ちりめんじゃこは、大根おろしでふやかしていただくのが好きだ。頻繁にたくさん食べたいわけではないが、ときどき無性に食べたくなる。
小学校にあがる前だったか。祖母のお手伝いでちりめんじゃこを盛り付ける時、やり方がいい加減でトレイの角にちりめんじゃこが残った。それに気づいた祖母は私に向かって静かに話しかけてきた。
「勿体ない…まだ残ってるやないの。なぁ、よう見てみぃ。小さくてもしっかりサカナの格好してるやろ?これも一個の〈いのち〉やねんで。この前まで、一生懸命大きなろうと思って海を泳いでたんよ」
そう台所で諭すように話してくれたことを覚えている。フルタイムで働いていた祖母は多忙だったし、もともとおおらかな性格で、子どもにあまり細かくものを教える性格でもなかった。だから、とても印象深かったのだと思う。それ以降、折にふれて、ふっと頭をよぎるようになった。
「この小さいのにも、親とか兄弟がおったんやんな」
「これが人間の子どもやったらどれほど憎まれるかな」
「今日は何十匹分のいのちやろう」
何年か後、小学校で人間も動物も同じ生き物で、「食物連鎖」と名付けられる「いのちの営み」なのだと教えられた。
最近、SNSでは、きれいにご飯を食べきる人について「米粒一粒残さず食べるなんて貧乏くさい」と揶揄するような投稿(炎上商法の可能性もある)を見かけることがある。そのような投稿を目にすると、いのちに対する感謝の心が急速に失われつつあるように感じられる。社会にそういう考えの人が増えれば増えるほど、自分も他人も幸せにはなれないだろう。人間は幸せだから感謝するのではない、感謝できるから「幸せ」と感じられるのだ。
折にふれて感じていただきたいと思う。いのちを終えたものが、今の私の心身を支えてくれていることを。そして、あらためて今この瞬間の「いのちの営み」について思いをはせ、感謝の心でお盆という時期を過ごしていただければ幸いである。
「無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向(えこう)の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ」 (親鸞聖人 『正像末和讃』)
「無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向(えこう)の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ」 (親鸞聖人 『正像末和讃』)
【意訳】
「罪を恥じる心がないこの身には、まことの心などないけれども、阿弥陀如来があらゆるものに回向(えこう)してくださる名号(みょうごう)であるから、その功徳はすべての世界に満ちてわたっている。(そして、罪深いこの私をつつみおさめとってでくださる)」
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
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