人がデマ拡散に加担して評判を落とす例が後を絶たない。
特に科学・軍事・医学系はネットにその知識に詳しい人間が山程いるので、安易な発言は集中砲火の元である。
場合によっては職場に通報や公的なルートでの抗議が来て立場が危うくなることがある。
また、あるジャンルで優秀な専門家であった者が専門外のことに口を突っ込んで炎上する例も多く、大学教員同士のツイ上での喧嘩もたまに起こる。
社会問題に関しては、公人はもちろん私人もよく考えて、念入りに下調べをしたうえで発言するのが無難。
そこまでの手間を取りたくないのなら、そもそも発言は控えたほうがいいだろう。
これについては「ヨクシラ騎士ナイト」という蔑称も存在する。

ネットのアングラコンテンツネタに釣られてしまい、炎上を引き起こした例もある。

オタクネタに関する知ったかぶり・ヘイト発言
社会問題に絡めて実際見てもいない漫画やアニメを我田引水的に使ったり、オタクを馬鹿にして挑発的な発言をして炎上する者も少なくない。
歴史の長い作品、ミリタリー要素の強い作品は特に危険な地雷原である。
中でも機動戦士ガンダムや艦隊これくしょん -艦これ-、ガールズ&パンツァーなどのネタはファン層がひときわ熱烈な上、ガンダムは初期作品ファンが既に各業界の偉いさん年代であり、後者2作品は軍事マニアとの兼業者(中にはプロの軍事ライターや本職さんも)が多いため徹底的に叩きのめされる危険度が高い。
最近ではシン・ゴジラも危険度の高い作品。
また長谷川町子・藤子不二雄・手塚治虫といった過去の国民的知名度の高い大御所作家の作品を「ヒューマニズム」「平和主義」等といい子ちゃん一辺倒であるかのように持ち上げて、後進作家の作品を低俗とこきおろすのも「お前ほんとは読んでないだろ」と炎上を招く危険が大きい(いずれも結構ドロドロな作品が多いことはファン程よく知っている)。

また後述の項目とも重なるが、最近は萌え絵の企業・公共キャラクターに性的であると難癖をつけ炎上するケースが増えており、フェミニズム方面の炎上者もちらほらいる。
代表例は左翼運動家の北原みのりで、東京メトロキャラの「駅乃みちか」のイベント企画用萌え絵化バージョンに「萌えキャラ(二次元エロ)の公共化は国際基準で完全アウト」と難癖を付けた所、日本以上に萌え絵の公共キャラ起用が進んでいる台湾の実例や、北原が過去に政治的主張のため行った靖国神社での全裸パフォーマンスを持ち出されてフルボッコとなった。
評論家・実業家の駒崎弘樹は「ヒーローものの番組でも、「守る男性」と「守られる女性」というステレオタイプしかない。」と朝日新聞のインタビューで発言して、
ニチアサ民を中心に炎上したのに逆上し、
「仮面ライダーゴーストでは、戦う理系ヒロイン、あかりちゃんがいたのに、エグゼイドではパッピーという不思議「守られ」キャラ。しかも今回は「男になれよ」とジェンダー感満載のセリフ」と、
さらなる知ったかぶりをしたことでさらに燃料を注ぐこととなった。*6

自分の性癖がバレる
「女優のおっぱいが見える」等の文言つきのスパムアプリの罠リンクを踏みスパム発射をするケースがまず多い。
次に多いのはターゲッティング広告の仕組みを知らず、「こんなエロい広告が出ているのはけしからん!」とぶち上げて「お前が普段そういう言葉を検索してるから」と突っ込まれるケースである。
上記の2パターンの場合は開き直らずに詫びるなり自分のスケベさを認めてネタにすれば鎮火するが逆ギレすると一気に炎上する。
最近目立つのは公共のポスターやパフォーマンス等を「性的」と難癖を付けて炎上するケースである。
これに該当するのは翻訳家の久美薫が「響け! ユーフォニアム」の版権絵を「男根のメタファー」と難癖を付けた事件、
コラムニストの勝部元気が東京五輪の公式PR動画の制服少女に「JKを性的アイコンにしている」と発言した事件である。
双方ともツイやブログの過去記事の掘り起こしが行われ、
久美は本物の女子小学生への盗撮行為が発覚、勝部は「制服に性的興奮を覚える」と書いていたのがバレて「お前がスケベなだけ」と炎上した。
2018年末にはフェミニズム系学者や文筆家の数人が「萌え絵を批判しながらBLは正当化する」という腐女子内でも嫌われるようなダブスタ発言を繰り返し炎上する案件が立て続けに発生した。中でも社会学者の千田有紀はファンであると自称していた相手のBL作家の水戸泉に激怒され、「そんなつもりじゃなかった」と泣き言を吐いてさらに怒られた。

一般人のリプライに激怒し暴言を吐く
一般人から批判的なリプライがよせられた際、ブロックや無視なら少々印象を悪くするだけですむが、マジギレして暴言を吐く者もいる。
例としては有田芳生参議院議員が自身に批判的なネットユーザー達を「ゴキブリ」呼ばわりした事件や、
『永遠の0』等で著名な小説家・百田尚樹が問題発言を繰り返し暴言を吐いた末にブロックを繰り返す行為を幾度となく行っている等である。
民進党議員の小西洋之に至っては批判リプライのみならず特に悪口ですらないリプを片っ端からブロックしたため、
「#小西ひろゆきチャレンジ」という彼にどのようなリプライを送ればブロックされるか競う悪ふざけをするユーザーすら多数現れる羽目になった。

既に炎上している対象を擁護したり持ち上げたりする
先んじて繰り返し炎上している知り合いの有名人などをつい擁護したくなってしまうときも、叩いた側に対する暴言や自身の偏見などが含まれると自分の方に類焼する危険が非常に高い。
これにあてはまるのが五輪エンブレム盗作騒動の佐野研二郎達のデザイナー仲間で、
佐野を擁護したい一心で誘致活動時のエンブレムを酷評して炎上し、繋がりを調べられてよけい騒動が長引いた。
また、炎上していることを把握しない・知っているが事態を甘くみているなどで何の気無しに褒めそやす発言をして類焼することもある。
選挙の前後などは特に危険度が高く、炎上歴のある候補を支援して類焼するケースが多い。
また、自身に直接関係なくても「逆張り」「安易な判官贔屓」でDQN行為を行った人を擁護することで類焼するケースも増えつつある。
2019年2月には立て続けにinstgramやTiKToKで飲食店バイトによる悪ふざけ動画アップ→クビのバカッター事案が相次いだが、このうちくら寿司がバイトに解雇だけでなく法的措置を表明したことで一部の評論家など数人が「処分が厳しすぎる」「労働者に対する圧力」などとバイトを擁護して炎上。そのうちの1人、社会運動家の藤田孝典はその直前に「自分の主催NPOで職員を薄給で使っていた」ことがバレて炎上していた火種にガソリンを注ぐ形となった。

批判しようとする対象を無理筋で貶す
公人や物事を批判するのは構わないのだが、その際の表現で自分の差別的な思考や偏見を現してしまうものも多い。
特に潰瘍性大腸炎の持病を持つ安倍晋三首相を批判する際に、政策や本人の発言を批判しているだけならまだしも病気を揶揄して炎上する者が続出、
その中には弁護士や漫画家小林よしのりのアシスタントもいた。 
また、自分の贔屓の物事とアンチの物事に対しダブスタめいた発言をして炎上するケースも多い。

マスコミ人・学者の常識を逸した発言
新聞記者やジャーナリストなどの公式アカウントで暴言を吐いたり、
一般人の迷惑も省みず自分達の取材に応じるのが当たり前という態度を丸出しにした無神経発言を行い炎上する者も後を絶たない。
また大学教授や弁護士でも、自分に批判的な言説をした者に「バーカ」「くるくるぱー」などと小学生のような罵倒をしたり「ネトウヨ」「在日」などの決めつけで馬脚を現す者もいる。
一般人からの非難で炎上するだけでなく、同業者からもフルボッコにされるケースも多い。

事務所との契約に反して裏アカウントを作り、そこから異性関係がバレる
いい歳の芸能人ならまだしも、「恋愛禁止」などをうたった女性アイドルではこれでクビが飛ぶ可能性もある。
有名なケースでは、男性と遊んでいる写真を裏アカウントでアップしたのがジャニーズファン伝いでバレ、
即刻解雇されたAKB48の米澤留美・平嶋夏海の例がある。米澤はその後AV落ちコースとなっている。

売れていない時の暴言が発掘される
素人〜下積み時代に書いていたアカウントを引き続き使っていたり、当時書いていたブログを消さずにそのまま残してあったりして過去記事を掘り出され炎上するケースも多い。従来はガラケー用のミニブログ全盛期ごろに書いた黒歴史や彼氏の存在を掘り出される女性アイドルが多かったが、最近は男性有名人の女叩き・ブサイク叩きツイートが発掘される件数が増えつつある。
「昔は見識が甘かった」ことを認め早期に謝罪するのがベターだが、あまりにも内容がひどすぎるとそれすら許されないこともある。
『あんさんぶるスターズ!オン・ステージ(あんステ)』で知名度をあげている最中だった俳優夏目雄大は素人時代の度重なるセクハラ的発言や「妊婦に膝カックン」など悪ふざけの域を超えた(本人はネタで済まされると思っていた模様)発言が発掘され事務所を解雇された。
ライトノベル『二度目の人生を異世界で』は、アニメ化・出演声優まで決定していたにもかかわらず、原作者のtwitterから主に中韓に向けたヘイトスピーチが発掘されてしまう。
これに激怒したその手の発言に敏感な人達から声優陣へ脅迫が多数寄せられ、出演声優がこぞって同作からの降板を表明、更にアニメ化中止、作品も出版停止する事態になった。
『本日私は炎上しました』の作者も過去ツイートを発掘されて炎上し、連載を停止されるというギャグのような本当の話も起きている。

同業者・業界人同士の喧嘩
政治絡みのネタではよく発生するが、同じ業界人同士がツイで喧嘩を始めたり、誰かの暴言が関係者に捕捉されてバトルになることもよくある。
特にtwitterでは公人でも本名と違うHNを使っていて一見してわからないことがあり *7調子に乗って悪口を言っていたらそこにいた、という事案は少なくない。
これに該当するのがアニメ監督の山本寛とベテランアニメーター鈴木俊二のバトルで、鈴木が「大波コナミ」というHNを使っていたため山本が気づかず小馬鹿にした態度を取ってしまい大恥をかくことになった。
二次元関係以外ではマスコミ業界、医療業界、弁護士同士でもバトルが頻発する。
また、他の業界人のつぶやきを被害妄想的に取って暴言で応じてしまう早とちりもあり、小説家になろう出身の作家銀翼のぞみが自作の商業出版作品担当の絵師もねてぃのつぶやきを自分への悪口だと思い込んでサブ垢で叩いたのがバレ、出版社からシリーズ打ち切りの処分を受けた。

炎上芸人を気取る
上記の「逆張り系」とも重なるが、耳目を集めるために挑発的な物言いをしたり、常識に反する発言をわざと繰り返す者もいる。
この過程でシャレにならない領域に踏み込んでしまうものも少なくなく、お笑い芸人のウーマンラッシュアワー村本は拉致問題に触れたツイに「場にトラックで運ばれる家畜の写真」を添えたため炎上、所属事務所*8からイエローカードに相当する注意処分を下された。

暴露、暴言の後に「アカウントを乗っ取られた」と言い訳をする
業界内や嫌いな公人の悪口を放って炎上したり上から怒られたりした際に「何者かに乗っ取られた」という見え透いた言い訳をする者もいる。
有名な事件は精神科医・コメンテーターの香山リカが出演している番組の曜日違いのレギュラーである青山繁晴とそのファンをこきおろし、
プロデューサーに怒られこの言い訳をしたところ、ツイートの内容が本人でないと書けない内容だったため失笑を買った。
また時期を近くしてアイドルグループPASPO☆の槙田紗子がメンバーを中傷したり枕営業を暴露、
事務所が「乗っ取りであり書いたのは本人ではない」と火消しに走った事件が発生。
似たようなレベルの言い訳としては「酒に酔っていた」がある。

ステマがバレる
宣伝の場合、「PR」とどこかに明記しておき、最初から宣伝だと正直に言わないとステルスマーケティングを疑われ、逆にその後延々と印象を悪くすることがある。
具体事例としては、2019年12月、「アナと雪の女王2」の感想漫画が多数漫画家によりアップされたが、その時間が不自然に合致しすぎていたことからステマ疑惑が指摘され炎上した件がある。

不適切な取材がバレる
マスコミ関係のアカウントによくありがちだが、不適切な取材や取材対象、一般読者に対する傲慢な態度で炎上することがある。
また、横暴な取材現場を一般人に動画を撮られて炎上するケースもある。
これに該当する事件は2017年の女児殺害事件で、取材を断ったご近所さんの門柱を蹴りつけた共同新聞記者の動画が晒され、記者は上司に連れられて謝罪に行く羽目になった。
最悪の場合は自分で取材していない「エア取材」がバレることもある。
2019年に週刊文春がNGT48(当時)山口真帆への厄介ヲタによる暴行未遂事件関連の取材を新潟に行き行なったとするツイートを新幹線ホームの写真とともに行なったところ、5chとツイの鉄ヲタにより即座に「新潟駅の写真ではなく長岡駅」であることが特定され、エア取材*9として炎上した。


多重炎上
公人はもちろん、「アルファ」と呼ばれる私人の有名アカウントでも度々発生する現象。
炎上を繰り返しているとRTやtogetterでまとめられることにより多数の目に晒され批判リプも多くなる。
これに耐えきれず、暴言がエスカレートしたり「工作員や雇われバイトが自分を叩いている」という被害妄想に陥るとますます炎上するような事態を繰り返す悪循環に陥る。
そして悪い意味での注目が集まるとウオッチャーがつき過去発言のキャプ画像を抑えられるようになり、過去発言の掘り返しが進むことになりこの過程で過去の悪行がバレて本業にも影響を及ぼす事態に陥る。
この最中の暴言で自分が所属する業界の悪しき慣習を吐いてしまうことも。
また暴言のレベルが上がってアカウントを凍結されたり、自分の支持者に呼びかけて反対者を凍結させるための通報煽りを行うなどの凍結合戦が発生することもある。

無期懲役

2019-12-09 20:46:23 | Member


地裁判決(うち求刑死刑)
高裁判決(うち求刑死刑)
最高裁判決(うち求刑死刑)
17(2)
10(2)
9(2)

【最新判決】

氏 名
礒飛京三(44)
逮 捕
 2012年6月10日(現行犯逮捕)
殺害人数
 2名
罪 状
 殺人、銃刀法違反
事件概要
 住所不定、無職礒飛(いそひ)京三被告は2012年6月10日午後1時ごろ、大阪市中央区東心斎橋1の路上で、通行中だった東京都東久留米市に住むイベント会社プロデューサーの男性(当時42)の腹や首などを包丁で何回も刺して殺害。さらに犯行に気付き自転車を押しながら逃げていた大阪市中央区に住むスナック経営の女性(当時66)の背中などを複数回刺して殺害。その後、礒飛被告は男性の方にゆっくり歩いて向かい、倒れている男性に馬乗りになり、再び刺した。通行人の女性から「人が刺された」と110番があり、警察官が現場に駆け付け、そばにいた礒飛被告を殺人未遂の容疑で現行犯逮捕した。逮捕直後、礒飛被告は「人を殺せば死刑になると思ってやった。殺すのは誰でもよかった」と供述した。その後、「事件前夜から幻聴が聞こえ始め、仕事が見つからないこともあって不安になった。幻聴のままに包丁を買い、現場へ行った」とも供述した。
 男性は自身が企画した音楽レーベルのライブツアーに同行するため、9日に名古屋市から車で大阪入りしていた。ライブは現場から約60mの会場で午後6時開始を予定しており、午後1時に近くのライブ会場で待ち合わせしていた。女性は自転車で近くを通りかかったところだった。二人は礒飛被告と面識はなかった。
 礒飛被告は覚せい剤取締法違反罪で新潟刑務所に服役し、満期で5月24日に出所。保護観察所に紹介された出身地である栃木県内の薬物依存者の自立を支援する無料の民間施設に滞在。6月8日に本人の希望で施設を出て大阪に移動し、9日は知人男性とその知人ら数人と大阪市内などを観光し、酒を飲んだ後、夜遅くなってから同市中央区の男性宅に宿泊。事件のあった10日は昼前ぐらいに荷物を持って男性宅を出ていた。そしてコンビニで全財産である現金17万円を下ろし、すぐに百貨店で包丁を買っていた。
 7月2日、大阪府警南署捜査本部は殺人容疑で礒飛被告を再逮捕した。大阪地検は鑑定留置を請求。約3か月半にわたって実施した精神鑑定では、鑑定医が「覚醒剤使用時のような精神状態だった」という趣旨の所見を示していたが、地検は、犯行前後の言動などを踏まえ、完全責任能力があったと判断し、11月8日、殺人容疑などで起訴した。
裁判所
 最高裁第一小法廷 小池裕裁判長
求 刑
 死刑
判 決
 2019年12月2日 無期懲役(検察・被告側上告棄却、確定)
裁判焦点
 検察側は死刑を求め、弁護側は被告の責任能力を認めた二審判決の破棄などを求めていた。
 判決で小池裕裁判長は「犯行態様は残虐で、刑事責任は誠に重大だ」とした。また、「無差別殺人は生命軽視の度合いが大きく、厳しい非難が向けられるが、その程度は事案ごとに異なる」として、死刑を適用するか否かは、死傷者の数や動機、計画性などの要素を総合的に考慮すべきだとした。そして計画性の程度が死刑適用の分かれ目であるかのように指摘した二審について「是認できない」と言及。しかし今回の事件について、覚醒剤中毒の後遺症による幻聴が犯行の一因だったことや、被告が犯行の約10分前に包丁を購入したことを踏まえると場当たり的で衝動的な犯行だったことがうかがえると指摘。「無差別殺人遂行の意思が極めて強固だったとは認められず、生命軽視の度合いも甚だしく顕著だったとはいえない」とした。また、死刑が究極の刑罰であり、その適用は慎重に行わなければならないという観点と公平性の観点を踏まえ、犯情を総合的に評価した結果、死刑を回避した二審判決については「著しく正義に反すると認められない」と判断した。裁判官5人全員一致の結論。
備 考
 亡くなった男性は大阪市出身で、1996年にロックバンド「4-STiCKS」のボーカルとして、大手レコード会社からメジャーデビューをしていた。2012年10月に新宿区のライブハウス「新宿ロフト」で追悼ライブが開かれ、2013年以降もバンドのベーシストたちによって命日の6月10日に追悼ライブが開かれた。一審の裁判員裁判でも、この日前後の6日間は休廷になった。

 2015年6月26日、大阪地裁(石川恭司裁判長)の裁判員裁判で求刑通り一審死刑判決。【判決文】(「裁判所ウェブサイト」内のPDFファイルが開きます。リンク先をクリックする前に、注意事項をご覧下さい)
 2017年3月9日、大阪高裁で一審破棄、無期懲役判決。

氏 名
北嶋祥太(24)
逮 捕
 2018年11月8日
殺害人数
 1名
罪 状
 強盗殺人
事件概要
 石川県金沢市の無職、北嶋祥太被告は2018年11月8日午前9時半ごろ、自宅で同居する祖父(当時71)の首をひもで絞めて殺害した上、テレビなど家電製品3点(5万5千円相当)と現金約1万2千円を奪った。犯行後、祖父の軽トラックに乗ってテレビをリサイクルショップで換金し、能美市で11時の開店からパチスロをしていた。
 北嶋被告は祖父と2歳下の弟の三人暮らし。北嶋被告は高校卒業後就職した2014年に友人に誘われてパチスロをし、その後は一人で行くようになった。21歳の時、母を亡くした。コミュニケーション障害の影響もあって相談相手を失った。パチスロなどに使う金が足りず、借金するように。2018年春ごろからは同居する祖父や弟のテレビなどを無断で持ち出し、換金を繰り返した。2018年5月末、無職になった。祖父に叱責され、8月末ごろには家を追い出され、敷地内の納屋などで暮らしていた。
 同日午後5時ごろ、弟が仕事を終えて帰宅したが、祖父や被告の姿は見なかった。いったん外出後、午後8時ごろ帰宅し、祖父の姿を見つけ、警察に通報した。午後9時半ごろ、パチスロをしていた北嶋被告を捜査中の警察官が発見。事情を聴くと犯行を認めたため、緊急逮捕した。
裁判所
 金沢地裁 大村陽一裁判長
求 刑
 無期懲役
判 決
 2019年12月3日 無期懲役
裁判焦点
 裁判員裁判。
 2019年11月25日の初公判で、北嶋祥太被告は「間違いないです」と起訴内容を認めた。
 検察側は冒頭陳述で、北嶋被告が事件の前からパチンコに使う金を得る目的で祖父や弟のテレビなどを複数回にわたって換金していて、犯行時には手袋を着用しベルトで祖父の首を絞めるなど、一定の計画性が認められると主張した。弁護側は、北嶋被告はギャンブル依存症で、パチンコをしたいという強い欲求に支配され、心神耗弱の状態だったとして責任能力の有無を争う姿勢を示した。
 28日の論告で検察はギャンブル依存症は動機には影響したが、現場に指紋が残らないようにゴム手袋などを準備していた北嶋被告の計画性を指摘。「物事の善悪を判断することができていて完全責任能力がある。確定的な殺意で首を絞め続けた卑劣な犯行だ」と述べた。
 同日の最終弁論で弁護側は、北嶋被告が事件後、能美市内のパチンコ店に10時間以上も滞在していたことなどを挙げ、「殺人行為は、ギャンブル依存症が行動をコントロールする能力を著しく障害した結果だ」と説明。心神耗弱の状態であり、再犯の可能性も認められないとして懲役15年が相当と主張した。
 判決で大村陽一裁判長は、「パチンコの資金を得るためという身勝手な動機で無防備な祖父の首を絞めて殺害したことは悪質だ」と指摘。減刑や酌量はふさわしくないとした。
備 考
 

氏 名
小林遼(25)
逮 捕
 2018年5月14日
殺害人数
 1名
罪 状
 殺人、強制わいせつ致死、死体遺棄、死体損壊、わいせつ目的略取、電汽車往来危険、児童買春・児童ポルノ禁止法違反
事件概要
 新潟市の会社員、小林遼(はるか)被告は2018年5月7日午後3時過ぎ、下校途中で友人と別れ自宅から300m地点を一人で歩いていた小学2年生の女児(当時7)に軽乗用車をぶつけて車に乗せ、駐車場に止めた車内でわいせつな行為をした上、意識を取り戻した女児が大声を上げたため、首を手で絞めて殺害。遺体をJR越後線線路に遺棄し、電車にひかせた。
 同日午後10時半ごろ、新潟市西区のJR越後線小針駅近くで、女児が列車にひかれた状態で死亡しているのが見つかった。新潟県警は殺人・死体遺棄事件として新潟西署に捜査本部を設置。近くに住む小林遼被告を5月14日に死体遺棄、同損壊容疑で逮捕し、6月4日に殺人容疑で再逮捕した。  他に、2017年11月27日にネットで入手した児童ポルノが入った携帯電話を所持したとされる児童買春・児童ポルノ禁止法違反の罪でも起訴されている。
裁判所
 新潟地裁 山崎威裁判長
求 刑
 死刑
判 決
 2019年12月4日 無期懲役
裁判焦点
 裁判員裁判。
 2019年11月8日の初公判で、小林遼被告は「首を絞めたのは間違いないが、静かにしてもらうためで殺意はない」と述べ、殺意を否認。強制わいせつ致死罪についても「わいせつ行為はしておりません」などと述べた。死体遺棄、損壊やわいせつ略取の罪については認めた。
 検察側は冒頭陳述で、勤務先を無断欠勤した小林被告が車を走行しながら下校中の女子児童を物色し、一人で歩いていた女児を見つけたと説明。女児は車内に連れ込まれた際、泣きながら「頭が痛い。お母さんに連絡したい」と訴えたとした。小林被告が女児の首を5分以上にわたって絞め続け、死亡後に救命措置を取らなかった点について「人を殺害する典型的な行動」とし、殺意があったと指摘。証拠隠滅のため、女児を電車にひかせたとして「一貫して被害者を物のように扱い、特異かつ冷酷非情」とした。
 弁護側は車を女児に衝突させて連れ去り、2度にわたり首を絞めたことや遺体を線路に置いた事実は認めた。一方、首を絞めた行為について「女児に悲鳴を上げられたため、黙らせようと気絶させるためだった」と主張し、殺意やわいせつの意図はなく、傷害致死罪にとどまると主張。強制わいせつ致死罪も成立しないと訴えた。「(被告は)取り返しのつかないことをしたと反省している」とするとともに、小林被告には抑うつ障害などがあったと訴えた。
 11日の第2回公判で女児の遺体を司法解剖した医師が「5分以上は首を絞められたと考えられる。殺意はあったと思う」と証言した。検察側の質問に対し、一般論として「呼吸を停止させるには短くても5分以上、意識がなくなってから2分以上首を絞める必要がある」と指摘。小林被告が捜査段階で「体感で5分以上絞めた」と供述したことについて「(矛盾は)特にない」とした。女児の首には圧迫された明らかな痕はみられなかったと明らかにした上で、「手などで絞めた場合は表面に痕が残りにくい」として、絞めた力が軽かった証拠にはならないと答えた。一方、弁護側が「法医学では殺意を認定できないのでは」と指摘すると、高塚医師は「(被告の内心については)専門ではない」と述べた上で、「5分以上絞めるのは、何らかの意思があったのではないか」と話した。
 12日の第3回公判で小林被告の元同僚が証言台に立ち、仕事に対する姿勢について「真面目だった」と話した。一方で、「失敗があると嘘をつくなどプライドの高いところがあった」と証言した。小林被告が事件当日、会社を無断で休んだ理由について、検察官に人間関係の悩みがあったか聞かれると「なかったと思う」と答えた。また、往来の危険について証言したJRの運転士は、女子児童の遺体にぶつかった時「脱線の危険を感じた」と語った。
 13日の第4回公判で女児の父親が出廷し、小林被告に対し「一切謝罪もない。更生や反省なんて軽々しく口にしてほしくない」と怒りをあらわにし、「死刑でも私たち家族の気持ちは収まらない」と語った。
 14日の第5回公判で、弁護側の依頼を受けて4~7月、小林被告との面談などを実施した精神科医は、小林被告が事件について「反省心はない。裁判はどうでもいい。死刑でも構わない」と話したと証言。こうしたことについて精神科医は、小林被告が抑鬱障害のために自暴自棄になり、他人を殺害することに対する認識が希薄になっていた可能性があると指摘。動機などを解明するために正式な鑑定の必要性があるとした。また、解離性障害をめぐっては、小林被告が「5人くらいの男性の声が聞こえてくる」「(事件当時に)『やめようよ』という声と『やっちゃえ』という声の両方が聞こえた」などと話していたと証言。障害の影響で犯行時の記憶が一部欠けていることなどから、犯行の計画性に疑義を呈した。 一方検察側は、被告の精神科医に対する発言が捜査段階の供述内容と食い違うことを指摘。被告が自分に責任能力がないように見せかけるために嘘をついた可能性を指摘した。
 18日の第6回公判における被告人質問で、弁護人から遺族に対する気持ちを聞かれると、小林被告はその場で立ち上がり、「私の身勝手な行動で(女児を)死なせてしまい、遺族の皆さまに癒えない傷と不自由な生活をさせてしまい、大変申し訳ありませんでした」と低い声で話し、頭を下げた。しかし、「気絶してもらおうと思い、首を絞めました」と、改めて殺意を否定するとともに、事件当日の行動について、一部を「覚えていません」などと話し、強制わいせつ致死罪についても「取調官の話に合わせてしまった」と捜査段階では認めていたとされる、わいせつ行為を否定した。
 19日の第7回公判で被害者参加制度を利用して意見陳述した女児の母親は、「被告にふさわしいのは死刑しかない」と、涙で声を詰まらせながら極刑を求めた。
 22日の論告で検察側は、わいせつ行為中に女児が泣き叫んだため殺害し、証拠隠滅のため遺体を電車にひかせるなど、「凄惨の極みだ」と非難。一貫して被害者の生命より自分の性的欲望を優先し、「被害者を物としか見ていない生命軽視の姿勢は明らかだ」と指摘し、被害者が1人でも死刑を回避すべき事情にはならないと強調した。
 同日の最終弁論で弁護側は、女児の首を絞めたのは気絶させるのが目的と述べ、改めて殺意を否定。一部のわいせつ行為についても「あったとは言い切れない」と主張した。被告が精神的な障害・疾患を抱え、犯行に影響を与えた可能性があるとし、「必要なのは刑罰ではなく治療」と主張した。「障害のある人を死刑にすることが本当に正義にかなうのか」とも訴えた。被告に前科がなく、若いことから、「更生の可能性は高い」と検察に反論した。そして傷害致死を適用すべきで、懲役10年が相当とした。
 小林被告は最終意見陳述で、「身勝手な思いで娘さんを死なせてしまい大変申し訳ない」と頭を下げた。
 判決で山崎裁判長は、争点となった殺意の有無について、首を絞めたのは大きな声を出した女児を気絶させる目的だったと認定。だが、首を絞める行為は人が死ぬ危険性が高いことは子供でも分かると指摘し、被告が女児の呼吸や脈を確認しながらも救命措置をしていない点を挙げ、「死ぬかもしれないと認識していた」として殺意を認めた。また被告の捜査段階の供述や医師の証言、遺体の状況などから、強制わいせつ致死罪も成立するとした。量刑について、究極の刑罰である死刑の適用には慎重な判断が必要で、過去の裁判例との「公平性の確保」にも留意するとした最高裁の判断に沿って検討した。極刑を望む遺族の処罰感情に「できる限りこたえたい」としつつ、裁判員裁判で審理されたわいせつ目的の殺人では、死刑判決が出ていないことや、殺害に計画性が認められないことなどを重視。車を女児に衝突させたことや、遺体を線路に置いて列車にひかせたことは悪質だが、殺害行為そのものではないと指摘し、「何ら落ち度のない被害者が下校中に連れ去られ殺害された。結果は重大で、まれに見る凄惨な事件」と非難し、「遺族の悲痛な思いは察するが、慎重さと公平性は特に求められる」と述べ、同種事件に比べ際立って残虐とは言えず、無期懲役が相当とした。
 判決後、山崎裁判長は「生きて罪を償うことになった以上、命が尽きるその瞬間まで一瞬たりとも謝罪の気持ちを忘れないでください」と小林被告に語りかけた。
備 考
 政府はこの事件を受けて2018年6月、午後3~6時の下校時間帯の見守り活動を強化する「登下校防犯プラン」を新たに策定。新潟市教育委員会も自治体や保護者などで作る防犯マップを市内全学校で更新した。

氏 名
ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン(34)
逮 捕
 2015年10月8日
殺害人数
 6名
罪 状
 強盗殺人、住居侵入、住居侵入
事件概要
 2015年9月13日午後1時30分ごろ、外国人の男性から片言で金を無心されたと住民から相談を受けた熊谷市内の消防分署から、意味不明の言葉を話している外国人がいるとの通報があり、ペルー国籍のナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン被告が熊谷署に任意同行された。ナカダ被告は署員に「母国のペルーに帰りたい」「姉が川崎にいる」と話した。
 川崎市に住む姉と電話で話し、姉は「ストレスをためているようだ」と説明。さらに、姉はナカダ被告が帰国を希望していることを明かし、「飛行機代くらいは出す」と伝えてきた。ただ、ナカダ被告も姉も細かい日本語を理解できず、同署は通訳を要請。その間、ナカダ被告はたばこを吸いたいといって署内の正面玄関わきにある喫煙所で一服した後、付き添いの署員を振り切って逃走した。現金3,417円入りの黒革の財布と健康保険証、在留カード、パスポートなどの所持品を残していた。付き添いの警察官は交通量が多いと追わなかった。その後、署員5人が警察犬を連れて付近を捜索したが、見つからなかったという。午後5時9分、熊谷市石原の住宅の物置小屋に男が侵入していると住民から110番通報があった。午後5時34分ごろ、別の民家の敷地に男が侵入したと住民から110番通報があった。いずれも「カネ、カネ」と話していた。
 ナカダ被告は9月14日午後5時ごろ、熊谷市内の夫婦(当時55、53)方に侵入し、奪った包丁で二人を殺害。乗用車とスマートフォン1台、現金約9,000円などを奪った。午後6時5分ごろ、妻の父親が二人の遺体を発見し、110番通報した。
 15日、奪われた車が近くの駐車場で見つかった。熊谷署は、13日の住居侵入事件でナカダ被告の逮捕状を取った。熊谷署は防災無線による注意喚起を口頭で市教委に要請したが、防災無線による注意喚起は、所管する市安心安全課に文書で要請することになっていたたため、注意喚起は行われなかった。
 9月15~16日、ナカダ被告は最初の殺人現場から約1km離れた独り暮らしの女性(当時84)方に無施錠の1階窓から強盗目的で侵入し、1階和室で女性の腹部を数回、突き刺すなどして殺害し、新たに包丁を奪ったほか、遺体を風呂場の浴槽に入れ、蓋などをかぶせて隠した。
 16日、熊谷市の会社員方に無施錠の1階窓から侵入、1階トイレで妻(当時41)の胸を包丁で数回、突き刺すなどして殺害して、敷毛布をかけて1階クローゼットに隠す一方、学校から帰宅した小学5年の長女(当時10)、小学2年の次女(当時7)を2階寝室で切りつけて殺害、2人の遺体を2階クローゼットに隠した。
 16日午後4時半ごろ、三番目の犠牲者方に訪れた女性の義理の娘が、「家の中に血痕があり、義母の姿が見えない」と110番通報。駆けつけた警熊谷署員が浴室で女性の遺体を発見した。この事件で周辺の聞き込みをしていた捜査員が午後5時半ごろ、西に約100m離れた民家の扉が開いたままで中に声をかけても返答がなかったため、裏に回り込んだところ、2階の窓から顔を出し、自分の腕を刃物で刺しているナカダ被告を見つけた。ナカダ被告は間もなく2階の窓から飛び降り、頭の骨を折るなどの一時意識不明の重体となって深谷市内の病院に運ばれた。捜査員はこの家の屋内3人の遺体を発見した。
 ナカダ被告は2005年4月にペルーから入国。在留資格はあった。父が日本人、母がペルー人の日系2世で姉2人と兄2人が日本で暮らしている。その後、派遣会社などに登録し、関東や関西、九州、東海など各地の食品工場を転々としていた2015年7月30日からは埼玉県の工場で働いていたが、「作業があわない」と本人から申告があり、8月15日からは伊勢崎市の工場で働いていた。しかし9月12日、「背広を着た人に追われ、工場に戻れないので辞めます」と人材派遣会社の担当者に電話をかけ、そのまま姿を消していた。
 ナカダ被告は入院から約1週間後に意識を回復。医師の許可が出たため、県警は10月8日、夫婦に対する殺人と住居侵入容疑でナカダ被告を逮捕した。しかしナカダ被告は頭痛がすると言い、15日に再入院。髄膜炎などのおそれがあるとして22日に頭部の手術を受けた。23日、さいたま地検は勾留の執行停止をさいたま簡裁に請求し、認められた。地検は29日、執行停止を取り消すよう申し立て、30日、簡裁は決定を出した。
 弁護団は10月30日付で、証拠保全のための精神鑑定をさいたま簡裁に請求した。後日、同簡裁は「現時点では必要ない」などとして却下していた。
 11月25日、県警は親子3人の殺人容疑でナカダ被告を再逮捕した。
 ナカダ被告は12月8日から2016年5月13日まで鑑定留置された。さいたま地検は5月20日、責任能力が認められると判断して、強盗殺人と死体遺棄、住居侵入容疑で起訴した。
裁判所
 東京高裁 大熊一之裁判長
求 刑
 死刑
判 決
 2019年12月5日 無期懲役(一審破棄)
裁判焦点
 2019年6月10日の控訴審初公判にナカダ被告は出廷し、開廷前には両隣の刑務官に盛んに話しかけていたが、開廷後はうつむいたままで、人定質問にも答えなかった。
 弁護側は公判で「被告は統合失調症に罹患し、犯行時は心神喪失状態だった」と改めて無罪を主張した。検察側は控訴棄却を求めた。
 弁護側の依頼で精神鑑定をした医師が出廷し「被告が事件前から統合失調症を発症していたのは間違いない」と一審同様に証言。「(何かを命令されるような)幻聴を聞いていてもおかしくない」とも述べた。
 8月1日の第2回公判で、ナカダ被告の訴訟能力の有無について調べる被告人質問が行われ、被告は「私を殺せばいい」などと供述する一方で、事件とは無関係の発言や質問とかみ合わない回答を繰り返した。
 9月10日の第3回公判で、妻と2人の娘を亡くした男性が意見を陳述。「控訴審での被告は、言葉数も多く、『なぜこんなに元気なんだ』とむなしさと怒りが込み上げた。妻と娘は生き返らないのに、これほどの理不尽はない」と憤りを示し、「私の望みはただ一つ、被告人が死刑になることです」とはっきりとした口調で述べた。
 同日の弁論で弁護側は、「被告は実効的なコミュニケーションを取ることができず、利害を弁別し自身を防御することもできない」と被告の訴訟能力を否定。責任能力についても「各犯行に統合失調症の妄想が大きく関係している」とした上で、「ただちに無罪を言い渡すか、公判手続きを停止するべき」と主張した。検察側は、一審判決に事実誤認があるなどとする弁護側の主張を否定。「事実誤認はなく正当。弁護側の主張はいずれも失当である」として、完全責任能力を認めた一審死刑判決の維持を求め、結審した。
 判決で大熊裁判長は、ナカダ被告の精神障害が犯行に及ぼした影響を直近の状況のみで検討した一審判決について、「精神鑑定の評価に看過しがたい誤りがあって是認できない」と指摘。「妄想上の追跡者から身を隠すために被害者方に侵入し、被害者を追跡者とみなしたか、警察に通報されると考えて殺害に及んだ可能性があり、統合失調症の影響が非常に大きかったことは否定できない」とした。一方、遺体を隠したり、血を拭き取るなど証拠隠滅と受け取れる行動を繰り返していたことから、「自発的意思も残されており、違法性も理解していた。犯行は妄想や精神的な不穏に完全に支配されていたとは言えず、心神耗弱の状態だった」と認定した。その上で「強固な殺意に基づく残忍な犯行で、6人の命が奪われた結果は誠に重大。責任能力の点を除けば極刑で臨むほかない。心神耗弱による法律上の減軽をした上で無期懲役が相当」と述べた。
備 考
 ナカダ・ルデナ・バイロン・ジョナタン被告の兄の一人は、ペルーで2005~2006年、拳銃で17人を殺害したとして、2006年に逮捕され、2007年に禁錮35年の刑を言い渡されていた。実際には25人を殺害したと供述していた。妄想型統合失調症と診断され、医療刑務所に収監されている。
 埼玉県警は2015年10月29日、反省点と今後の取り組みをまとめた報告書を公表した。住民への注意喚起が不十分だったとされた点を検討。積極的な注意喚起が必要とし、今後の取り組みとして「『戸締まりをしてください』『不要な外出を控えてください』など具体的な措置を示すよう努める」ことを盛り込んだ。また「高齢世帯にも確実に情報が届くよう、メール以外の情報発信を活用する必要がある」とし、地元密着型のローカルテレビなどとの連携▽自治会、町内会などのネットワークの活用▽防災無線の積極的な活用――を進めるとした。他に、外国語に通じた警察官の育成や、民間の嘱託通訳人の拡充を図るとした。県警が直轄警察犬を保有しておらず、署から逃走したナカダ容疑者の捜索のために民間の嘱託警察犬を手配した際、約3時間がかかったことを踏まえ、直轄警察犬の導入や犬舎の整備を急ぐとした。
 埼玉県警の報告書公表にあわせ、警察庁は29日、連続発生の恐れのある凶悪事件が起きた場合の対応強化を求める通達を全国の警察本部に出した。発生直後に事件の性質がはっきりしない場合でも、連続して被害が出る可能性を前提に初動捜査を行うとともに、住民に情報を提供することを求めている。
 2015年12月、市と警察署と自治会連合会の三者によって結ばれた不審者・犯罪情報提供をめぐる協定「熊谷モデル」が締結された。生命身体への危険などを基準に情報を3段階に分類し、防災無線、市のメール、自治会連絡網を積極的に利用する。また、三者の連絡窓口を一本化し、防災無線の依頼手順などを明記。情報交換を年1回以上行う三者間協議会を設置する-などが内容。熊谷市を皮切りに、2016年6月までに県内全39警察署と全63市町村で協定が締結された。

 2018年3月9日、さいたま地裁(佐々木直人裁判長)の裁判員裁判で求刑通り死刑判決。



【2019年度 これまでの無期懲役判決】

氏 名
池田徳信(31)
逮 捕
 2016年7月9日(死体遺棄容疑)
殺害人数
 1名
罪 状
 強盗殺人、死体遺棄、死体損壊、住居侵入
事件概要
 東京都世田谷区の無職、池田徳信(やすのぶ)被告は2016年6月20日ごろ、世田谷区のマンションの2階の部屋に忍び込もうとベランダから上ったが、鍵が閉まっていたため、一つ上の3階に住む無職の女性(当時88)の部屋の窓の鍵が開いていたため、侵入。寝ていた女性が驚いて大声を出したため、首を絞めるなどして殺害し、現金約35万円を奪った(ただし現金を奪ったことは裁判で認められなかった)。さらに、室内にあった包丁で女性の遺体を浴室で切断。一度帰宅した後、翌21日に忍び込み、遺体を持出し区立碑文谷公園内の池に遺棄した。
 池田被告は当時、女性のマンションから約500メートルのマンションに母親と二人暮らしだった。
 6月23日午前10時半ごろ、公園の清掃作業員の男性が切断された一部が池に浮いているのを見つけた。その後の捜索で首や腰、両手足などが見つかった。捜査本部は7月3日に池の水を抜いて約50人態勢で大規模な捜索をした。
 池田被告が女性のマンションに出入りする姿や、公園近くにいる姿が防犯カメラに映っていたことや、池田被告の足跡などが見つかったことから、警視庁碑文谷署捜査本部は9日、池田被告を死体遺棄容疑で逮捕した。8月2日、強盗殺人容疑で再逮捕した。遺体は8月17日、すべての部位が見つかった。
裁判所
 最高裁第二小法廷 山本庸幸裁判長
求 刑
 無期懲役
判 決
 2019年1月8日 無期懲役(被告側上告棄却、確定)
裁判焦点
 
備 考
 目黒区は事件後、警察捜査と園内の整備に伴い、一部を除き区立碑文谷公園を閉鎖していた。2016年9月15日、公園の利用を10月3日に再開すると発表した。園内の防犯対策に向けた整備が終了したためで、同日再開式も行う。また、池のボートは10月8日に再開した。
 2017年9月29日、東京地裁の裁判員裁判で求刑通り一審無期懲役判決。2018年4月25日、東京高裁で被告側控訴棄却。

氏 名
ランパノ・ジェリコ・モリ(37)
逮 捕
 2017年9月2日
殺害人数
 1名
罪 状
 殺人、強姦致死
事件概要
 フィリピン国籍のランパノ・ジェリコ・モリ被告はフィリピン国籍の少年2人(事件当時19、18)と共謀。2004年1月31日午前0時から6時半ごろまでの間、茨城県阿見町の路上で、散歩で通りがかった茨城大農学部2年の女子学生(当時21)の腕をつかんで車に連れ込み、美浦村舟子の清明川に向かう車内で暴行を加え、手などで首を絞めた。さらに、清明川の河口付近で首を刃物で複数回切るなどして殺害した。  ランパノ被告は母親らと2000年に入国。事件当時、ランパノ被告は土浦市内に住み、美浦村内の電器部品加工会社に勤務していた。女子学生と面識はなかった。
 遺体は31日の午前9時半ごろ、発見された。
 ランパノ被告や共犯の2人は2007年にフィリピンに出国するも、ランパノ被告は再び日本に入国。2010年からは岐阜県瑞浪市に母親や妻、子供らと住み、工場に勤めていた。
 茨城県警は交友関係を中心に調べるもトラブルは無く、犯人につながる手掛かりが乏しく捜査が長期化。県警は殺人罪などの公訴時効が2010年に撤廃されたことを受けて、未解決事件に専従する捜査班を翌年に設置した。新たな情報提供を呼びかけるなどした結果、2015年に情報が寄せられ、ランパノ被告が捜査線上に浮上。捜査を続けた結果、ランパノ被告が友人らに対し、事件への関与をほのめかしていたことが判明。遺体に付着した微物のDNA型がランパノ被告のものと一致した。茨城県警は2017年9月2日、岐阜県瑞穂市で工員として働いていたランパノ・ジェリコ・モリ被告を強姦致死と殺人の疑いで逮捕した。また県警は同日、ランパノ被告の妹と日本人の夫について偽装結婚したとして電磁的公正証書原本不実記録・同供用容疑で逮捕、さらに夫と同居するタイ国籍の飲食手順従業員の女性を入管難民法違反(不法在留)容疑で逮捕している。
 9月5日、茨城県警はフィリピン国内にいると思われる共犯2人の逮捕状を取り、国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配した(なお1人についてはフィリピンで日本の取材に応じている)。ただし日本とフィリピンとの間には事件捜査の協力を要請できる「刑事共助協定」がなく、容疑者の身柄引き渡しに関する条約もないため、フィリピン政府に引き渡しを求めることができない。
裁判所
 東京高裁 栃木力裁判長
求 刑
 無期懲役
判 決
 2019年1月16日 無期懲役(被告側控訴棄却)
裁判焦点
 2018年12月12日の控訴審初公判で、弁護側は、一審判決が重すぎると主張。検察側は控訴棄却を求め、即日結審した。被告人質問でモリ被告は「被害者に申し訳ない。罪を償い、社会に出られたらきちんと生活したい」と述べた。
 判決で栃木裁判長は、モリ被告は、女性に乱暴し口封じのため殺害することを、事前に他2人と話し合って事件を起こしたと指摘。通りすがりの被害者を暴行し、発覚を防ぐため殺害したと認定し、「被害者の人格を踏みにじる卑劣な犯行で、殺害態様も残虐。被告が反省していることを踏まえても、無期懲役が相当だ」とした一審判決は適切と判断した。
備 考
 2018年7月に改正刑法が施行され、強姦罪は「強制性交罪」に変わり、法定刑が引き上げられた。ただ今回の事件は2004年に発生しており、改正前の刑法が適用された。
 2018年7月25日、水戸地裁の裁判員裁判で求刑通り一審無期懲役判決。上告せず確定。


清野敬史(44)
逮 捕
 2018年4月5日(窃盗容疑で逮捕済み)
殺害人数
 1名
罪 状
 殺人、現住建造物等放火、準強制性交、昏睡強盗、窃盗、住居侵入
事件概要
 上越市の介護職員、清野敬史被告は、次の五つの事件を起こした。
2005年1月12日、上越市の当時50代の男性方に侵入し、2階の寝室のタンスから現金約4万円を盗んだ後、タンス内の衣類にライターで火をつけて、室内の一部を焼損させた。
2017年12月24日から27日の間で、新潟県妙高市の一般住宅に窓を割って侵入し、タンスなどを物色した。
2018年1月28日、妙高市内の80代女性宅を訪れ、女性に睡眠導入剤を混ぜたココアを飲ませて昏睡状態にさせ、ネックレス1本(時価5,000円相当)と睡眠導入剤28錠を盗んだ。
2018年2月18日午後4時過ぎ、新潟県上越市のアパートに住む一人暮らしの顔見知りの女性(当時70)に睡眠導入剤を入れたココアを飲ませて抵抗できない状態にし、性交等を行った。証拠隠滅のため、女性が寝ていたベッドや玄関に散乱させたチラシなどにサラダ油をまいてライターで火をつけて一部を焼き、女性を一酸化炭素中毒で死亡させた。
 火災は午後4時40分頃に発生し、同5時に鎮火した。居室で心肺停止状態の女性が発見され、搬送先の上越市内の病院で死亡が確認された。発見時に手を縛られているなど不審な点があったことから、県警が捜査を始めた。
残り1件は不明。
 清野被告は2017年12月の事件において、住居侵入と窃盗未遂容疑で2018年3月16日に逮捕された(4月5日、住居侵入と窃盗で起訴)。3月末、退職。4月5日、殺人、放火などの容疑で再逮捕された。5月31日、2018年1月の昏睡強盗容疑で再逮捕。ほかの事件も自供し、2005年1月の事件で7月9日に再逮捕。
 逮捕後の余罪捜査で清野被告は2004年~2018年にかけて、現住建造物等放火が7件(うち1件は未遂)、建造物等以外放火が1件、住居侵入・窃盗が5件、邸宅侵入(空き家)未遂が1件を自供した。これらは送検されたが、一部を除いて起訴されていない。
裁判所
 新潟地裁 山崎威裁判長
求 刑
 無期懲役
判 決
 2019年3月11日 無期懲役
裁判焦点
 裁判員裁判。
 2019年2月25日の初公判で清野敬史被告は、起訴内容をおおむね認めたが、放火について部屋にサラダ油をまいた点については否認した。
 検察側は冒頭陳述で、清野被告は殺意を持って女性の下腹部にサラダ油をまき、枕元など3カ所にライターで火をつけたと主張。計画的で悪質、残忍な犯行だと訴えた。
 弁護側は、殺意については争わない構えを示した。ただ清野被告が「(女性が)死んでしまってもやむを得ない」と考えて女性の下腹部にサラダ油をまいたことは認めた一方、部屋にはまいていないと一部を否認した。また窃盗など一部の事件では示談が成立していることや、一つの事件については「清野被告がすすんで自分の罪について話したため、自首が成立する」と主張し、情状酌量を求めた。
 3月1日の被告人質問で、清野被告は犯行の動機について「自分の性欲を満たすためだった」と、放火については「女性の記憶や現場に残った自分のDNAを消したかった」と理由を語った。遺族に対しては「どんな判決が出ても控訴しない。それが女性に対する償いだと思っている」と述べた。この日は女性の長男の意見陳述も行われ、長男は「一番重い刑に処してほしい」と訴えた。
 4日の論告で検察側は、清野被告が事前にガムテープや睡眠導入剤を用意するなど暴行は計画的であり、女性に睡眠薬を飲ませて昏睡させた上で性的暴行し、犯行の発覚を恐れて証拠隠滅のため部屋に火を放った際には、女性が死亡することを十分に認識していたと指摘。「きわめて残虐。動機や経緯全体が被告の身勝手な欲望で埋め尽くされており、人の道を大きく外れた所業だ」と非難した。そして殺害行為の残虐性などを示し、「極めて強い非難が妥当だ」と訴えた。
 同日の最終弁論で弁護側は、女性の身体にまいたサラダ油に直接火をつけたわけではなく、焼き殺すつもりはなかったなどと主張。「清野被告が心から反省している」と主張。更生の可能性があるとして、懲役15年以下が妥当と訴えた。
 最終意見陳述で清野被告は、「これからの刑務所生活で自分を見つめ直し、償っていきたい。本当に申し訳ありませんでした」と謝罪した。






🇫🇷Marcel Proust

2019-12-01 23:16:38 | Nietzsche
2019-09-11 04:35:11

Longtemps, je me suis couché de bonne heure. Parfois, à peine ma bougie éteinte, mes yeux se fermaient si vite que je n’avais pas le temps de me dire : « Je m’endors. » Et, une demi-heure après, la pensée qu’il était temps de chercher le sommeil m’éveillait ; je voulais poser le volume que je croyais avoir encore dans les mains et souffler ma lumière ; je n’avais pas cessé en dormant de faire des réflexions sur ce que je venais de lire, mais ces réflexions avaient pris un tour un peu particulier ; il me semblait que j’étais moi-même ce dont parlait l’ouvrage : une église, un quatuor, la rivalité de François Ier et de Charles-Quint. Cette croyance survivait pendant quelques secondes à mon réveil ; elle ne choquait pas ma raison, mais pesait comme des écailles sur mes yeux et les empêchait de se rendre compte que le bougeoir n’était pas allumé. Puis elle commençait à me devenir inintelligible, comme après la métempsycose les pensées d’une existence antérieure ; le sujet du livre se détachait de moi, j’étais libre de m’y appliquer ou non ; aussitôt je recouvrais la vue et j’étais bien étonné de trouver autour de moi une obscurité, douce et reposante pour mes yeux, mais peut-être plus encore pour mon esprit, à qui elle apparaissait comme une chose sans cause, incompréhensible, comme une chose vraiment obscure. Je me demandais quelle heure il pouvait être ; j’entendais le sifflement des trains qui, plus ou moins éloigné, comme le chant d’un oiseau dans une forêt, relevant les distances, me décrivait l’étendue de la campagne déserte où le voyageur se hâte vers la station prochaine ; et le petit chemin qu’il suit va être gravé dans son souvenir par l’excitation qu’il doit à des lieux nouveaux, à des actes inaccoutumés, à la causerie récente et aux adieux sous la lampe étrangère qui le suivent encore dans le silence de la nuit, à la douceur prochaine du retour.

J’appuyais tendrement mes joues contre les belles joues de l’oreiller qui, pleines et fraîches, sont comme les joues de notre enfance. Je frottais une allumette pour regarder ma montre. Bientôt minuit. C’est l’instant où le malade qui a été obligé de partir en voyage et a dû coucher dans un hôtel inconnu, réveillé par une crise, se réjouit en apercevant sous la porte une raie de jour. Quel bonheur ! c’est déjà le matin ! Dans un moment les domestiques seront levés, il pourra sonner, on viendra lui porter secours. L’espérance d’être soulagé lui donne du courage pour souffrir. Justement il a cru entendre des pas ; les pas se rapprochent, puis s’éloignent. Et la raie de jour qui était sous sa porte a disparu. C’est minuit ; on vient d’éteindre le gaz ; le dernier domestique est parti et il faudra rester toute la nuit à souffrir sans remède.

Je me rendormais, et parfois je n’avais plus que de courts réveils d’un instant, le temps d’entendre les craquements organiques des boiseries, d’ouvrir les yeux pour fixer le kaléidoscope de l’obscurité, de goûter grâce à une lueur momentanée de conscience le sommeil où étaient plongés les meubles, la chambre, le tout dont je n’étais qu’une petite partie et à l’insensibilité duquel je retournais vite m’unir. Ou bien en dormant j’avais rejoint sans effort un âge à jamais révolu de ma vie primitive, retrouvé telle de mes terreurs enfantines comme celle que mon grand-oncle me tirât par mes boucles et qu’avait dissipée le jour — date pour moi d’une ère nouvelle — où on les avait coupées. J’avais oublié cet événement pendant mon sommeil, j’en retrouvais le souvenir aussitôt que j’avais réussi à m’éveiller pour échapper aux mains de mon grand-oncle, mais par mesure de précaution j’entourais complètement ma tête de mon oreiller avant de retourner dans le monde des rêves.

Quelquefois, comme Ève naquit d’une côte d’Adam, une femme naissait pendant mon sommeil d’une fausse position de ma cuisse. Formée du plaisir que j’étais sur le point de goûter, je m’imaginais que c’était elle qui me l’offrait. Mon corps qui sentait dans le sien ma propre chaleur voulait s’y rejoindre, je m’éveillais. Le reste des humains m’apparaissait comme bien lointain auprès de cette femme que j’avais quittée, il y avait quelques moments à peine ; ma joue était chaude encore de son baiser, mon corps courbaturé par le poids de sa taille. Si, comme il arrivait quelquefois, elle avait les traits d’une femme que j’avais connue dans la vie, j’allais me donner tout à ce but : la retrouver, comme ceux qui partent en voyage pour voir de leurs yeux une cité désirée et s’imaginent qu’on peut goûter dans une réalité le charme du songe. Peu à peu son souvenir s’évanouissait, j’avais oublié la fille de mon rêve.




Il y avait déjà bien des années que, de Combray, tout ce qui n’était pas le théâtre et le drame de mon coucher n’existait plus pour moi, quand un jour d’hiver, comme je rentrais à la maison, ma mère, voyant que j’avais froid, me proposa de me faire prendre, contre mon habitude, un peu de thé. Je refusai d’abord et, je ne sais pourquoi, je me ravisai. Elle envoya chercher un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblaient avoir été moulés dans la valve rainurée d’une coquille de Saint-Jacques. Et bientôt, machinalement, accablé par la morne journée et la perspective d’un triste lendemain, je portai à mes lèvres une cuillerée du thé où j’avais laissé s’amollir un morceau de madeleine. Mais à l’instant même où la gorgée mêlée des miettes du gâteau toucha mon palais, je tressaillis, attentif à ce qui se passait d’extraordinaire en moi. Un plaisir délicieux m’avait envahi, isolé, sans la notion de sa cause. Il m’avait aussitôt rendu les vicissitudes de la vie indifférentes, ses désastres inoffensifs, sa brièveté illusoire, de la même façon qu’opère l’amour, en me remplissant d’une essence précieuse : ou plutôt cette essence n’était pas en moi, elle était moi. J’avais cessé de me sentir médiocre, contingent, mortel. D’où avait pu me venir cette puissante joie ? Je sentais qu’elle était liée au goût du thé et du gâteau, mais qu’elle le dépassait infiniment, ne devait pas être de même nature. D’où venait-elle ? Que signifiait-elle ? Où l’appréhender ? Je bois une seconde gorgée où je ne trouve rien de plus que dans la première, une troisième qui m’apporte un peu moins que la seconde. Il est temps que je m’arrête, la vertu du breuvage semble diminuer. Il est clair que la vérité que je cherche n’est pas en lui, mais en moi. Il l’y a éveillée, mais ne la connaît pas, et ne peut que répéter indéfiniment, avec de moins en moins de force, ce même témoignage que je ne sais pas interpréter et que je veux au moins pouvoir lui redemander et retrouver intact à ma disposition, tout à l’heure, pour un éclaircissement décisif. Je pose la tasse et me tourne vers mon esprit. C’est à lui de trouver la vérité. Mais comment ? Grave incertitude, toutes les fois que l’esprit se sent dépassé par lui-même ; quand lui, le chercheur, est tout ensemble le pays obscur où il doit chercher et où tout son bagage ne lui sera de rien. Chercher ? pas seulement : créer. Il est en face de quelque chose qui n’est pas encore et que seul il peut réaliser, puis faire entrer dans sa lumière.

Et je recommence à me demander quel pouvait être cet état inconnu, qui n’apportait aucune preuve logique mais l’évidence de sa félicité, de sa réalité devant laquelle les autres s’évanouissaient. Je veux essayer de le faire réapparaître. Je rétrograde par la pensée au moment où je pris la première cuillerée de thé. Je retrouve le même état, sans une clarté nouvelle. Je demande à mon esprit un effort de plus, de ramener encore une fois la sensation qui s’enfuit. Et, pour que rien ne brise l’élan dont il va tâcher de la ressaisir, j’écarte tout obstacle, toute idée étrangère, j’abrite mes oreilles et mon attention contre les bruits de la chambre voisine. Mais sentant mon esprit qui se fatigue sans réussir, je le force au contraire à prendre cette distraction que je lui refusais, à penser à autre chose, à se refaire avant une tentative suprême. Puis une deuxième fois, je fais le vide devant lui, je remets en face de lui la saveur encore récente de cette première gorgée et je sens tressaillir en moi quelque chose qui se déplace, voudrait s’élever, quelque chose qu’on aurait désancré, à une grande profondeur ; je ne sais ce que c’est, mais cela monte lentement ; j’éprouve la résistance et j’entends la rumeur des distances traversées.

Certes, ce qui palpite ainsi au fond de moi, ce doit être l’image, le souvenir visuel, qui, lié à cette saveur, tente de la suivre jusqu’à moi. Mais il se débat trop loin, trop confusément ; à peine si je perçois le reflet neutre où se confond l’insaisissable tourbillon des couleurs remuées ; mais je ne puis distinguer la forme, lui demander, comme au seul interprète possible, de me traduire le témoignage de sa contemporaine, de son inséparable compagne, la saveur, lui demander de m’apprendre de quelle circonstance particulière, de quelle époque du passé il s’agit.

Arrivera-t-il jusqu’à la surface de ma claire conscience, ce souvenir, l’instant ancien que l’attraction d’un instant identique est venue de si loin solliciter, émouvoir, soulever tout au fond de moi ? Je ne sais. Maintenant je ne sens plus rien, il est arrêté, redescendu peut-être ; qui sait s’il remontera jamais de sa nuit ? Dix fois il me faut recommencer, me pencher vers lui. Et chaque fois la lâcheté qui nous détourne de toute tâche difficile, de toute œuvre importante, m’a conseillé de laisser cela, de boire mon thé en pensant simplement à mes ennuis d’aujourd’hui, à mes désirs de demain qui se laissent remâcher sans peine.

Et tout d’un coup le souvenir m’est apparu. Ce goût, c’était celui du petit morceau de madeleine que le dimanche matin à Combray (parce que ce jour-là je ne sortais pas avant l’heure de la messe), quand j’allais lui dire bonjour dans sa chambre, ma tante Léonie m’offrait après l’avoir trempé dans son infusion de thé ou de tilleul. La vue de la petite madeleine ne m’avait rien rappelé avant que je n’y eusse goûté ; peut-être parce que, en ayant souvent aperçu depuis, sans en manger, sur les tablettes des pâtissiers, leur image avait quitté ces jours de Combray pour se lier à d’autres plus récents ; peut-être parce que, de ces souvenirs abandonnés si longtemps hors de la mémoire, rien ne survivait, tout s’était désagrégé ; les formes — et celle aussi du petit coquillage de pâtisserie, si grassement sensuel sous son plissage sévère et dévot — s’étaient abolies, ou, ensommeillées, avaient perdu la force d’expansion qui leur eût permis de rejoindre la conscience. Mais, quand d’un passé ancien rien ne subsiste, après la mort des êtres, après la destruction des choses, seules, plus frêles mais plus vivaces, plus immatérielles, plus persistantes, plus fidèles, l’odeur et la saveur restent encore longtemps, comme des âmes, à se rappeler, à attendre, à espérer, sur la ruine de tout le reste, à porter sans fléchir, sur leur gouttelette presque impalpable, l’édifice immense du souvenir.

Et dès que j’eus reconnu le goût du morceau de madeleine trempé dans le tilleul que me donnait ma tante (quoique je ne susse pas encore et dusse remettre à bien plus tard de découvrir pourquoi ce souvenir me rendait si heureux), aussitôt la vieille maison grise sur la rue, où était sa chambre, vint comme un décor de théâtre s’appliquer au petit pavillon donnant sur le jardin, qu’on avait construit pour mes parents sur ses derrières (ce pan tronqué que seul j’avais revu jusque-là) ; et avec la maison, la ville, la Place où on m’envoyait avant déjeuner, les rues où j’allais faire des courses depuis le matin jusqu’au soir et par tous les temps, les chemins qu’on prenait si le temps était beau. Et comme dans ce jeu où les Japonais s’amusent à tremper dans un bol de porcelaine rempli d’eau de petits morceaux de papier jusque-là indistincts qui, à peine y sont-ils plongés s’étirent, se contournent, se colorent, se différencient, deviennent des fleurs, des maisons, des personnages consistants et reconnaissables, de même maintenant toutes les fleurs de notre jardin et celles du parc de M. Swann, et les nymphéas de la Vivonne, et les bonnes gens du village et leurs petits logis et l’église et tout Combray et ses environs, tout cela qui prend forme et solidité, est sorti, ville et jardins, de ma tasse de thé.




Combray, de loin, à dix lieues à la ronde, vu du chemin de fer quand nous y arrivions la dernière semaine avant Pâques, ce n’était qu’une église résumant la ville, la représentant, parlant d’elle et pour elle aux lointains, et, quand on approchait, tenant serrés autour de sa haute mante sombre, en plein champ, contre le vent, comme une pastoure ses brebis, les dos laineux et gris des maisons rassemblées qu’un reste de remparts du moyen âge cernait çà et là d’un trait aussi parfaitement circulaire qu’une petite ville dans un tableau de primitif. À l’habiter, Combray était un peu triste, comme ses rues dont les maisons construites en pierres noirâtres du pays, précédées de degrés extérieurs, coiffées de pignons qui rabattaient l’ombre devant elles, étaient assez obscures pour qu’il fallût dès que le jour commençait à tomber relever les rideaux dans les « salles » ; des rues aux graves noms de saints (desquels plusieurs se rattachaient à l’histoire des premiers seigneurs de Combray) : rue Saint-Hilaire, rue Saint-Jacques où était la maison de ma tante, rue Sainte-Hildegarde, où donnait la grille, et rue du Saint-Esprit sur laquelle s’ouvrait la petite porte latérale de son jardin ; et ces rues de Combray existent dans une partie de ma mémoire si reculée, peintes de couleurs si différentes de celles qui maintenant revêtent pour moi le monde, qu’en vérité elles me paraissent toutes, et l’église qui les dominait sur la Place, plus irréelles encore que les projections de la lanterne magique ; et qu’à certains moments, il me semble que pouvoir encore traverser la rue Saint-Hilaire, pouvoir louer une chambre rue de l’Oiseau — à la vieille hôtellerie de l’Oiseau Fle