過去の春季高校野球関東大会における、千葉県勢の成績を紹介するシリーズの第5弾。
今回は1976年~1980年となります。
対戦校の都県の横にある数字は、その地区の順位です。黄色は優勝、銅色はベスト4を表します。
甲子園2連覇の栄光から一転、77年から86年までの10年間、千葉県勢は夏の甲子園で
わずか3勝しか挙げられませんでした。
79年には、68年から78年まで11年続いていた、
センバツの連続出場記録も途絶えてしまいます。
同時期、68年から78年までの関東勢のセンバツ出場回数を数えると、
茨城4、栃木5、群馬2、埼玉2、神奈川5、山梨はゼロ。
関東の中で、千葉県勢の実力が突出していたかが分かりますね。
それだけに、寂しが感じられます。
そんな「暗黒時代」を招いた理由を考えてみます。
まず、参加校が激増したこと。
77年に103校と3ケタに乗りましたが、79年は124校、80年には132校、
81年には140校、83年には151校…とすさまじい勢いで増えていきます。
また、もともと野球が盛んな地域です。
公立、私立に関係なく、さまざまな高校が野球に力を入れたことにより、
有力な中学生が分散してしまったこともあるでしょう。
春の関東大会だけを見ても、76年から80年についてだけでも
四街道、我孫子、東海大浦安、君津商と初出場のチームが続出。
特に東海大浦安は76年に初参加したばかりで、急激に力をつけたことが分かります。
さて、76年から78年までは1勝が最高だった千葉県勢ですが、
79年は銚子商が優勝、80年は習志野が準優勝と古豪が奮起。
銚子商は準決勝で高橋一彦(日本石油→大洋→西武)、
小川博(青学大→ロッテ)と、のちにプロに進んだ選手を擁した前橋工、
決勝では好投手・仁村徹(東洋大→中日→ロッテ)有する上尾に快勝。
習志野も5年ぶりの出場で、エース・小林徹(現・習志野監督)の好投もありベスト4進出。
この年の夏の甲子園出場へと弾みをつけています。
今回は1976年~1980年となります。
対戦校の都県の横にある数字は、その地区の順位です。黄色は優勝、銅色はベスト4を表します。
甲子園2連覇の栄光から一転、77年から86年までの10年間、千葉県勢は夏の甲子園で
わずか3勝しか挙げられませんでした。
79年には、68年から78年まで11年続いていた、
センバツの連続出場記録も途絶えてしまいます。
同時期、68年から78年までの関東勢のセンバツ出場回数を数えると、
茨城4、栃木5、群馬2、埼玉2、神奈川5、山梨はゼロ。
関東の中で、千葉県勢の実力が突出していたかが分かりますね。
それだけに、寂しが感じられます。
そんな「暗黒時代」を招いた理由を考えてみます。
まず、参加校が激増したこと。
77年に103校と3ケタに乗りましたが、79年は124校、80年には132校、
81年には140校、83年には151校…とすさまじい勢いで増えていきます。
また、もともと野球が盛んな地域です。
公立、私立に関係なく、さまざまな高校が野球に力を入れたことにより、
有力な中学生が分散してしまったこともあるでしょう。
春の関東大会だけを見ても、76年から80年についてだけでも
四街道、我孫子、東海大浦安、君津商と初出場のチームが続出。
特に東海大浦安は76年に初参加したばかりで、急激に力をつけたことが分かります。
さて、76年から78年までは1勝が最高だった千葉県勢ですが、
79年は銚子商が優勝、80年は習志野が準優勝と古豪が奮起。
銚子商は準決勝で高橋一彦(日本石油→大洋→西武)、
小川博(青学大→ロッテ)と、のちにプロに進んだ選手を擁した前橋工、
決勝では好投手・仁村徹(東洋大→中日→ロッテ)有する上尾に快勝。
習志野も5年ぶりの出場で、エース・小林徹(現・習志野監督)の好投もありベスト4進出。
この年の夏の甲子園出場へと弾みをつけています。
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