報恩講法要のご案内です。
令和6年10月27日(日)
上記の内容でお勤めさせていただきます。
報恩講は、親鸞聖人のご遺徳を讃え、その教えを聞かせていただく法要です。
ご縁がありましたら、ぜひともご参拝ください。
朝9時頃から夕方4時半頃まで開門しております。
ご自由にお参りください。
また、階段や急な坂が多いため、動きやすい服装にてお気軽にお越しください。
南無阿弥陀仏
住職の娘です。
個人的な思いつきで、名塩教行寺の初代住持・蓮芸(れんげい)師の父であり、本願寺第八代宗主(しゅうしゅ)である蓮如(れんにょ)上人について書いていきたいと思います。
蓮如上人に関して、少し詳しく書くと非常に長くなるため短い文章で何回かに分割して記事を投稿していく予定です。
個人的な思いつきで、名塩教行寺の初代住持・蓮芸(れんげい)師の父であり、本願寺第八代宗主(しゅうしゅ)である蓮如(れんにょ)上人について書いていきたいと思います。
蓮如上人に関して、少し詳しく書くと非常に長くなるため短い文章で何回かに分割して記事を投稿していく予定です。
今回は、「蓮如の生涯[1]蓮如の誕生から継職前」についてです。
京都東山(現在、知恩院の北側付近)に細々と存続していた本願寺。
43歳で本願寺を継職した蓮如上人は、
85歳で亡くなるまで、どのように生きて、
いかにして日本最大級の教団にまで成長させたのか。
「中興の祖」とよばれる第八代宗主蓮如の生涯を概観する。
鎌倉時代、親鸞(1173~1263)が「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を著して、「浄土真宗」の教えを説きあらわした。
そして、親鸞が亡くなった後、親鸞のひ孫である第三代宗主・覚如(かくにょ)は、親鸞のお墓であった廟堂を「寺院」化して「本願寺」を建立した。
その後「本願寺」は、親鸞の法脈と血脈を両方受け継いだ者によって代々受け継がれていくこととなる。
このような経緯で創建された本願寺は、天台宗の末寺(親鸞も蓮如も天台宗で得度)として存続していたが、蓮如が生まれた頃にはさびさびとしており参詣者の姿は見えない有様であったという。
1415年、蓮如は本願寺第七代存如(ぞんにょ)の長男として生を受けた。
しかし、生母は正式な結婚相手ではない女性であった。
蓮如が生まれてしばらく経ち、存如が正式な妻を迎えるにあたり、蓮如の母親はひとり自ら本願寺を退去したと伝わっている。
ただ、母親も幼い我が子を残していくことをつらく思っていたのだろう。
退去前、絵師に依頼して、蓮如に赤い鹿の子模様の着物を着せて肖像画を描かせた。
そして、その描き上がったお気に入りの絵幅をもって、どこへ行くとも知らせず去っていったというである。
当時、蓮如は数えで6歳頃。
現代なら小学生にもならない年であったが、生涯、母親のことを忘れることはなかった。
余談であるが、蓮如は継職後に母親捜索に手を尽くしたが、ついに見つけることはできなかった。
結局、この幼き日の別れが、母子の永遠の別れとなったのである。
蓮如は母親が本願寺を退去した日を母親の「命日」として、毎月28日に月命日の法要を勤めていたと伝わっている。
さて、父である存如が正式な妻を迎えて、蓮如にとっては異母兄弟が生まれた。
蓮如は長男であったが、その出自から「部屋住み」として生活することとなる。
若き日の部屋住み生活は非常に貧しい生活であったようだ。
しかし、蓮如は得度の後は勉学にいそしみ、父存如に従って数多くのお聖教(親鸞聖人の著書が中心)を書写するなど、布教伝道において父の存如を補佐していた。
世の習いと言えども、後世に名を残す「蓮如」という人物は、決して恵まれた幼少期や青年期ではなかったことは想像に難くない。
しかし、浄土真宗の教えを受け、本願寺のため、お念仏の教えを伝えるために研鑽した若き日の蓮如の姿が、今も伝え残る彼が書写した聖教の数々から窺い知ることができるのである。
(つづく)