今回は産業対抗野球大会史の2回目、第5回(1955年)~8回(1958年)大会です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/f4/7fcf23401405a847df55f58a49a9075a.jpg)
金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。
第5回は1955年11月19日から28日まで行われました。
晩秋の開催ながら好天に恵まれ、それなりに盛り上がっていたようです。
優勝候補や名門チームが次々に敗れるなど、波乱含みの大会を制したのは
決勝戦で7回裏に4点差をひっくり返す大逆転劇を見せたトキコ
(自動車部品メーカー、東京機器工業)でした。
第6回は1956年11月17日から28日まで開催されました。
今大会より専売部門が官業公社部門に吸収される一方、電信電話部門が独立しています。
日本選手団が大活躍したメルボルン五輪と被ったこと、
またこの時期としてはかなり厳しい冷え込みとなったため、盛況とはいかなかったようです。
第4回までの覇者は翌年になぜかつまづいてしまい、
「2回は優勝できない」とささやかれていた産業対抗ですが、
第3回王者の熊谷組がジンクスを打ち破り、3年ぶりに覇者となりました。
第7回は1957年11月9日から19日まで開催。
化学工業部門とゴム皮革部門が再び統合。また映画演劇レコード部門が消滅し、22部門体制となります。
この時期としては異例の暖かな日が続いたこともあり、「大会始まって以来」の盛況となった今大会。
新鋭同士の決勝となりましたが、倉敷レイヨン(現・クラレ)を下した丸善石油(愛媛県松山市)が初優勝を成し遂げます。
なお、四国のチームが全国規模の大会で優勝するのは、これが初めてとなりました。
第8回は1958年10月28日から11月5日にかけて開催されました。
優勝したのは、安定した投手陣をバックに着実に勝ち上がった日鉄二瀬(日鉄鉱業二瀬鉱業所)です。
決勝では好投手・北川芳男を擁するニッポンビール(現・サッポロビール)を、1対0の僅差で下しました。
次回は1958年当時の参加チームをご紹介します。
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金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。
第5回は1955年11月19日から28日まで行われました。
晩秋の開催ながら好天に恵まれ、それなりに盛り上がっていたようです。
優勝候補や名門チームが次々に敗れるなど、波乱含みの大会を制したのは
決勝戦で7回裏に4点差をひっくり返す大逆転劇を見せたトキコ
(自動車部品メーカー、東京機器工業)でした。
第6回は1956年11月17日から28日まで開催されました。
今大会より専売部門が官業公社部門に吸収される一方、電信電話部門が独立しています。
日本選手団が大活躍したメルボルン五輪と被ったこと、
またこの時期としてはかなり厳しい冷え込みとなったため、盛況とはいかなかったようです。
第4回までの覇者は翌年になぜかつまづいてしまい、
「2回は優勝できない」とささやかれていた産業対抗ですが、
第3回王者の熊谷組がジンクスを打ち破り、3年ぶりに覇者となりました。
第7回は1957年11月9日から19日まで開催。
化学工業部門とゴム皮革部門が再び統合。また映画演劇レコード部門が消滅し、22部門体制となります。
この時期としては異例の暖かな日が続いたこともあり、「大会始まって以来」の盛況となった今大会。
新鋭同士の決勝となりましたが、倉敷レイヨン(現・クラレ)を下した丸善石油(愛媛県松山市)が初優勝を成し遂げます。
なお、四国のチームが全国規模の大会で優勝するのは、これが初めてとなりました。
第8回は1958年10月28日から11月5日にかけて開催されました。
優勝したのは、安定した投手陣をバックに着実に勝ち上がった日鉄二瀬(日鉄鉱業二瀬鉱業所)です。
決勝では好投手・北川芳男を擁するニッポンビール(現・サッポロビール)を、1対0の僅差で下しました。
次回は1958年当時の参加チームをご紹介します。