名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

盆法要を終えて 芦屋仏教会館日曜仏教講座9月の予定

2024年08月23日 08時34分00秒 | 仏教・宗門関連
住職の娘です。

令和6年8月17日、おかげさまで盆法要が勤まりました。
ご参りいただいた皆様、そしてご支援いただいたすべての方々に心より感謝申し上げます。
17日をもちまして、教行寺のお盆期間も終了しました。

今月は93歳になった祖母の入退院、前後して住職の体調不良によって少々バタついてしまいました。
また、私自身、心身共に優れないとき、通院が多くままならないことがあります。

悩みとは、自分の心に湧き上がる不安や心配、不満…心の重荷です。
あたかも、重い足かせをつけられ、狭く苦しい場所に囚われているような気持ちなったりします。
そういうとき、学生時代はどうしたら良いかわからない辛さがありました。

いろいろな経験、出会いがあって、今は親鸞聖人の教えやそのご苦労をお聞かせいただけることを、心から有り難いものだと感じられるようになりましたが。
「そういう時こそ、お聴聞ですよ」
とあるご住職さまが、仰ってくださった通りでした。

「お聴聞(ちょうもん)に行く」
もちろん、仏様のお話を聴きに行くことが目的なのですが、普段行かない場所に行くということ。
それは、心と体を動かし、自分以外の『外』へ意識を向ける体験です。
もしもお聴聞のために未知の場所に行くなら、地図で場所を調べ、交通手段なりを考えます。
当日について、いろいろと想像してシュミレーションをするでしょう。
そのとき、体は重くとも、心の足かせが外れている気がするのです。
漠然とした感想ですが、「とっても健全だな」と感じています。

もしどこかへ行くなら、「行ってみたい喫茶店」をGoogleマップで一緒に探しておくのをオススメします。
だいたいのお聴聞は1時間以上。
知らない場所の場合は、すこし身の置き所がない気持ちになることもあり、そこそこ緊張して1時間以上過ごすことになります。
正直なところ、終わった途端、心身共にリラックスしたくなるのです。
ただ、この緊張感からの開放される「ギャップ」が良いと思います。
それは非日常から日常へと戻る時間。
ひとりでお聴聞を反芻したりして、なんとなく安らぎを覚えます。

お聴聞に行くとき、私自身、自分が寺の人間だとか、僧侶であることなどあまり意識していません。
ダメダメなひとりの人間として、いろいろな場所で行われる講座や法座に参加しています。
動きやすい格好にお念珠(ときどき忘れます)、あとは身一つ。
まぁ、「身一つ」というには、手荷物が多いのですけれど…笑
そういう非日常のひとりの時間が、自分には必要なことでした。
なにより、自分の体が動くうちしかできないことでもあります。
それは「いま」しかないのです。

お盆であろうと無かろうと、自分以外の何かに感謝申し上げて過ごすことは尊いことであり、心の安らぎをもたらします。 
ご縁がありましたら、ぜひともいろいろなところへお参りください。

最後に
浄土真宗本願寺派がメインになりますが、いろいろな場所でいろいろなご法座や講座があるので、個人的におすすめのものを時々投稿しています。
以下に「芦屋仏教会館 日曜仏教講座」9月の予定を掲載しておきます。

南無阿弥陀仏

[お知らせ]
【日曜仏教講座 9月の予定】
- 開催場所: 芦屋仏教会館 大ホール
- 開催日時: 毎月 第1・2・3日曜日 10:00〜12:00
- 受講料: 大人 500円 / 学生 200円 / 高校生以下 無料


講師予定:
- 2024年9月1日: 龍谷大学名誉教授 淺田恵真先生
「仏法に出遇うということ」
- 2024年9月8日: 龍谷大学非常勤講師 冨島信海先生
『教行信証』の読者
- 2024年9月15日: 相愛大学非常勤講師 赤井智顕先生
『御文章』に聞く ー「白骨章」についてー
- 2024年9月22日: 本願寺派 勧学 普賢保之先生
「『教文類』の意義」

↑過去の動画が公開されています。






【お知らせ】令和6年盆法要

2024年08月10日 09時56分00秒 | 行事案内


この度、上記の日時で盆法要を勤めさせていただきます。

酷暑のため、足元が暗く参拝しにくい時間となっておりますが、よろしくお願い申し上げます。

また、山門は少々危険ですので、開門しない予定です。


拙寺の不手際が重なり、ご連絡やお知らせが遅くなるなど、大変失礼しておりますことを、心よりお詫び申し上げます。

南無阿弥陀仏



お盆

2024年08月07日 10時06分00秒 | 仏教・宗門関連

 ちりめんじゃこは、大根おろしでふやかしていただくのが好きだ。頻繁にたくさん食べたいわけではないが、ときどき無性に食べたくなる。

 小学校にあがる前だったか。祖母のお手伝いでちりめんじゃこを盛り付ける時、やり方がいい加減でトレイの角にちりめんじゃこが残った。それに気づいた祖母は私に向かって静かに話しかけてきた。
「勿体ない…まだ残ってるやないの。なぁ、よう見てみぃ。小さくてもしっかりサカナの格好してるやろ?これも一個の〈いのち〉やねんで。この前まで、一生懸命大きなろうと思って海を泳いでたんよ」

 そう台所で諭すように話してくれたことを覚えている。フルタイムで働いていた祖母は多忙だったし、もともとおおらかな性格で、子どもにあまり細かくものを教える性格でもなかった。だから、とても印象深かったのだと思う。それ以降、折にふれて、ふっと頭をよぎるようになった。
「この小さいのにも、親とか兄弟がおったんやんな」
「これが人間の子どもやったらどれほど憎まれるかな」
「今日は何十匹分のいのちやろう」
何年か後、小学校で人間も動物も同じ生き物で、「食物連鎖」と名付けられる「いのちの営み」なのだと教えられた。

 最近、SNSでは、きれいにご飯を食べきる人について「米粒一粒残さず食べるなんて貧乏くさい」と揶揄するような投稿(炎上商法の可能性もある)を見かけることがある。そのような投稿を目にすると、いのちに対する感謝の心が急速に失われつつあるように感じられる。社会にそういう考えの人が増えれば増えるほど、自分も他人も幸せにはなれないだろう。人間は幸せだから感謝するのではない、感謝できるから「幸せ」と感じられるのだ。

 折にふれて感じていただきたいと思う。いのちを終えたものが、今の私の心身を支えてくれていることを。そして、あらためて今この瞬間の「いのちの営み」について思いをはせ、感謝の心でお盆という時期を過ごしていただければ幸いである。

「無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向(えこう)の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ」      (親鸞聖人 『正像末和讃』)
【意訳】
「罪を恥じる心がないこの身には、まことの心などないけれども、阿弥陀如来があらゆるものに回向(えこう)してくださる名号(みょうごう)であるから、その功徳はすべての世界に満ちてわたっている。(そして、罪深いこの私をつつみおさめとってでくださる)」

南無阿弥陀仏