名門校出身のすべてのプロ野球選手を一覧にして表すシリーズの第3弾は、
大阪府の大阪桐蔭高校です。
甲子園に春夏合わせて20回出場にして、優勝8回。
特にここ数年は必ず上位に進出するなど、現在の高校球界を代表する強豪校です。
プロにも、多くの選手を輩出しています。
大阪産業大学高等学校の大東校舎として1983年にスタートした同校の歴史。
88年に「大阪桐蔭高等学校」として分離独立すると、
以降は野球部強化に本格的に取り組んでいきます。
1991年のセンバツに初出場すると、いきなりベスト8に進出。
その年の夏の選手権では、初出場初優勝の快挙を成し遂げました。
大阪桐蔭としての事実上のプロ第1号は、今中慎二と桐山明佳のバッテリー。
3年生時に校名が変わりました。今中はのちに、球界を代表するサウスポーとなっています。
91年夏、大阪桐蔭は夏の甲子園で初出場初優勝を達成。
その原動力となった主砲・萩原誠は地元・阪神に進むも活躍はできませんでした。
92年から01年までの10年間、大阪桐蔭は甲子園から遠ざかり危うく「一発屋」になりかけますが、
その間も大阪大会では上位進出の常連となり、プロ選手も多数輩出しています。
94年度卒の川井貴志はロッテ時代はセットアッパー、
楽天では谷間の先発と、40歳まで細く長く現役を続けています。
95年度卒の森本学は主に内野の守備固めとして起用されていました。
01年の夏の大阪大会で、大阪桐蔭は10年ぶりに決勝へ。
惜しくも準優勝に終わりますが、主砲の中村剛也は一発長打が魅力のスラッガーとして、西武の4番に定着。
「おかわり君」の異名を頂戴し、19年までに6度の本塁打王に輝いています。
同期の岩田稔は先発ローテの一角に加わり、
08年には10勝をマーク。その後も7勝以上を5度記録するなど安定した成績を残しています。
02年、大阪桐蔭は11年ぶりに甲子園の大舞台に帰ってきます。
そのときの主砲・西岡剛はロッテで早くから遊撃のレギュラーに定着。チームの中心選手として活躍しました。
その後はメジャーを経て、阪神でもプレーしています。
05年夏、甲子園でベスト4と久々に上位に進出した大阪桐蔭。
5本塁打を放った強打者・平田良介はプロでは攻守に安定したプレーを見せてチームに貢献。
現在も主力選手としてチームに貢献しています。
次回は後編です。
大阪府の大阪桐蔭高校です。
甲子園に春夏合わせて20回出場にして、優勝8回。
特にここ数年は必ず上位に進出するなど、現在の高校球界を代表する強豪校です。
プロにも、多くの選手を輩出しています。
大阪産業大学高等学校の大東校舎として1983年にスタートした同校の歴史。
88年に「大阪桐蔭高等学校」として分離独立すると、
以降は野球部強化に本格的に取り組んでいきます。
1991年のセンバツに初出場すると、いきなりベスト8に進出。
その年の夏の選手権では、初出場初優勝の快挙を成し遂げました。
大阪桐蔭としての事実上のプロ第1号は、今中慎二と桐山明佳のバッテリー。
3年生時に校名が変わりました。今中はのちに、球界を代表するサウスポーとなっています。
91年夏、大阪桐蔭は夏の甲子園で初出場初優勝を達成。
その原動力となった主砲・萩原誠は地元・阪神に進むも活躍はできませんでした。
92年から01年までの10年間、大阪桐蔭は甲子園から遠ざかり危うく「一発屋」になりかけますが、
その間も大阪大会では上位進出の常連となり、プロ選手も多数輩出しています。
94年度卒の川井貴志はロッテ時代はセットアッパー、
楽天では谷間の先発と、40歳まで細く長く現役を続けています。
95年度卒の森本学は主に内野の守備固めとして起用されていました。
01年の夏の大阪大会で、大阪桐蔭は10年ぶりに決勝へ。
惜しくも準優勝に終わりますが、主砲の中村剛也は一発長打が魅力のスラッガーとして、西武の4番に定着。
「おかわり君」の異名を頂戴し、19年までに6度の本塁打王に輝いています。
同期の岩田稔は先発ローテの一角に加わり、
08年には10勝をマーク。その後も7勝以上を5度記録するなど安定した成績を残しています。
02年、大阪桐蔭は11年ぶりに甲子園の大舞台に帰ってきます。
そのときの主砲・西岡剛はロッテで早くから遊撃のレギュラーに定着。チームの中心選手として活躍しました。
その後はメジャーを経て、阪神でもプレーしています。
05年夏、甲子園でベスト4と久々に上位に進出した大阪桐蔭。
5本塁打を放った強打者・平田良介はプロでは攻守に安定したプレーを見せてチームに貢献。
現在も主力選手としてチームに貢献しています。
次回は後編です。