産業対抗野球の歴史を探るシリーズの第6回は、少々趣向を変えて
第1回から23回までの各大会のタイトル受賞者(最高殊勲選手、敢闘賞、首位打者)を紹介します。
その大会でチームを優勝に導く活躍を見せた最高殊勲選手の受賞者を見ると、
北川桂太郎(セネタース、東急など)、久保吾一(国鉄)、大原博志(大阪=現・阪神)らのように
戦後にプロのチームに在籍しながら、その後社会人球界に転身してきた選手たちが目立ちます。
北川は、のちにプロに復帰(高橋)しています。
池田英俊はその後に広島入り。エース格としてチームを支えたほか、コーチとして多くの投手を育てています。
藤原真は69年にドラフト1位でサンケイ(ヤクルト)入り。のちに日本ハムなどでマウンドに立ちました。
小田義人はヤクルトを経て、日本ハムでは主力打者として打棒をふるいました。
五月女豊は阪神、西武、大洋などでリリーバーとして活躍しています。
続いて敢闘賞。
最初の受賞者である本田有隆は、のちに取手二、常総学院のコーチとして木内幸雄監督を支え、全国制覇に貢献した人です。
木村由夫は戦前、巨人で1年間だけプレーしています。
2度にわたり敢闘賞を受賞した北川芳男は、プロ入りすると国鉄、巨人で二ケタ勝利をマークするなど活躍しました。
大工勝は高校卒業後に毎日に入団も活躍できず。社会人に転身後は、長く主力選手としてプレーしています。
武上四郎はのちにヤクルトに入団すると中心選手としてチームを引っ張り、のちに監督にも就任しました。
望月彦男は72年に29歳でプロ入り(西鉄)を果たすも、2年で引退。
2度受賞している田中章は69年に巨人入り。西鉄に移籍後の73年、74年には2年連続で二ケタ勝利を挙げました。
石山建一は後に早大、プリンスの監督としてチームを日本一に導いています。
会田照夫はヤクルトで中継ぎとして活躍しました。
井本隆は近鉄のエースとして79、80年の連覇に貢献。
久保田美郎は、のちに熊谷組の監督を務めています。
次回は第21回(1971年)から、最後となった23回(1973年)までの大会を振り返ります。
第1回から23回までの各大会のタイトル受賞者(最高殊勲選手、敢闘賞、首位打者)を紹介します。
その大会でチームを優勝に導く活躍を見せた最高殊勲選手の受賞者を見ると、
北川桂太郎(セネタース、東急など)、久保吾一(国鉄)、大原博志(大阪=現・阪神)らのように
戦後にプロのチームに在籍しながら、その後社会人球界に転身してきた選手たちが目立ちます。
北川は、のちにプロに復帰(高橋)しています。
池田英俊はその後に広島入り。エース格としてチームを支えたほか、コーチとして多くの投手を育てています。
藤原真は69年にドラフト1位でサンケイ(ヤクルト)入り。のちに日本ハムなどでマウンドに立ちました。
小田義人はヤクルトを経て、日本ハムでは主力打者として打棒をふるいました。
五月女豊は阪神、西武、大洋などでリリーバーとして活躍しています。
続いて敢闘賞。
最初の受賞者である本田有隆は、のちに取手二、常総学院のコーチとして木内幸雄監督を支え、全国制覇に貢献した人です。
木村由夫は戦前、巨人で1年間だけプレーしています。
2度にわたり敢闘賞を受賞した北川芳男は、プロ入りすると国鉄、巨人で二ケタ勝利をマークするなど活躍しました。
大工勝は高校卒業後に毎日に入団も活躍できず。社会人に転身後は、長く主力選手としてプレーしています。
武上四郎はのちにヤクルトに入団すると中心選手としてチームを引っ張り、のちに監督にも就任しました。
望月彦男は72年に29歳でプロ入り(西鉄)を果たすも、2年で引退。
2度受賞している田中章は69年に巨人入り。西鉄に移籍後の73年、74年には2年連続で二ケタ勝利を挙げました。
石山建一は後に早大、プリンスの監督としてチームを日本一に導いています。
会田照夫はヤクルトで中継ぎとして活躍しました。
井本隆は近鉄のエースとして79、80年の連覇に貢献。
久保田美郎は、のちに熊谷組の監督を務めています。
次回は第21回(1971年)から、最後となった23回(1973年)までの大会を振り返ります。
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