産業対抗野球大会の歴史を探るシリーズ第6回は、
第17回大会(1967年)から第20回(1970年)大会までを見ていきます。
金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。
第17回は1967年11月1日にスタート。優勝したのは自動車部門の日産自動車でした。
エース・斎藤征夫が準々決勝、準決勝と連投となりながら連続で完封し、27イニング無失点の活躍を見せています。
さらに決勝ではこの年の都市対抗で、本田技研の初出場の原動力となった補強の河本昭人が日通を1失点に抑える好投。
投手力にモノをいわせて、初の黒鷲旗を手中にしています。
第18回は1968年10月29日に開幕。全鐘紡が2度目の優勝を果たしました。
立役者となったのは5試合中4試合で完投したエース・藤原真投手。
準々決勝では2回戦で大会史上初のノーヒットノーランをマークした日本石油・三浦健二に投げ勝つと、
決勝では田中章、金田留弘とのちにプロ入りする2投手を擁した日本通運浦和に3対1で勝利しています。
日通は2年連続で準優勝となり、エース・田中も連続での敢闘賞受賞となりました。
なお、全鐘紡は翌年1月に解散。都市対抗を4度制覇した名門チームの最後の晴れ舞台となっています。
第19回は1969年11月2日に開幕。
部門で唯一残っていた全鐘紡の解散により、綿紡績部門が消滅。21チームによって優勝が争われました。
黒鷲旗を勝ち取ったのは北海道拓殖銀行で、全国規模の大会で北海道のチームが優勝したのはこれが初めて。
この5年後には大昭和製紙北海道が都市対抗を制覇しています。
最高殊勲選手賞を獲得した小弓場保(65年の都市対抗で橋戸賞受賞)や加島和彦ら、
日本生命からの補強組の活躍が拓銀Vをサポートしました。
節目の第20回大会は1970年11月6日にスタート。八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日本製鐵が誕生して初参加しました。
また王子製紙が大昭和の強大な壁を打ち破ったほか、相模原市役所が嬉しい初出場を果たしています。
この時期としては珍しく暖かい日が続く中、優勝に輝いたのは13年ぶり2度目となる丸善石油でした。
準決勝で新日鉄を下すと、三協精機との決勝では日本石油から補強の秋元国武がサヨナラ2ランを放つ、劇的な幕切れとなっています。
次回は歴代の三賞受賞者(最高殊勲選手、敢闘賞、首位打者賞)をご紹介します。
第17回大会(1967年)から第20回(1970年)大会までを見ていきます。
金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。
第17回は1967年11月1日にスタート。優勝したのは自動車部門の日産自動車でした。
エース・斎藤征夫が準々決勝、準決勝と連投となりながら連続で完封し、27イニング無失点の活躍を見せています。
さらに決勝ではこの年の都市対抗で、本田技研の初出場の原動力となった補強の河本昭人が日通を1失点に抑える好投。
投手力にモノをいわせて、初の黒鷲旗を手中にしています。
第18回は1968年10月29日に開幕。全鐘紡が2度目の優勝を果たしました。
立役者となったのは5試合中4試合で完投したエース・藤原真投手。
準々決勝では2回戦で大会史上初のノーヒットノーランをマークした日本石油・三浦健二に投げ勝つと、
決勝では田中章、金田留弘とのちにプロ入りする2投手を擁した日本通運浦和に3対1で勝利しています。
日通は2年連続で準優勝となり、エース・田中も連続での敢闘賞受賞となりました。
なお、全鐘紡は翌年1月に解散。都市対抗を4度制覇した名門チームの最後の晴れ舞台となっています。
第19回は1969年11月2日に開幕。
部門で唯一残っていた全鐘紡の解散により、綿紡績部門が消滅。21チームによって優勝が争われました。
黒鷲旗を勝ち取ったのは北海道拓殖銀行で、全国規模の大会で北海道のチームが優勝したのはこれが初めて。
この5年後には大昭和製紙北海道が都市対抗を制覇しています。
最高殊勲選手賞を獲得した小弓場保(65年の都市対抗で橋戸賞受賞)や加島和彦ら、
日本生命からの補強組の活躍が拓銀Vをサポートしました。
節目の第20回大会は1970年11月6日にスタート。八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日本製鐵が誕生して初参加しました。
また王子製紙が大昭和の強大な壁を打ち破ったほか、相模原市役所が嬉しい初出場を果たしています。
この時期としては珍しく暖かい日が続く中、優勝に輝いたのは13年ぶり2度目となる丸善石油でした。
準決勝で新日鉄を下すと、三協精機との決勝では日本石油から補強の秋元国武がサヨナラ2ランを放つ、劇的な幕切れとなっています。
次回は歴代の三賞受賞者(最高殊勲選手、敢闘賞、首位打者賞)をご紹介します。
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