名塩御坊 教行寺

西宮市北部にある蓮如上人創建の寺 名塩御坊教行寺のブログ
〒669-1147 兵庫県西宮市名塩1丁目20番16号

2016年10月の寺だよりに掲載しました 人工知能

2016年10月27日 12時28分31秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 AIというのをご存じだろうか?Artificial Intelligence、日本語では人工知能と呼ぶ。人工知能を搭載したコンピュータは、自分で推論と学習を行って賢くなっていく。推論というのは、これまでに判っていることを元にして、未知の事柄を明らかにしていくことを言う。
 現在のコンピュータは、人間がプログラムを与えて推論と学習をさせているから、一々指示をしなければ動かない。しかし、人工知能を搭載したコンピュータは、推論と学習の中心部分をプログラムすれば、あとは、自分で学習して推論を行う。実際、人工知能を使った自動運転車の開発をしているグーグルでは、毎日、数十台の車を路上で走らせている。自動車に搭載した人工知能に学習させて、自動運転の精度を上げようとしているのだ。
 近年、人工知能の発達はめざましく、既にチェス(西洋将棋)の世界では、人間は絶対にコンピュータに勝てない。チェスより複雑な将棋でさえ、プロ棋士がコンピュータに負け始めている。しかも、1台のコンピュータが獲得した知能は、わずか数分で別のコンピュータに移植できる。人間のように、長い年月にわたって学習する必要がない。
 コンピュータが最初に登場したのは1940年代。それからわずか70年ほどで、コンピュータはここまで発達してきた。その歴史を考えると、今後も、コンピュータは、人工知能と共に、更に進化するに違いない。人工知能を搭載したコンピュータに囲まれた世界では、仕事、日々の生活、学校などはどうなるのだろう。
 見てみたい気もするが、残念ながら、私の寿命の方が先に尽きそうだ。

2016年8月の寺だよりに掲載しました おケラ

2016年10月27日 12時26分26秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 最近、とんと見なくなったが、私が子供の頃には、境内にもケラがいた。ケラは、コオロギに似た体長3cmほどの昆虫で、土中に暮らすが、地上を走り、羽を広げて空を飛び、短時間なら水面を泳いだ。じいじいと泣きさえした。
 この生態から、昔は、「おケラの七芸」「ケラ才」という言葉があった。多芸ではあるがどれも大したことがない様を言った。好例を知りたければ、昨今、テレビに登場する怪しげなタレントを見るが良い。
 「おケラの水渡り」という表現もあった。ケラは長時間泳げず、すぐに水中に没するところから、最初は熱心にやるが、直に飽きてしまうことを言った。子供の頃、面白がっておケラを池に放り込んで遊んだ覚えがある。
 優れた落語家でありながら、俳優、司会者として名をなした故桂小金治は、自らの自伝を自嘲的に「おけらの水渡り」と名付けた。もっとも、小金治は、泳がせてもすぐに元の場所に戻ってきてしまうという意味で使っていたと記憶する。
 おケラをオモチャにした罰が当たったか、もって生まれた定めか、私の人生も振り返ってみれば、おケラのようなものだったと、しみじみ思う。そんな中、山寺の坊主だけは、50年近く続けてこられた。仏祖のご加護、私を支えて下さった大勢の方々のお蔭としか言いようがない。

2016年5月の寺だよりに掲載しました 宗派

2016年10月27日 12時25分30秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 永代経法要では、無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経を読誦する。この3経は浄土三部経と呼ばれ、浄土真宗の所依(よりどころ)となるお経。浄土宗も時宗も、この三部経をよりどころにするが、経典の解釈の違いから別の宗派になっている。
 言い換えると、宗派の違いは、経典の解釈の違いによる。インドから中国へ膨大な経典が運ばれた。しかし、お釈迦様の没後数百年を経て、それらは統一性を欠いていた。そこで、中国では、膨大なお経を判別・解釈して教義を整理した。これが宗派の始まりである。
 中国で成立した13の宗派に加えて、日本でも8つの宗派が生まれた。だが、江戸時代、寺が戸籍を管理する寺請制度によって、強制的に特定の寺に所属することになった。そうなれば経典解釈の違いによる宗派の違いなど、はっきり言ってどうでも良い。
 更に、明治以降、故郷を離れて都市に生活する者が増えて、宗派すら判らなくなりつつある。しかし、嘆くなかれ。自分にふさわしい宗派を選ぶ好機でもある。

2016年3月の寺だよりに掲載しました 死後の世界

2016年10月27日 12時22分17秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 人は死んだらどこへ行くのか。
 日本神話には、死者の世界として「黄泉(よみ)の国」が記されている。古代中国人は死後の世界が地下にあると考えていたので、地下にあるといわれる黄泉(こうせん)をあの世の意味に使った。その「黄(こう)泉(せん)」を大和言葉の「ヨミ」に当てて「黄泉(よみ)の国」と表記した。「黄泉の国」は地下にはなく、例えば出雲地方のような特定地域だと考えられている。実は、「黄泉の国」ほど有名ではないが、日本神話には、死後の世界として「根の国」というのもある。ただ、黄泉の国と根の国の関係は不詳。
 神話ではないが、日本には、亡くなった人が「草(くさ)葉(ば)の陰(かげ)から見守る」という言葉がある。文字通りに理解すれば、死者はバッタや葉ダニのように、草葉の陰にいるということになる。これではさすがにおかしいということで、多くの辞書は、「草葉の陰」を「墓石の下」だと説明する。しかし、この説明の方が怪しい。「葬」という字は、上から順に、草、屍、草(くさ しかばね くさ)という構成になっている。つまり、草の間に死者を置くのが「葬」の字源である。日本でも、庶民の遺体は、長く山野に遺棄するのが習慣だった。草葉の陰は、本当に草葉の陰なのだ。
 改めて問う。あなたは死んだらどこへ行くのだろうか。

2015年10月の寺だよりに掲載しました 創造神話

2016年10月27日 12時20分11秒 | 愚僧独言・「寺だより」掲載
 中学時代、「天地創造」という映画を覩た。旧約聖書の創世記第一章から二十二章までを映画化したものだった。イスラム教は旧約聖書を認めるので、もちろん、神がこの世界を造ったと考える。旧約聖書以外にも、北欧には、古エッダと呼ばれる詩集があり、その中の「巫女の予言」で、この世界の成り立ちを語っている。日本には、古事記や日本書紀に「国産み」の神話がある。
 翻って、仏教には、こういう創造神話の持ち合わせがない。この宇宙も一つの生命体であり、すべての生命体は、成住壊空(じょうじゅうえくう)を繰り返しているだけだと説く。成(生まれ)住(しばらくとどまり)壊(やがて壊れて)空(形を失う)という状態を繰り返すだけで、始まりもなければ終わりもないと言うのである。
 ただ、さすがに、これだけでは納得できない者も出てくるので、それらしい話は用意されている。まず、有情の業(うじょうのごう=生命の働き)によって虚空に一陣の風が吹き、その風が重なって風の輪(円盤)ができた。風の輪の上に水の輪が生まれ、その輪の上が固まって金(金属)の輪が生まれた。そして、金輪の上に、山、海、様々な島が生まれた。山は須弥山とその連山、海は七つが淡水で一つが海水。我々は、須弥山の南にある三角の島に住んでいると語るのである。須弥山はシュメール山、三角の島はインド亜大陸がモデルなのだろう。
 しかし、この話も、よくよく読めば、宇宙の営みによって虚空に風が吹いて、その風が元になってこの世界が生まれたと言っているだけである。これでは、とても創造神話と呼ぶことは出来ないだろう。