今回は1977年~80年です。
77年は3名。古屋は高校時代、秋・春、夏と決勝で銚子商に跳ね返された木更津中央のエース兼クリーンナップとして活躍。3年春にハワイ代表を迎え撃った千葉県選抜チームでは、4番(3番は掛布)を任されています。大学では途中から野手に専念。プロでは日本ハムの主砲として活躍し、85年には33本塁打をマークしました。野崎はこの年の夏の甲子園代表・千葉商のエースでしたが、プロでは登板ゼロ。荻原は高校時代は特筆した活躍を残していませんが、プロでは83年に17試合に登板しています。
78年は4名。森は76年のロッテ1位指名を拒否。入札制となった最初のドラフトで4球団から指名を受け、抽選で西武への入団が決まりました。高校時代(科学技術工高)は最後の夏は肩の故障もあり、本領を発揮できず。大学、社会人では名門チームで活躍し、プロでは先発、抑えとして西武黄金時代を支えました。武藤は我孫子の5番・エースとしてこの年の夏の甲子園初出場に貢献していますが、プロには進みませんでした。ドラフト外入団は2名で、このうち小川は3年夏に「1番・エース」として新興・浦安高のベスト4進出の立役者に。準々決勝ではセンバツに出場した印旛の好投手・菊池に投げ勝っています。プロではドラフト外入団ながら貴重な守備固めとして長く活躍。コーチやフロントとしても手腕をふるっています。
79年は指名1名、ドラフト外5名。ただし銚子はプロ入りは拒否して法大に進んでいます。山岡はエースとして2年秋にチームのベスト4進出に貢献。あと1勝で関東大会進出という快挙を見せました。プロでは長嶋茂雄監督の高校の後輩として期待されましたが、勝ち星は挙げられず。高浦は70年のセンバツで正捕手としてチームのベスト8進出を支えています。大学、社会人では名門チームでレギュラーとして活躍し、プロでは控え捕手、コーチ、フロントと縁の下の力持ちとしてチームに貢献しました。板沢は3番、仲野は4番として前年夏の甲子園代表・我孫子の主力としてプレー。板沢は1年目からファームで積極的に起用されましたが、オフに惜しくも急逝。仲野は引退後、パ・リーグの職員となり18年に亡くなるまで統括を任されています。
80年は2名。石毛は74年、全国制覇の銚子商をあと一歩まで追い詰めた市銚子の切り込み隊長。大学、社会人と強豪チームで主力として活躍し、鳴り物入りでのプロ入りでした。西武黄金時代のチームリーダーを担い、のちにオリックスで監督も務めています。森は千葉商でエース兼クリーンナップ。春は関東大会に進出しましたが、最後の夏はベスト8。プロでは一軍には上がれませんでした。余談ですが20数年前、父親が千葉の某病院に入院したとき、隣のベッドに入っていた大柄な男性が森氏でした。名前ですぐにわかりました。私は話す機会はありませんでしたが、父には「阪神で野球をやっていた」と口にしていたそうで、間違いないでしょう。のちにプロ野球選手会の事務局長として名前が出てきたときには、ビックリしましたね。
77年は3名。古屋は高校時代、秋・春、夏と決勝で銚子商に跳ね返された木更津中央のエース兼クリーンナップとして活躍。3年春にハワイ代表を迎え撃った千葉県選抜チームでは、4番(3番は掛布)を任されています。大学では途中から野手に専念。プロでは日本ハムの主砲として活躍し、85年には33本塁打をマークしました。野崎はこの年の夏の甲子園代表・千葉商のエースでしたが、プロでは登板ゼロ。荻原は高校時代は特筆した活躍を残していませんが、プロでは83年に17試合に登板しています。
78年は4名。森は76年のロッテ1位指名を拒否。入札制となった最初のドラフトで4球団から指名を受け、抽選で西武への入団が決まりました。高校時代(科学技術工高)は最後の夏は肩の故障もあり、本領を発揮できず。大学、社会人では名門チームで活躍し、プロでは先発、抑えとして西武黄金時代を支えました。武藤は我孫子の5番・エースとしてこの年の夏の甲子園初出場に貢献していますが、プロには進みませんでした。ドラフト外入団は2名で、このうち小川は3年夏に「1番・エース」として新興・浦安高のベスト4進出の立役者に。準々決勝ではセンバツに出場した印旛の好投手・菊池に投げ勝っています。プロではドラフト外入団ながら貴重な守備固めとして長く活躍。コーチやフロントとしても手腕をふるっています。
79年は指名1名、ドラフト外5名。ただし銚子はプロ入りは拒否して法大に進んでいます。山岡はエースとして2年秋にチームのベスト4進出に貢献。あと1勝で関東大会進出という快挙を見せました。プロでは長嶋茂雄監督の高校の後輩として期待されましたが、勝ち星は挙げられず。高浦は70年のセンバツで正捕手としてチームのベスト8進出を支えています。大学、社会人では名門チームでレギュラーとして活躍し、プロでは控え捕手、コーチ、フロントと縁の下の力持ちとしてチームに貢献しました。板沢は3番、仲野は4番として前年夏の甲子園代表・我孫子の主力としてプレー。板沢は1年目からファームで積極的に起用されましたが、オフに惜しくも急逝。仲野は引退後、パ・リーグの職員となり18年に亡くなるまで統括を任されています。
80年は2名。石毛は74年、全国制覇の銚子商をあと一歩まで追い詰めた市銚子の切り込み隊長。大学、社会人と強豪チームで主力として活躍し、鳴り物入りでのプロ入りでした。西武黄金時代のチームリーダーを担い、のちにオリックスで監督も務めています。森は千葉商でエース兼クリーンナップ。春は関東大会に進出しましたが、最後の夏はベスト8。プロでは一軍には上がれませんでした。余談ですが20数年前、父親が千葉の某病院に入院したとき、隣のベッドに入っていた大柄な男性が森氏でした。名前ですぐにわかりました。私は話す機会はありませんでしたが、父には「阪神で野球をやっていた」と口にしていたそうで、間違いないでしょう。のちにプロ野球選手会の事務局長として名前が出てきたときには、ビックリしましたね。
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