沖縄の基地問題に関連するニュースには、時々、沖縄県知事の翁長武志氏が登場します。それを観ていて、ふと感じた、「翁長知事はカツラを被っているのではないか」という疑問。そこで、早速、Googleで検索してみました。検索語は、「翁長知事 カツラ」。結果、約 42,600 件がヒットしました。私だけが抱く疑問ではなかったようです。
そうなると、次の疑問が湧いてきます。すなわち、なぜ、バレバレなのにカツラを被るのか? 翁長知事は1950年生まれ。1953年生まれの私でも禿げてきているのですから、別に禿げていても不思議のない年齢です。若くして薄毛になった人、病気や薬の副作用で毛が抜けた人ならともかく、65歳を過ぎて禿げているのは、悪いことでもおかしなことでもないでしょうに。
しかも、反翁長陣営の人に、無用のいじりネタを提供しています。例えば、以下のような画像が、ネット上にあります。
ここまでコケにされてもカツラを被る必要があるのでしょうか。
私の友人に話したら、彼は、翁長知事がテレビで話をしているときに、「でも、あんた、カツラだろ?」とツッコミを入れながら観るのだそうです。そうすると、あら不思議、知事の言葉の説得力が、たちどころに萎んでしまうのだとか。
古くは、ユル・ブリンナー、「刑事コジャック」のテリーサラバス、ジーンハックマンにショーンコネリー、「ダイハード」のブルースウィルス、「トランスポーター」のジェイソン・ステイサム等々。禿げていても素敵な俳優は大勢います。最近では、ジュード・ロウも仲間入りの気配です。アマゾンのジェフリー・ペゾス、アップルのスティーブン・ジョブズ、ソフトバンクの孫正義など、名だたる経営者の中にも、正々堂々と薄毛のまま勝負している人がいます。
翁長知事も、ありのままに振る舞えば、それで良いのだと思いますがね。
最後に、禿といえば忘れてならないのが、浄土真宗の開祖親鸞聖人です。
これが親鸞聖人の木像。
聖人は、自らを愚禿(愚かなはげ頭の人間)と称されました。聖人が35歳の時に、越後(えちご)に流されたのを契機に、以後、自身をそのように呼称されたといわれています。
哲学者の西田幾多郎は、以下のような文章を残しています。
余は真宗の家に生れ、余の母は真宗の信者であるに拘(かかわ)らず、余自身は真宗の信者でもなければ、また真宗について多く知るものでもない。ただ上人(しょうにん)が在世の時自ら愚禿(ぐとく)と称しこの二字に重きを置かれたという話から、余の知る所を以て推すと、愚禿の二字は能(よ)く上人の為人(ひととなり)を表すと共に、真宗の教義を標榜し、兼て宗教その者の本質を示すものではなかろうか。人間には智者もあり、愚者もあり、徳者もあり、不徳者もある。しかしいかに大なるとも人間の智は人間の智であり、人間の徳は人間の徳である。三角形の辺はいかに長くとも総べての角の和が二直角に等しというには何の変りもなかろう。ただ翻身(ほんしん)一回、此(この)智、此(この)徳を捨てた所に、新な智を得、新な徳を具(そな)え、新な生命に入ることができるのである。これが宗教の真髄である。宗教の事は世のいわゆる学問知識と何ら交渉もない。コペルニカスの地動説が真理であろうが、トレミーの天動説が真理であろうが、そういうことは何方(どちら)でもよい。徳行の点から見ても、宗教は自ら徳行を伴い来るものであろうが、また必ずしもこの両者を同一視することはできぬ。昔、融禅師(ゆうぜんじ)がまだ牛頭山(ごずさん)の北巌に棲(す)んでいた時には、色々の鳥が花を啣(ふく)んで供養(くよう)したが、四祖大師(しそだいし)に参じてから鳥が花を啣んで来なくなったという話を聞いたことがある。宗教の智は智その者を知り、宗教の徳は徳その者を用いるのである。三角形の幾何学的性質を究めるには紙上の一小三角形で沢山であるように、心霊上の事実に対しては英雄豪傑も匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)と同一である。ただ眼は眼を見ることはできず、山にある者は山の全体を知ることはできぬ。此(この)智此(この)徳の間に頭出頭没する者は此(この)智此(この)徳を知ることはできぬ。何人であっても赤裸々たる自己の本体に立ち返り、一たび懸崖(けんがい)に手を撒(さっ)して絶後に蘇った者でなければこれを知ることはできぬ、即ち深く愚禿の愚禿たる所以(ゆえん)を味い得たもののみこれを知ることができるのである。上人の愚禿はかくの如き意味の愚禿ではなかろうか。他力といわず、自力といわず、一切の宗教はこの愚禿の二字を味うに外ならぬのである。
しかし右のようにいえば、愚禿の二字は独り真宗に限った訳でもないようであるが、真宗は特にこの方面に着目した宗教である、愚人、悪人を正因(しょういん)とした宗教である。同じく愛を主とした他力宗であっても、猶太(ユダヤ)教から出た基督(キリスト)教はなお、正義の観念が強く、いくらか罪を責むるという趣があるが、真宗はこれと違い絶対的愛、絶対的他力の宗教である。例の放蕩息子を迎えた父のように、いかなる愚人、いかなる罪人に対しても弥陀(みだ)はただ汝のために我は粉骨砕身せりといって、これを迎えられるのが真宗の本旨である。『歎異抄』の中に上人が「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」といわれたのがその極意を示したものであろう。終りに宗祖その人の人格について見ても、かの日蓮上人が意気冲天(ちゅうてん)、他宗を罵倒し、北条氏を目して、小島の主らが云々と壮語せしに比べて、吉水一門の奇禍に連(つらな)り北国の隅に流されながら、もし我(われ)配所に赴かずんば何によりてか辺鄙の群類を化せんといって、法を見て人を見なかった親鸞上人の人格は頗る趣を異にしたものといわねばならぬ。風号(さけ)び雲走り、怒濤澎湃(どとうほうはい)の間に立ちて、動かざること巌(いわお)の如き日蓮上人の意気は、壮なることは壮であるが、煙波渺茫(びょうぼう)<遠くはるかなさま。広く果てしないさま>、風静(しずか)に波動かざる親鸞上人の胸懐はまた何となく奥床(おくゆか)しいではないか。
(『宗祖観』大谷学士会発行、明治四十四年四月、第一巻)
からお借りしました。