名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

ひっぱりだこ飯

2017年02月18日 00時19分07秒 | 日記

神戸に「淡路屋」というお弁当屋さんがあります。

会社の沿革については、『淡路屋』のサイトに紹介があります。所謂(いわゆる)百年企業ですね。

 かつて、淡路屋は、JR福知山線の生瀬駅で弁当を売っていました。当時、西宮名塩駅はなく、教行寺の最寄り駅が、この生瀬駅でした。蒸気機関車の時代、生瀬駅は水の補給で長時間停車することが多く、また、有馬温泉の最寄り駅でもあったので、弁当がよく売れたそうです。昭和6年生まれの老母は、三田の高等女学校に通うのに、毎日、生瀬まで歩いていたので、淡路屋のことをよく覚えています。戦後、淡路屋は神戸に去りましたが、私が若い頃は、まだ、JR宝塚駅で弁当を販売していましたから、役員の弁当としてまとめ買いをしたこともあります。そういう縁もあって、淡路屋は、教行寺にとって馴染みのある名前です。

 その淡路屋が、明石海峡大橋開通を記念して売り出したのが、ひっぱりだこ飯です。

 先日、知り合いのキリスト教の牧師さんが、京都駅で「ひっぱりだこ飯」を買ったとFacebookに書き込んでいたので、私も購入することにしました。

 そこで見つけたのが、「金色のひっぱりだこ飯」です。

ひっぱりだこ飯の累計生産1000万個突破記念弁当なのだそうです。

 写真中央の「姫路城弁当」は姫路の「まねき食品」製なのですが、同社のサイトには、掲載されていません。

 このたこつぼの器は、東の「峠の釜めし」の器と並ぶ傑作だと思います。淡路屋は、こういう器にもこだわる弁当屋さんで、エバンゲリオンと500系新幹線のコラボ弁当や、「豚々拍子」という神戸南京町(中華街)をイメージした中華風の弁当を、豚の器に入れて販売してきました。持ち帰るには荷物になりますが、こういう器も旅のお土産には悪くないでしょう。

 


翁長知事はカツラか

2017年02月15日 18時33分33秒 | 日記

 沖縄の基地問題に関連するニュースには、時々、沖縄県知事の翁長武志氏が登場します。それを観ていて、ふと感じた、「翁長知事はカツラを被っているのではないか」という疑問。そこで、早速、Googleで検索してみました。検索語は、「翁長知事 カツラ」。結果、約 42,600 件がヒットしました。私だけが抱く疑問ではなかったようです。

 そうなると、次の疑問が湧いてきます。すなわち、なぜ、バレバレなのにカツラを被るのか? 翁長知事は1950年生まれ。1953年生まれの私でも禿げてきているのですから、別に禿げていても不思議のない年齢です。若くして薄毛になった人、病気や薬の副作用で毛が抜けた人ならともかく、65歳を過ぎて禿げているのは、悪いことでもおかしなことでもないでしょうに。

 しかも、反翁長陣営の人に、無用のいじりネタを提供しています。例えば、以下のような画像が、ネット上にあります。

 ここまでコケにされてもカツラを被る必要があるのでしょうか。

 私の友人に話したら、彼は、翁長知事がテレビで話をしているときに、「でも、あんた、カツラだろ?」とツッコミを入れながら観るのだそうです。そうすると、あら不思議、知事の言葉の説得力が、たちどころに萎んでしまうのだとか。

 古くは、ユル・ブリンナー、「刑事コジャック」のテリーサラバス、ジーンハックマンにショーンコネリー、「ダイハード」のブルースウィルス、「トランスポーター」のジェイソン・ステイサム等々。禿げていても素敵な俳優は大勢います。最近では、ジュード・ロウも仲間入りの気配です。アマゾンのジェフリー・ペゾス、アップルのスティーブン・ジョブズ、ソフトバンクの孫正義など、名だたる経営者の中にも、正々堂々と薄毛のまま勝負している人がいます。

 翁長知事も、ありのままに振る舞えば、それで良いのだと思いますがね。

 最後に、禿といえば忘れてならないのが、浄土真宗の開祖親鸞聖人です。

 これが親鸞聖人の木像。

 聖人は、自らを愚禿(愚かなはげ頭の人間)と称されました。聖人が35歳の時に、越後(えちご)に流されたのを契機に、以後、自身をそのように呼称されたといわれています。

 哲学者の西田幾多郎は、以下のような文章を残しています。

 余は真宗の家に生れ、余の母は真宗の信者であるに拘(かかわ)らず、余自身は真宗の信者でもなければ、また真宗について多く知るものでもない。ただ上人(しょうにん)が在世の時自ら愚禿(ぐとく)と称しこの二字に重きを置かれたという話から、余の知る所を以て推すと、愚禿の二字は能(よ)く上人の為人(ひととなり)を表すと共に、真宗の教義を標榜し、兼て宗教その者の本質を示すものではなかろうか。人間には智者もあり、愚者もあり、徳者もあり、不徳者もある。しかしいかに大なるとも人間の智は人間の智であり、人間の徳は人間の徳である。三角形の辺はいかに長くとも総べての角の和が二直角に等しというには何の変りもなかろう。ただ翻身(ほんしん)一回、此(この)智、此(この)徳を捨てた所に、新な智を得、新な徳を具(そな)え、新な生命に入ることができるのである。これが宗教の真髄である。宗教の事は世のいわゆる学問知識と何ら交渉もない。コペルニカスの地動説が真理であろうが、トレミーの天動説が真理であろうが、そういうことは何方(どちら)でもよい。徳行の点から見ても、宗教は自ら徳行を伴い来るものであろうが、また必ずしもこの両者を同一視することはできぬ。昔、融禅師(ゆうぜんじ)がまだ牛頭山(ごずさん)の北巌に棲(す)んでいた時には、色々の鳥が花を啣(ふく)んで供養(くよう)したが、四祖大師(しそだいし)に参じてから鳥が花を啣んで来なくなったという話を聞いたことがある。宗教の智は智その者を知り、宗教の徳は徳その者を用いるのである。三角形の幾何学的性質を究めるには紙上の一小三角形で沢山であるように、心霊上の事実に対しては英雄豪傑も匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)と同一である。ただ眼は眼を見ることはできず、山にある者は山の全体を知ることはできぬ。此(この)智此(この)徳の間に頭出頭没する者は此(この)智此(この)徳を知ることはできぬ。何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖(けんがい)に手を撒(さっ)して絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以(ゆえん)を味い得たもののみこれを知ることができるのである。上人の愚禿はかくの如き意味の愚禿ではなかろうか。他力といわず、自力といわず、一切の宗教はこの愚禿の二字を味うに外ならぬのである。

 しかし右のようにいえば、愚禿の二字は独り真宗に限った訳でもないようであるが、真宗は特にこの方面に着目した宗教である、愚人、悪人を正因(しょういん)とした宗教である。同じく愛を主とした他力宗であっても、猶太(ユダヤ)教から出た基督(キリスト)教はなお、正義の観念が強く、いくらか罪を責むるという趣があるが、真宗はこれと違い絶対的愛、絶対的他力の宗教である。例の放蕩息子を迎えた父のように、いかなる愚人、いかなる罪人に対しても弥陀(みだ)はただ汝のために我は粉骨砕身せりといって、これを迎えられるのが真宗の本旨である。『歎異抄』の中に上人が「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」といわれたのがその極意を示したものであろう。終りに宗祖その人の人格について見ても、かの日蓮上人が意気冲天(ちゅうてん)、他宗を罵倒し、北条氏を目して、小島の主らが云々と壮語せしに比べて、吉水一門の奇禍に連(つらな)り北国の隅に流されながら、もし我(われ)配所に赴かずんば何によりてか辺鄙の群類を化せんといって、法を見て人を見なかった親鸞上人の人格は頗る趣を異にしたものといわねばならぬ。風号(さけ)び雲走り、怒濤澎湃(どとうほうはい)の間に立ちて、動かざること巌(いわお)の如き日蓮上人の意気は、壮なることは壮であるが、煙波渺茫(びょうぼう)<遠くはるかなさま。広く果てしないさま>、風静(しずか)に波動かざる親鸞上人の胸懐はまた何となく奥床(おくゆか)しいではないか。

(『宗祖観』大谷学士会発行、明治四十四年四月、第一巻)
 
からお借りしました。

知識帰命の異安心

2017年02月13日 22時21分46秒 | 昔の記事

 浄土真宗には、「知識帰命の異安心(ちしききみょうのいあんじん)」という言葉がある。知識というのは指導者、帰命というのは帰依すること、誤った真宗教義を異安心(いあんじん)と呼ぶ。つまり、「知識帰命の異安心」とは、阿弥陀仏ではなく、指導者に帰依することを求める誤った教義という意味である。

 知識帰命の異安心は、すでに、親鸞の弟子である唯円が著した歎異抄(たんにしょう)なる書物にも記述されている。歎異抄とは、その名の通り、真宗教義の異(誤り)を嘆くという意味である。我々、後代の者は、親鸞を開祖と仰ぐが、親鸞自身は、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。(歎異抄 六)。」と、自らに帰依することを嫌った。

 特定の指導者への帰依を過度に強調することは、浄土真宗に限らず、あらゆる宗教が陥りやすい誤りである。生身の人間は、生身の人間ゆえに、過ちを犯す。なればこそ、真の宗教指導者たるもの、自らへの過度の帰依が危険であることを、承知せぬはずがない。言い換えれば、自らへの過度の帰依が危険であると語らぬ指導者は、怪しいと考えて良い。

 仏教は、釈尊(お釈迦様)への帰依を基本とするが、釈尊自身は、「私の悟った法は、過去にも、悟る者があったし、未来にも、悟る者があるだろう」と、語っている。仏伝は、釈尊が産まれたとき、天地を指差して、「天上天下唯我独尊」と語ったと言う。しかし、同時に、釈尊は、最後の旅で、弟子を相手に、「私は、四十年間、善なるものを求め続けてきた」とも語っている。そして、末期の説法では、「自らを灯火(ともしび)として生きよ。法を灯火として活きよ」と、弟子達に言い残している。

 ここで、今日、マスコミを賑わしている新興宗教を思い出すが良い。
  統一協会     文鮮明
  オウム真理教  麻原彰晃
  法の華三法行  福永法源
などは、皆、異常なまでに、代表者への帰依を求める。文鮮明は、汚れなき神の子であると自称し、麻原彰晃は、自らを唯一人の最終解脱者と称した。福永法源は、自分だけが、天の声を伝え得る者だという。
 坊主の我田引水を覚悟で言えば、彼等は、皆、自分の能力を吹聴し、自分への帰依を強要する点で、釈尊や親鸞より、卑しく浅ましい。知識帰命を強調する宗教は、やはり、怪しいのである。

 この点、微妙なのが創価学会である。創価学会は、元来、日蓮正宗信者の任意団体であった。一般的に、仏教各派では、このような団体を、講と呼び慣わしてきた。浄土真宗にも、摂津十三日講など、講組織は存在する。
 よって、創価学会の会長は、日蓮正宗の一講の代表であり、講組織の運営については、一定の権限を有するが、それ以上の権限はなかった。しかるに、今日、創価学会は、日蓮正宗と袂を分ち、独自の道を歩み始めた。

 もとより、日蓮正宗と創価学会の泥仕合に興味はない。そのようなもの、表に出ぬだけで、本願寺教団で、いくらでも見られる(特にお東)。問題は、創価学会が、今後、池田大作教へ移行するか否かである。
 池田大作が、会長職を退いた今も、創価学会に対して多大の影響力を持つことは、学会外部から見ても明白である。しかも、池田大作の子供が、副会長の要職を務めている。もし、このまま、創価学会が、池田大作を宗教指導者とする団体に移行するなら、それは、創価学会が、知識帰命を強調する危険な宗教に変貌することを意味する。

 このように見てくれば、知識帰命の程度は、その宗教の健全性を推し量る尺度であると言えまいか。文鮮明は、ただのスケベオヤジであり、髭面の豚が空中に浮遊するはずがない。福永法源に至っては、私でも、明日から化けられる程度の教祖である。尤も、私なら、足の裏占いよりはオッパイ占いを提唱するだろうが。


清水トミカと空腹の科学

2017年02月13日 11時10分17秒 | 日記

清水トミカについては、全く知りません。能年玲奈と同じ芸能事務所に所属していたようなので、運営に問題があるのかもしれませんが、所詮は憶測です。

空腹の科学については、ここであれこれ書くと五月蠅(うるさ)い奴らがやってくるので、このネタは、法事の時の「法話の枕」にしようと思っています。

浄土真宗の法話は、

1) 御讃題:浄土真宗の聖典、例えば、浄土三部経、御文章、和讃などの短い引用

2) 御讃題の解説・解釈

3) 御讃題をテーマにした話

という構成にしろと、坊主になるときに教えられます。

私も、この構成で話をすることはできますが、自分でやっていて面白くないので、御讃題は省略することが多いですね。しかし、そうなると何から話し始めて良いのかを決めるのが大変なので、落語の最初に振られる「枕」、漫才の最初に振られる「つかみ」のような、本題に繋がる世間話から始めます。この「枕」や「つかみ」のネタとして利用してやろうという算段です。

 具体的には、

 空腹の科学と大川りゅーほーの恥ずかしい過去を紹介しながら、チクリチクリと私の陰険な性格丸出しの嫌味を入れて笑いを取る。ノストラダムスの大予言で、翻訳本の誤訳をそのまま霊言だと書いたこと、嫁と泥沼の離婚劇を繰り広げたこと、教団の内情を嫁にバラされたこと、この嫁が村上龍の愛人だったこと、当たらなかった予言、霊言のこと等々、話せることはいくらでもあります。

 次の展開としては、少し話をマトモな方へ誘導して、奇妙な教団名をネタにして、「ポスト真実」について話してみましょうかね。「ポスト真実」というのは、「post-truth」という言葉の翻訳語で、オックスフォード辞書が、2016年の言葉として選んだものです。日本の流行語大賞はクソですが、これは、なかなか含蓄のある言葉です。「ポスト」というのは、「何々の後、~の次」という意味ですから、「真実・事実を求めた時代の次に来る」くらいの意味でしょうか。

 英語圏では、英国のEU離脱、トランプ大統領の当選を機に、「ポスト真実」という言葉が多く使われるようになりました。日本でも、まとめサイトが、真偽不明のいい加減な情報を、さも真実であるかのように寄せ集めてサイト運営をし、いくつかの大手まとめサイトが閉鎖されました。こういう「真実・事実よりも自分が感情的に受け入れられることかどうかが優先される時代の風潮」を「ポスト真実」という言葉は表しています。

 最後、どこへ落とし込むかですが、素直に続ければ、「知識帰命の異安心」(阿弥陀仏に帰依するのではなく、指導者に帰依するという誤った教義)に向かうのが順当でしょう。しかし、それでは面白くないので、ひとひねりして、

 たとい大千世界に みてらん火をも 過ぎゆきて

 仏のみ名を聞く人は 長く不退にかなふなり

という和讃あたりかなと思っています。