5月24日、前住職が亡くなって丸12年になります。このたびの5月26日(日)当山永代経法要では、前住職の十三回忌法要もあわせて勤めさせていただきます。
永代経法要とは
永代経とは「永代読経(えいたいどっきょう)」のことで、浄土真宗では、「末永くお経を読み伝え、そのお経(釈尊の教え)のこころをいただいて参りましょう」というのが永代経法要です。
この法要は、亡き人や先祖を偲びつつ、先に浄土へ旅立たれた方に感謝し、先立たれた方を機縁として仏法を聞くことで、仏様にお育ていただく場といえます。
前住職について
前住職である
中山沃(旧姓:蒲原沃・かんばらそそぐ)は、新潟市内の真宗寺院の次男として大正14(1925)年に生まれました。母親は教行寺第13世尊観の長女でした。
長じて男子のいない教行寺の婿養子となり、住職の娘の一人と結婚しましたが、専門は医学。
大学に奉職して外から教行寺を支える道を選びました。住職在任期間は約15年間で、自分でも真宗僧侶は向いていないと感じていたようです。(全くその通りでしたが…)
母親の実家存続のため僧侶になり継職した後も、岡山大学の長期休暇や緊急の時にのみ名塩に帰る生活を送っていました。大学を退職するまで長く名塩に住むことはなく、自身を「婿養子だから、中継ぎ住職だから」というのが口癖で、僧侶としてほとんど活動していませんでした。
しかし、在職中も隠居の身になっても本堂等の修繕、蔵の所蔵品整理など、教行寺のために尽力しました。
所蔵品調査と前住職の貢献
そこで、前住職の尽力を目の当たりにしました。専門は医学でありながら古文書を解読し、文献を調べて歴史や人物の分類まで行っていました。
調査に来られた先生が「よくこれだけ整理されましたね。こうして分類できるということは、中身を理解されていたということですよ」と驚かれるほどでした。
また、その整理の際に防虫剤を入れていたため、虫害も最小限に抑えられていたようです。前住職は、自身の独自調査結果を(自分なりに)書き残して書庫に保管しており、現在、それも一資料として役立っています。
この所蔵品調査を通じて、これまでに蓄積された本願寺の研究結果に基づき、名塩教行寺創建当初の有り様が歴史的事実としてわかってきました。
特に重要なのは、教行寺の由緒を明らかにするもの、名塩の「教行寺 摂州有馬郡 名塩郷内中山惣道場」だった頃から受け継いできた阿弥陀如来という御絵像です。名塩の村を中心に、時代を越えて護り伝えられてきた教行寺の宝物です。
湿気やすい土蔵のなか、前住職は最も乾燥する二階の南側最上段にこの御絵像を保管していました。
阿弥陀如来の御絵像
現在継続中の調査において、古本尊が判明しました。
今の地に本堂を再建する以前の御堂に奉懸されていたであろう阿弥陀如来の御絵像です。
これは、寺院として最初のご本尊としてお迎えする「開基仏(かいきぶつ)」にあたります。
↑岡村喜史氏(本願寺史料研究所上級研究員)による調書の一部
永正元年(1504年)、本願寺第8代
蓮如上人(※2)の跡を継いだ第9代
実如(じつにょ)上人(※3)から下付されたものでした。
ちなみに、実如上人は、名塩教行寺初代の
蓮芸(れんげい)師(※4)にとって異母兄にあたります。
この名塩の地に520年間存在し続けた阿弥陀如来の御絵像は、長らく蔵に収められたままになっていました。室町時代(戦国期)に本願寺から下付された絵像の中では非常に大ぶりで細密な阿弥陀如来です。
このたびの永代経法要ならびに前住職十三回忌法要にあわせて、(おそらく)明治時代以降、初めて奉懸させていただく予定です。
また、今年は本堂大屋根の大規模修繕も行いましたので、その旨あわせてご報告し、永代経法要とさせていただきたく存じます。
最後に
静かな本堂に響くお念仏は、阿弥陀如来と先立たれた方からの時を超えたおはたらきの証です。「ひとりだ。でも、ひとりじゃない」そう気づかせていただくお育てが、浄土真宗のお念仏です。
お念仏を通じて、阿弥陀如来や先立たれた方々との繋がりに思いを致す場にしていただきたいと思います。
この機会に是非ともご参拝ください。
南無阿弥陀仏
名塩教行寺 永代経法要のお知らせ
場所:教行寺本堂
日時:令和6年5月26日(日)
午前10時~ 勤行
午前11時〜 勤行 法話
昼休憩12時頃~
午後2時~ 勤行 法話(座談)
勤行【浄土三部経】
※2 本願寺第8代宗主
蓮如上人(1415-1499)
※3 本願寺第9代宗主
実如(實如)上人(1458-1524):蓮如上人の五男
※4
蓮芸(1483-1523):蓮如上人の八男。富田(高槻市)教行寺の第二代、名塩教行寺初代住持。