nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

渡船を乗り継いでの大坂の低山巡り

2014年06月16日 | 文化・歴史散策

2014/06/15  渡船を乗り継いで、大阪市の低山を巡ってきました。

[ハイキングコース] JRゆめ咲線・桜島駅・・・天保山渡船場・・・天保山公園・天保山(標高4.5m)・・・八幡屋公園・グリーンヒルズ(標高22.1m)・・・甚兵衛渡船場・・・昭和山(標高33m)・・・落合下渡船場・・・天下茶屋・・・聖天山(標高14m)・聖天山公園・・・JR天王寺駅

天保山渡船場     渡船から見た阪神高速ブリッジ

 

天保山公園

 

天保山山頂 (標高4.53m) 👈日本一低い山

 

グリーンヒルズ(標高22.1m)

 

ジャカランダの花

 

ジャカランダの花

 

甚兵衛渡船場     ▼水門

 

            昭和山山頂(標高33m)

 

昭和山からの展望   ▼落合下渡船場

 

 

聖天山(標高14m)   ▼聖天山公園

 

あべのハルカス         ▼JR天王寺駅

  

大阪市の渡船場図

 


王朝絵巻「斎王群行」の『斎王まつり』

2014年06月09日 | 文化・歴史散策

2014/06/08 王朝絵巻「斎王群行」の『斎王祭り』に、三重県多気郡明和町に行ってきました。

<アクセス>近鉄山田線・斎宮駅下車すぐ

 斎王とは天皇の代わりに伊勢神宮の天照大神にお仕えしていた女性のことで、天皇の娘や姉妹などの中から未婚女性から選ばれ都から遠く離れた斎宮で暮らしていました。初代斎王は飛鳥時代の天武天皇の長女,大来皇女です。斎王の主な役目は年3回、10月の神賞祭と6月と12月の月次祭の時お参りすること。3泊4日をかけて伊勢へ赴き、天照大神に大玉くしを捧げるという祭祀を執り行ったのです。斎王が役目を終えるのは、天皇が次の天皇に位を譲った時や、天皇や斎王の身内が亡くなったとき、または斎王自身が病気にかかったときなどでした。長い人で50年も努めた斎王もいるとか。役目を終えるまで決して都へ帰れなかったのです。

禊の儀・出発式(上園芝生広場) 13:00~

 

斎王群行(上園芝生広場~斎宮歴史博物館まで)13:30~

 

 

                                             女別当の輿

 

 

            斎王の輿

 

斎王役(伊藤暁美さん)

  

 

            子供斎王の輿

 

  斎王祭りは、昭和58年、地元の婦人会の有志の皆さんが、しょうということで始まりました。今年は,「第32回斎王まつり」でした。この祭りの見所は、都から遠く離れた伊勢の地に群行された様子を再現した「斎王群行」です。現在「斎王まつり」は全員ポランティアの実行委員により運営されています。


近江の繖山(きぬがさやま)三角点巡り

2014年06月02日 | 文化・歴史散策

2014/06/01 滋賀県の繖山(きぬがさやま)三角点を巡るハイキングに行ってきました。

ハイキングコース>JR琵琶湖線・安土駅下車・・・桑實寺・・・観音寺城跡・・・観音正寺・・・繖山三角点・・・文芸の郷・・・JR琵琶湖線・安土駅

JR安土駅  ▼織田信長像  ▼繖山(地元では、「観音寺山」と言う

  

石段が400m続く

 

桑實寺(くわのみでら)   

 天智天皇の祈願寺院で、白鳳6年(678年)に天智天皇の四番目の皇女の病気を治すために創建。亮禄四年(1531年)室町幕府十二代将軍足利義晴が当時の細川氏の乱をさけて、当時の正覚院に三年間仮幕府を開いています。戦国時代にも全く戦火には、関係なく、桑實寺本堂(重要文化財)は、南北朝時代に建立されたままの姿です。 西国薬師霊場第46番札所です。                            

 

桑實寺から観音寺城跡・観音正寺までの道

 

桑實寺から観音寺城跡・観音正寺までの道

 

観音寺城跡       

 繖山山頂近くに築かれた近江源氏の嫡流で近江守護職である佐々木六角氏の居城。山腹に西国32番札所の観音正寺がある。          

                  ▼本城跡碑

  

本城跡中心部     ▼本丸の石垣

 

本城跡        ▼本丸の石垣

 

観音寺城石垣と門跡  落合氏屋敷跡

  

立派な石垣

 

 平井氏屋敷跡     ▼池田氏屋敷跡

 

          観音正寺への道

 

観音正寺

 聖徳太子の開基で、盛時には、寺坊33院(72坊,3院とも)といわれるほど、大きな勢力を誇っていた。鎌倉時代に、近江守護職となった佐々木氏は、この大伽藍をしばしば砦として利用したが、本格的な築城にともない、山下の観音寺山東の観音谷に降ろされた。観音寺城落城後、再び堂塔が営まれた。西国第32番札所でもある

 

 

観音寺正寺本堂

 

観音正寺からの眺め

ねずみ岩            ▼三角点へ

 

繖山(きぬがさやま)

 琵琶湖の東、湖東平野にある標高432.9mの山で、この山には、「観音寺正寺」や「観音寺城跡」があることから、地元では古くから「観音寺山」と呼んでいます。

繖山・三角点への道   ▼繖山山頂  ▼三角点

   

繖山・三角点からの眺め三角点から下山へ

 


近江の湖北の歴史散策

2014年05月11日 | 文化・歴史散策

2014/05/09  滋賀県の湖北の歴史散策に行ってきました。

[ハイキングコース]JR北陸本線・虎姫駅・・・五村別院・・・玉泉寺(元三大師)・・・虎御前山(信長軍の砦)・・・中島城跡・・・丁野山城跡・・・JR北陸本線・河毛駅

JR虎姫駅前

 

五村別院

 文禄元年(1592年)顕如の死により、教如は、本願寺第12世を継承したが、翌年,豊臣秀吉の命により隠居を命じられ、弟准如に譲る。しかし慶長2年(1597年)、教如支持の湖北門徒で地元の有力者の大村刑部により,教如を開基として本山として建立される。湖北の64ケ寺が賛同。教如はこの地で住民に支えられ、東本願寺の基礎を築きます。慶長7年(1602年)、徳川家康から新たに寺地の寄進を請け、京都六条鳥丸に東本願寺を建立(東西分派)。これにより、五村の御堂は、「五村懸所」または、「元の本山」と称されるようになったという。表門と本堂は重要文化財

五村別院・表門(重要文化財)五村別院・本堂重要文化財)

  

玉泉寺(元三大師)

 元三大師の生誕地(古代貴族の別荘地)。近江国浅井郡三川村(現在の滋賀県長浜市三川町) 元三大師(良源)は。『おみくじの元祖』として知られ、今も『元三大師おみくじ』をひくことができる。

安永9年(1780年)建立の玉泉寺の本堂は、大きな二重屋根が特徴。

                                         ▼元三大師御産湯井

 

虎御前山

 織田信長が小谷城の浅井長政を攻めるための拠点で、いくつかの砦跡が残ります。

虎御前山城略図

尾根にそって歩いていきます。

 

織田信長の陣地跡    ▼木下秀吉の陣地跡

 

中島城

中島城跡

 

丁野山城跡

丁野山城跡

 

JR北陸本線・河毛駅周辺図

 

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八相山(はっそうざん)の戦  観応2年(1351年)

 室町幕府で、二頭政治を行っていた足利尊氏と足利直義との間に不和が生じ、内部紛争が起こります。観応2年(1351年)夏、尊氏軍と直義軍が八相山で戦を交え、敗れた直義は、敦賀へ逃れました。翌年、尊氏に降伏しましたが、その直後謎の死を遂げています。直義の死は尊氏による毒殺説が有力です。

姉川の戦  元亀元年(1570年)

 元亀元年(1570年)2月,浅井長政が突然朝倉氏側に立って挙兵。朝倉攻めの織田信長が京へ脱出。同年6月浅井攻め。姉川で織田信長軍23,000騎、徳川家康軍5,000騎が浅井長政軍5,000騎、朝倉義景軍8,000騎激突。最初は浅井軍の優勢であったが、織田の援軍の徳川軍の奮闘で織田方の勝利に

小谷城の戦  天正元年(1573年)

 天正元年(1573年)8月織田信長の越前侵攻再開と小谷城攻め開始。浅井家中の重臣で山本山城主の阿閉貞征(あつじさだゆき)の内応等があり、織田信長軍、一乗谷の戦いで朝倉軍に大勝した後、浅井長政、久政父子の小谷城を猛攻し、朝倉氏、浅井氏両家が滅亡。お市の方と娘三人が浅井氏から織田信長に帰される。

織田信長から長浜城を賜り、長浜城主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、湖北の地から家臣にした主な家臣は

          ①石田三成(石田町)

          ②増田長盛(真宗寺)

          ③脇坂安治(脇坂谷)

          ④山内一豊(初所領之地)

          ⑤田中吉政(三川町)

          ⑥片桐且元(須賀谷町)である。

  関ヶ原の合戦には、石田三成、増田長盛、脇坂安治が西軍に。山内一豊、田中吉政、片桐且元が東軍に。脇坂安治は、途中で西軍から東軍に寝返った。


東大阪の『旧大和川跡と江戸期の史跡探訪』

2014年04月17日 | 文化・歴史散策

2014/04/16  東大阪市の旧大和川跡と江戸期の史跡探訪に行ってきました

ハイキングコース>近鉄奈良線・河内花園駅・・・西庄寺・・・中村神社・・・西村家・・・六郷吟社句脾・・・吉原地蔵石仏・・・中甚兵衛顕彰脾・・・賽の神神社・・・近鉄奈良線・東花園駅

近鉄・河内花園駅おかげ燈籠

  

 

西庄寺・石造地蔵菩薩立像

 門前の地蔵堂内に菱江寺廃寺から掘り出されたといわれる舟形光背に半肉彫りした花崗岩製の地蔵菩薩がまつられています。市の文化財に指定されています

 

仲村神社

  若江郡の二十二座の一つで、江戸時代には「仲村宮」と呼ばれていました。

 

西村家

 江戸時代、中野村の庄屋をつとめた西村宗逸氏の家で、現在も九面の高札や、役人を送迎する提灯も残されています。

 

六郷社、西村宗逸が名付けた俳句会です

吉原石造地蔵菩薩立像

  西光寺門前の地蔵堂の中にあります。室町時代の初期の花崗岩の自然石の石仏です。大阪府の有形文化財です。

            中甚兵衛顕彰脾

 

 大和川だけでなく、河内平野のすべての水が終結し、大阪城の北で東から「淀川」に合流していた。これだけの水の、海への出口が、1ケ所しかなかったのである。大阪城の東の方は、南北方向で土地が一番低いところで、河内平野の排水のためにはスムーズに西に流れなければならないが、生駒山地から西への傾斜はほとんどないため、淀川への流入にも勢いがなく、時には逆流さえ起きた。これらの状況が洪水多発の1つの要因であり、大和川と淀川を切り離して、直接海に落とす考えをした

賽の神社   ▼花園中央公園

 

中甚兵衛(1639年~1730年)

 甚兵衛は、今米村の庄屋で、度々水害を引き起こしていた大和川の流れを柏原からまっすぐ西に付け替えるように、平野郷の代官(末吉孫左衛門)を通じて幕府に懇願し続け、大和川の流れを変える治水工事に奔走し、自ら工事の指揮を執って付け替え工事を完成させた人物です。付け替え後、多くの新田が開発されました。苗字帯刀を許され中氏と称した。その工事に対する功績に対し、従五位勲章が与えられたのを記念して、生地の旧春日神社跡に中甚兵衛顕彰碑が建立されています。

末吉家とは

 坂上氏の流れをくむ平野氏の一族で、平野郷の近在切っての豪族。大阪夏の陣で、豊臣家滅亡後、徳川家康から幕府代官に任命され、支配地は、平野、河内など2郡約5万石の幕府代官であるが、末吉孫左衛門の豪邸となると地方の小大名の城屋敷ほどありました。

□■□役高□■□

幕府代官の役高は、150俵~

幕府郡代の役高は、400俵~

 


二上山から『屯鶴峯』へ

2014年04月12日 | 文化・歴史散策

2014/04/12 二上山から屯鶴峯へ山登りに行ってきました。

<山登りハイキングコース>近鉄南大阪線・二上神社口駅・・・岩屋峠・・・二上山(雌岳)・・・屯鶴峰・・・近鉄大阪線・二上駅

二上神社口駅

 

鳥谷口古墳(奈良県指定史跡)

 

祐泉寺

 

 

岩屋峠        ▼二上山(雌岳)山頂

  

 

二上山(雌岳)からの眺め

  

 

            近鉄南大阪線に沿って歩

 

 

            屯鶴峯

         

 屯鶴峯(どんづる峯)、二上山の火山活動により火山岩が沈積し、1500万年間の風化・浸食を経て奇岩群となり、遠くから見ると松林に多くの鶴が屯(たむろ)しているところから名付けられました。

 

                                            ▼二上駅

  


河内源氏ゆかりの地巡り

2014年04月07日 | 文化・歴史散策

2014/04/06 大阪府南河内郡太子町の河内源氏ゆかりの地めぐりに行ってきました。

<ハイキングコース>近鉄南大阪線・上ノ太子駅・・・壷井八幡宮・・・通法寺跡・・・源氏三代の墓・・・叡福寺・・・孝徳天皇陵・・・近鉄河内長野線・喜志駅

近鉄南大阪線上ノ太子駅

  

清泉「壷井」

 

壷井八幡宮

 康平7(1064年)に源頼信の子・頼義が岩清水の神を私邸の東側に祭ったのが由来。戦国時代末までにたびたび兵火にかかり、八幡宮の一部を残し消失しましたが、江戸時代になって河内源氏の子孫である多田義直が柳沢吉保や隆光への働きかけにより再建されました。

 

通法寺跡

 長久4年(1043年)に河内国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まります。その後、前九年の役(1051年~1562年)で活躍した源頼義が浄土経に帰依し、阿弥陀仏を本尊として祭り、河内源氏の菩提寺として栄えました。南北朝時代には、戦火にあい建物を焼失しましたが、江戸時代になって源氏の子孫である多田義直が、柳沢吉保や隆光への働きかけによって再建されました。しかし、明治維新の廃仏毀釈命により現在のように、本堂の礎石や山門と鐘楼を残すだけとなりました。なお、境内の西側には源頼義の墓が築かれています。

通法寺山門      ▼通法寺概略図江戸時代                 

 

国指定史跡源頼義の墓(通法寺境内➜山門を入り左側) ここから山へ登る

 

国指定史跡源義家の墓

 

                大僧正隆光の墓

 隆光は多田義直の上表の時、柳沢吉保と共に尽力した人物で、将軍綱吉の学僧であり江戸護持院の住職をつとめ、いわゆる「生類憐れみの令」(1687~1709)を公布させた人物であった。そのため綱吉の死後は役目御免の扱いを受け自分が世話してきた通法寺の住職に左遷させられ、のち大和(現在の奈良市)の二条町付近の自宅で死去したが、この通法寺においても隆光の分骨所としての墓碑が残されています。

国指定史跡源頼信の墓

 

叡福寺

 聖徳太子は生前、ここに自らの墓をつくり、推古天皇が寺を創建し、その後、聖武天皇が伽藍を建てるなど、歴史の天皇に崇拝をうけている。織田信長による兵火で焼失したが、江戸時代以降再建された。

 

叡福寺概略図

 

         推古天皇皇太子聖徳太子の墓(叡福寺境内)

 

        竹内街道・・・日本最古の官道です。

  

孝徳天皇陵           近鉄長野線・喜志駅

 竹内街道に造られた直径30mの円墳。

 

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源 頼信(よりのぶ)(968年~1048年)

 源頼信は、清和源氏の家系である満仲の三男として生まれた。二十歳のとき中央官界に身を置き、藤原道兼や道長に仕えた。特に,長元元年(1028年)に勃発した平忠常の乱の際には、追討使平直方にかわり反乱を鎮圧した。この乱を鎮圧したことによって、頼信は武家の棟梁としての確固たる地位を築いた。また上野・常陸・石見・伊勢・美濃などの国司を歴任しており、最後に河内国司となる。その時、河内国古市郡壷井里(現壷井・通法寺)に本拠地を構え、河内源氏をひらくもとになった。長九四年(1043年)には、頼義とともに観音堂(のちの通法寺)を建立したと伝えられ、代々河内源氏の氏寺として信仰された永承三年(1048年)八十一歳の時この地で死去し、遺言により通法寺の巽(東南)の丘陵上に葬られた。

源 頼義(よりよし)(988年~1075年)

 源頼義は、父頼信、母修理命婦の長男として生まれた。平忠常の乱の際、父を助け乱の鎮圧に貢献し、早くからその武勇を東国武士に知らしめていた。永承六年(1051年)「浮因の長」である安部頼良(のちの頼時)が反乱をおこした際、乱の鎮圧にあった。一旦は、頼時を従わせたが、その後頼時とその子真任がふたたび謀叛をおこしたため、出羽豪族清原の援を得て、康平五年(1062年)ようやく乱を平定した。(前九年の役)。また頼義は前九年の後の出陣に際して、石清水八幡宮に参拝して戦勝を祈願し、その戦功をあげることができたので、その感謝の意味をこめてこの地に八幡宮を勧請し、通法寺の北側に壷井八幡宮を建立、源氏の氏神とした。承保二年(1075年)七月十三日、八十八歳でその生涯を閉じ、通法寺境内に葬られたといわれている。

源 義家(よしいえ)(1039年~1106年)

 源義家は父頼義、母平直家の娘の長男として生まれた。七歳の時、石清水八幡宮で元服し八幡太郎と名乗った。前九年の際、頼義に従い反乱を鎮圧し、武将の名声を高めた。永保三年(1083年)には出羽豪族清原の内紛が起こるが、寛治三年(1087年)その鎮圧に成功し、武将としての地位は不動のものになった(後三年の役)。この功績から百姓が土地を寄進しはじめ、寛治六年(1092年)には、朝廷から土地の寄進を禁止されるまでになった。また、永徳二年(1098年)武将で、初めて院への昇殿(殿上人)を許された。晩年、康和三年(1101年)七月、次男対馬守義親が反乱、また三男の義国が嘉承元年(1106年)六月に事件を起こすなど、義家の中央界での地位があぶないものになっていた。最後は嘉承元年(1106年)七月、京の邸宅で死去しこの地に葬られた。

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松阪岡寺山継松寺初午大祭と城下町めぐり

2014年03月12日 | 文化・歴史散策

2014/03/12  三重県松阪市の春を呼ぶ松阪岡寺山継松寺初午大祭と城下町めぐりに散策に行ってきました。

ハイキングコース>JR・近鉄・松阪駅・・・御城番屋敷・・・松坂城跡・本居宣長・・・松阪もめん手織りセンター・・・松阪商人の館・・・岡寺山継松寺(初午大祭)・・・JR・近鉄・松阪駅

御城番屋敷 土蔵(県指定有形文化財)

 

松坂城裏門跡

 

本居宣長旧宅(国指定特別史跡)👉松坂城内に移転しています

 

中御門跡

 

本丸跡

 

 

本居宣長 宅址・・・松阪の豪商の小津家から出た幕末の国学者・本居宣長

長谷川家宅・・・松坂を代表的する江戸時代の豪商

越後屋(のちの)三井家跡

 

三井家発祥地・・・松阪を代表する江戸時代の豪商(旧財閥・三井家)

松阪商人の館(津家宅・・・松阪を代表する江戸時代の豪商

 

岡寺山継松寺  本日は継松寺で初午大祭が、行われていました。

 初午大祭とは岡寺山継松寺で行われる初午大祭は、3月最初の午の日を中心に前後三日間にわたって行われる祭礼です。厄をはじき去るという縁起玩具の猿はじきやねじりおこしが売られ、人々はこれを買い求めて一年の無事を祈る。

 

初午大祭で継松寺からJR・近鉄松阪駅までたくさんの露店が出ていました。

本居宣長 (1730年~1801年)

 父は、伊勢国・松阪の木綿商、小津三四右衛門定利。母は、勝。遊学中、本居宣長(先祖の姓は本居)に名を改める。江戸時代の国学者・文献学者・医師。

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◆◇◆JR・近鉄・松阪駅スタートの三井高利コース豪商の道のハイキングコースがあります。


西山天王山駅から天王山山頂(山崎城跡)へ

2014年03月11日 | 文化・歴史散策

2014/03/09  阪急京都線・西山天王山駅から天王山山頂(山崎城跡)に登山してきました。              

アクセス>阪急京都線・西山天王山駅・・・柳谷観音・・・天王山山頂(山崎城跡)・・・観音寺(山崎聖天)・・・水無瀬神宮・・・桜井駅跡・・・JR東海道線・島本駅

 

 

 

谷寺(柳谷観音

 

                  天王山山頂(標高270.4m

  

山崎城跡・・・山崎城は、天王山山頂に築かれた

 

            山崎城跡よりの眺め

 

酒解神社

 

  

旗立松         ▼観音寺(山崎聖天)

 

観音寺(山崎聖天)・・・天王山麓の城郭寺院である。

 

水無瀬神宮

 

桜井駅跡(国指定史跡

 とは大化の改新以降、幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために馬を配置した役所の事。30里(当時の一里は約530mで、30里は約16km)ごとに設けられた。

楠木公父子子別れの石造

 1336年、戦に先立ち、劣勢を悟った楠木正成は、京都をいったん足利方に明け渡して軍勢の増強を図るべきと軍議で献策するが、後醍醐天皇は受け入れなかった。出兵を命じられた正成は、「今度の戦いは必ず敗北する」との意見状を後醍醐天皇に送っている。正成は、死を覚悟して、一族郎党約500騎をもって、湊川の戦場に赴くことになった。その途中、桜井駅にさしかかった時、正成は数え11歳の嫡子、正行を呼び寄せて「おまえは、故郷の河内に帰す」と告げた。今生の別れになった桜井駅の別れ。湊川の戦で、新田軍は、すぐさま敗走したが、楠木軍は善戦する。しかし、しだいに敗色が濃くなり、正成は死を覚悟した。最後は、弟・楠木正季とお互いに刺し違えて自害した。正成はの生涯は、「太平記」に活写され、敗戦を見通しながら、御醍醐天皇に従って死地に赴いたその最後の姿は、長く人々の心に残ることとなった。

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湊川の戦  延元1年(133年)

 九州で30,000騎の軍勢と水軍を整え、再挙した足利尊氏・直義の軍討伐のため, 新田義貞10,000騎、楠木正 成・正季500騎で戦うが、新田義貞が、すぐさま敗走したため、包囲され、兵力差を埋めることができず敗れてしまう。楠木正成は弟・楠木正季と刺し違え、自害する。足利尊氏は、入京する。

楠木正成  (生年不詳~1336年)

 金剛山のふもと、河内の赤坂を本拠とし、運送労働者を束ねていたため和泉・北紀伊にもかかわりをもつ土豪。1331年後醍醐天皇に応じて赤坂城で挙兵。建武政権樹立に大きな勲功をあり、天皇の信任も厚かった。足利尊氏が叛いたのちも、一貫して南朝方で戦い、九州から東上する足利尊氏軍と湊川で戦って戦死した。

 


尼崎南部の城跡・寺町・運河めぐり

2014年03月09日 | 文化・歴史散策

2014/03/08  兵庫県尼崎市南部の尼崎城跡・寺町・運河めぐりの散策に行ってきました。

ハイキングコース>阪神・尼崎駅・・・尼崎城跡・・・寺町・・・貴布禰神社・・・北堀運河・・・北堀水門・・・阪神・武庫川駅

 

尼崎城略図

▼教職員と児童が一緒になって苦心して製作された尼崎城です。

 

尼崎城址碑   当時を模して造られた城壁(尼崎城址公園)

 

城下町と寺町

 天正18年(1590年),豊臣秀吉が京都の東の京極に寺町を作ったことをきっかけに、全国の城下町に数多くの寺町が建設されました。尼崎の寺町もその一つで、尼崎城築城の際に寺院が一箇所に集められました。また城下町の前衛部分を軍事的に固めるためにも利用され、大きな建物と境内は出城の役割を担いました。明治以降、都市化により昔の面影を失っている中で、約400年間寺院区画も当初のまま残されている尼崎の寺町は、今日において貴重な存在であり、多くの文化的遺産、歴史の資料が残っています。

 

 

法園寺

 

法園寺👉佐々成の切腹の地

 佐々成政は、天正15年(1587年)の九州征服の功で肥後一国54万石を与えられたが、早急に太閤検地を行おうとしたために反発する国人が一斉隆起し、これを鎮圧できなかった。肥後国人の一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉された佐々成政が天正16年(1588年)5月14日尼崎の法園寺で切腹させられた。

貴布禰神社      ▼北浜であい橋

 

北堀水門

 

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佐々成政 (1536年~1588年)

 尾張比良城主として織田信長に仕え、天正3年(1575年)9月前田利家・不破光治とともに、相給知行で越前府中に置かれ、柴田勝家の目付を命じられた。目付といっても軍事組織上は柴田勝家に属し、主に北陸で活躍している。天正9年2月、越中一国を与えられ、富山城主。本能寺の変後は賤け岳の戦・小牧の戦と一貫して豊臣秀吉に対抗したが、天正13年8月、攻められてついに降伏する。天正15年(1587年)の九州征服の功で、肥後一国54万石を与えられたが、肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉され、天正16年(1588年)5月14日に摂津尼崎の法園寺で切腹させられた。


『伊勢街道・三雲菅内』散策

2014年03月04日 | 文化・歴史散策

 2014/03/03  近鉄山田線・松ケ崎駅から松浦武四郎記念館までの伊勢街道・三雲管内を散策してきました。

 ハイキングコース>近鉄・松ケ崎駅・・・舟木家長屋門・・・市場庄の街並・・・中道公会所・・・月本追分・・・松浦武四郎生誕地・・・松浦武四郎記念館・・・近鉄・伊勢中川駅

近鉄松ケ崎駅

  

舟木家の長屋門

 舟木家は、南北朝時代から続く家柄で江戸時代には久米村惣庄屋、津藩無足人となり、その後紀州藩主より「津領地士(郷士)」としてお目見を許されるまでになっています。 舟木家の格式を示す長屋門は、屋敷の南側に位置しています。この長屋門は、寛政6年(1794年)に建築され、天保5年(1834年)に改修されました

 

伊勢街道・久米町の街並

市場庄町の街並

 市場庄公会所

▼「忘れ井」の道標 市場庄町の街並

 

三渡川            常夜燈(三渡川の橋の右側)

                                                                                    文政元年(1818年献納)

 

常夜燈            ▼小津の一里塚跡の碑

 

中道公会所       ▼道標・常夜燈・山の神

                 第61回式年遷宮を記念して地元の人が建てました

 

月本追分・・・伊勢街道と奈良街道の分岐点

  

松浦武四郎の生家

 松浦武四郎は、文化15年(1818年)2月6日伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市小野江町)で生まれました。父は松浦圭介、母は中村喜右衛門の娘とくで、圭介は和歌山藩(紀伊徳川家)の地士(郷士)を努めていました。生家の前が、伊勢神宮に向かう伊勢街道です。

 

真覚寺・・・「松浦武四郎」が7歳から、家のすぐ近くにある曹洞宗の真学寺(現在は、真覚寺)の寺小屋に通い、住職の来応和尚から読み書きを学んだところです。

小野江常夜燈・・・雲出川橋詰めの道路東側の堤防上にあります。その昔雲出川には橋がなく人や馬は、渡し船などで往来していた当時の旅人の安全を願って、寛政12年(1800年)に奉納されたものです。

 常夜燈,仏教とともに伝来した石灯籠の一つで、闇夜を照らすことから常夜燈といわれ、道中の安全を守る役割も持っていました。石に大きく刻まれている常夜燈には、常に心の不浄を焼き払い家内安全を祈るもので神仏に帰依するために献燈することを意味します。常夜燈の奉献については、建立する土地と献燈用の油代を賄う田を寄進し、地元で管理してきました。この常夜燈は、当時の伊勢信仰を物語る大切な文化遺産です。{常夜燈の内容の一部抜粋}

松浦武四郎記念館

 

松浦武四郎 (1818年~1888年) 

 文化15年(1818年),伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて、和歌山藩(紀伊徳川家)の地士(郷士)・松浦圭介の四男として生まれる。幕末から、明治維新という日本の歴史の大きな転換期。28歳から42歳の成壮年期に武四郎は大きな探究心を携えて、旅行家、冒険家、作家、学者と類まれな多彩な才能を発揮し、蝦夷地を6度にわたって踏査し、詳細な内陸地図(東西蝦夷山川地理取調図)を完成させた。明治2年(1869年),戊辰戦争が終り、開拓使が設置されると、武四郎はこれまでの実績をもとに「開拓判官」に任命されます。「蝦夷地に替わる新しい名称を考えるようになり、「北加伊道」など6つの案を政府に提出し、この案をもとに「北海道」と名付けられた。その他、北海道の地名の多くが武四郎によって名づけられました。また、武四郎が、場所請負商人の排除を訴える中で、江戸時代に場所請負制度によって利益を得てきた商人たちは、このままでは自分たちの利益を失ってしまうことに黙ってはいませんでした。だが、鍋島直正(👉佐賀藩主)の後任である開発長官・東久世通禧に代わると長官は、役所に出ず、自宅で商人と密会し、賄賂を貰うといったありさまでした。当時,開拓判官は長官(東久世通禧👉公家)、次官(島義勇👉佐賀藩士で開拓長官・東久世と衝突し、明治3年(1870年)1月19日解任された(のち佐賀で江藤新平と共に佐賀の乱を起こす)に次ぐ政府の高等官(勅任官)であり、月給は二百円(現在の時価で二百万円に相当する)でした。また、武四郎は、これまでの功績から「従五位」に叙せられていましたが、開拓使を辞職する際に「従五位」を返上しました。地位や名誉ではなく自分の信念を貫くことと、何よりも不正を許さなかった姿勢に武四郎の正義感の強さと、人間性が感じられます。まさに婆沙羅開拓判官でした。北海道開拓の歴史というと、近代化に向けて華華しく発展していく様子に目がいきますが、その裏側には政府の政策によって古くから住んでいた土地を失い、独自の文化を否定され、民族の尊厳を傷つけられていったアイヌの人々の辛苦がありました。武四郎は、大きな政治の流れの中で、自分ひとりの力ではどうすることもできなかったことは無念であり、何よりもアイヌの人々に申し訳ない気持ちでいっぱいであったのだろうと思われます。その後、武四郎は骨董品の収集を趣味としながら、再び全国各地をめぐり歩きました。晩年には、三重県と奈良県にまたがる大台ケ原に3度も登り、地元の人々が利用しやすいように,自費で登山道の整備、山小屋の建設などを行いました。明治21年(1888年)2月10日,東京の神田五軒町の自宅にて71歳で死去。明治政府は、武四郎が開拓判官を辞職する時に返上した「従五位」という位を、今までの功績から再び武四郎に送ることを決めました。なお、生地の三重県松阪市小野江町の「松浦武四郎記念館」には、武四郎の多くの業績・資料等が収蔵されています。

「北加伊道」に込められた思い「アイヌの民族の大地」という意味の「北海道」

 「加伊(カイ)」とはアイヌ語で、この国に生まれた者」という意味。アイヌへの敬愛を忘れなかった武四郎は、「北のこの土地に生まれし者(アイヌ)の土地」という意味を込めて「北加伊道」という名を提案した。

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第19回武四郎まつり・・・北海道の名付け親「松浦武四郎」を称える祭りです。

 松浦武四郎記念館

三重県松阪市小野江町383番地

第19回武四郎まつりが、平成26年2月23日(日曜日)松浦武四郎記念館で、開催されました

 

2014/02/23  訪問 


中世の自由・自治都市『堺』を訪ねて

2014年02月21日 | 文化・歴史散策

2014/02/20  中世の自由・自治都市を散策に行ってきました

ハイキングコ-ス>南海本線・七道駅・・・清学院・・・鉄砲鍛冶屋敷・・・山口家住宅・・・本願寺堺別院・・・妙国寺・・・関口神社・・・与謝野晶子生家・・・千利休屋敷跡・・・南宗寺・・・環濠・・・阪堺電軌阪堺線・宿院駅

 堺の歴史

  中世の時代、堺は日本で唯一の裕福な商人による自治の行われていた自由・自治都市であり、町を守る環濠としての役割を果たした土居川に囲まれていました。堺の繁栄に恐れを覚えた豊臣秀吉は、1586年に環濠を埋める命を下しました。その後、1615年の大阪夏の陣の後、徳川家康によって再び一周り大きく堀り起こされました。1704年に大和川が付け替えられると、土居川の河口に大量の土砂が堆積し、水が流れなくなりました。そのために新たに環濠が掘られましたが、それが今の内川です。環濠の一部は、阪神高速道路の建設に伴い埋め立てられましたが、現在も堺の旧市内を囲んでいます。環濠で囲まれた町は、基盤の目のように整備され、東西南北いずれからも町に出入りできるように多くの橋が架けられ、当時の日本の中でも先進的なインフラが整備されていたことを示しています。 

    

南海七道駅           ▼河口慧海の像(南海七道駅前)

 

清学院(堺市立町屋歴史館)

  江戸時代後期から明治時代初期にかけて寺小屋が開かれていた修験道の寺院。日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えた河口慧海もここで学んでいました。平成14年に国の登録有形文化財に登録されています。

 

鉄砲鍛冶屋敷(堺市指定有形文化財)

  戦国時代の1543年から堺で鉄砲の生産が始まり、日本一の鉄砲生産地でした。わが国で唯一の現存する江戸時代の鉄砲鍛冶工房です

  

山口家住宅(堺市立町屋歴史館)

  江戸時代初期の町屋として、全国的にもきわめて貴重な民家で、昭和41年に国の重要文化財に指定されています。

 

本願寺堺別院

  本願寺堺別院は、蓮如の創建で、文政8年(1825年)に再建された現在の本堂は、堺最大の木造建築です。明治4年から10年間、堺県庁の庁舎として使用されました。堺県は、和泉、河内、大和をあわせた大きな県(現在の大阪府東・南部から奈良県にまたがる地域)でした。

 

妙國寺                  

   妙國寺は、永禄5年(1562年),堺を支配した三好四兄弟の一人、三好実休(義賢)と堺の豪商、油屋常言の息子の日光上人の尽力により創建。天正10年(1582年)6月2日京都で本能寺の変が起こった時、徳川家康は、堺見物で妙國寺に泊っていました。慶応4年(1868年)の堺事件の土佐十一烈士切腹の地でもあります。

                ▼史跡土佐十一烈士墓

 

関口神社 

  神功皇后により創建。旧市街唯一の式内社で海の神様として知られ、住吉大社の奥の院といわれています。明治時代には、本神社境内に、現在の堺市役所、大坂府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校等が置かれたこともありました。

                ▼大阪府立三国丘高等学校発祥之地の碑

 

与謝野晶子生家跡

  女流歌人、与謝野晶子(1878年~1942年)の生家跡。現在は、歌碑と案内板が建てられています。

 

千利休屋敷跡

 16世紀、堺の裕福な町衆に生まれた千利休は、「わび茶」の文化を大成しました。現在の茶道千家の始祖である利休の屋敷跡には、椿の井戸が残されています。

 

南宗寺

  三好長慶が、建立し、大坂夏の陣で焼失した後、元和5年(1619年)沢庵和尚により再建された。千家一門の供養塔、伝説の徳川家康の墓がある。

             環濠

 

環濠              ▼宿院駅

 

 宿院駅からいわゆるチンチン電車で天王寺へ戻りました。

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和泉堺石津浦の戦  暦応元年(1338年)

 南朝方・陸奥守北畠顕家の奥州軍、畿内の足利勢制圧のために上洛し、北朝方・高師直の軍と激戦となる。北畠顕家が堺の石津で討死。陸奥遠征軍壊滅。

応永の乱    応永6年(1399年)

  足利義満の命で5,000騎の大軍を率いて周防から堺に着いた和泉と紀伊の守護職も兼務する大内義弘は、入京せず逆意を表す。大内義弘に呼応した鎌倉公方足利満兼が西上せず、将軍足利義満の幕府軍の30,000騎の攻撃で堺城が陥落。大内義弘討死

堺が自由都市として町衆の自治支配となる 応永26年(1419年)

  堺の南荘が、領主の京都相国寺に対して、730貫の年貢請負をし領主の直接支配を排除した。のち堺の南荘、北荘から選ばれた36人の会合衆によって町の自治が一層強まる。

堺会合衆(町衆)による自治制の終り 永禄12年(1569年)

  堺が三好三人衆を援けるのを織田信長に攻められ、屈服して矢銭2万貫を織田信長に献じる

堺事件  慶応4年(1868年)

  慶応4年(1868年)2月15日午後3時頃、当時は外国に対して開港地となっていなかったにもかかわらず、堺港に、フランス帝国水兵数十名上陸して町内で遊びまわった。夕刻、近隣住民の苦情を受けた堺の警備にあたっていた土佐藩士数十名との間で銃撃戦が起こり、フランス帝国水兵は、11名が死亡し多数が負傷しました。この事件は、国際問題となり、責任を追及された土佐藩士十一名が堺の妙國寺の境内にて切腹しました。彼らは妙國寺の北側にある宝珠院に葬られました。


『山崎の合戦跡』を訪ねて

2014年02月11日 | 文化・歴史散策

 2014/02/11  大阪府(摂津国)と京都府(山城国)の境に位置する山崎へ山崎の合戦跡の地を散策に行ってきました。

 山崎は、淀川沿いにあり、平安時代には山城国の国府が置かれた地。西国から京に入る交通の要所として栄えた。名水でも知られ、千利休が茶室「待庵」を造った。

 <ハイキングコース>JR長岡京駅・・・勝龍寺城公園・・・勝龍寺・・・淀川河川敷・・・観音寺(山崎聖天)・・・山崎合戦之地脾・・・旗立松・・・宝積寺・・・JR山崎駅

 

勝龍寺城公園(勝龍寺城跡)

 

勝龍寺

 山崎の合戦の時、明智光秀本陣は勝龍寺の南、約500mに置いた。

 

天王山登山口

 

観音寺(山崎聖天)山門

 

観音寺(山崎聖天)境内

 

空堀跡

 

旗立松(山崎の合戦の史跡)             

 羽柴秀吉は、天王山へ駆け登り、味方の士気を高めるために松の樹上高く千成瓢箪の軍旗を揚げた。これを見た羽柴軍は、一気に敵陣内に攻め入り明智軍はその結果防戦一方になり総崩れになってしまった。これによって光秀は、僅かな手勢を従えて近江に落ちていくのである。現在の松は、五代目の旗立松である。

                                                       ▼山崎合戦之地脾

 

青木葉谷展望台     ▼青木葉谷展望台からの眺め

 

宝積寺・・・行基によって開基。聖武天皇の勅願寺。真言宗智山派  

 山崎の合戦の前日、6月12日、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の本陣が宝積寺に置かれた。

    

 

 

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山崎の合戦  天正10年(1582年)6月13日夕刻

 本能寺の変後、明智光秀16,000騎と羽柴秀吉・織田信孝軍40,000騎とが山城・摂津両国国境の山崎で行った合戦。明智軍が敗れ、光秀は、一旦は、勝龍寺城に逃れたが、ここも包囲されそうになると、光秀は再起をはかるべく近江坂本城へ逃れる途中、土民の落ち武者狩りに襲われ、自刃して果てた。織田軍団で光秀の与力で姻戚関係になる丹後宮津の細川藤孝・忠興父子や筒井順慶に来属を拒否されたため、光秀の集めた兵力は少なかった。「明智光秀の三日天下」と称されるが、実際には、11日間の天下人であった。

①6/11  秀吉軍先遣隊、天王山(標高270m)に布陣。  秀吉本陣は尼崎。

②6/12  秀吉軍、宝積寺に本陣を置く。

③6/13  円明寺川(小泉川)を挟んで両軍が対峙する。

④6/13 午後4時から戦闘開始。

⑤6/13 午後6時光秀が勝龍寺城に撤退。

⑥6/13 秀吉軍、勝龍寺城を包囲。

⑦6/13 光秀が逃亡。近江の坂本城を目指すが、途中の山科・小栗栖で落ち武者狩りにあって自害する


『大仏鉄道跡』を訪ねて

2014年01月25日 | 文化・歴史散策

2014/01/25  JR奈良駅からJR加茂駅へ大仏鉄道跡遺構を訪ねるために散策に行ってきました。

[ハイキングコース] JR奈良駅・・・大仏鉄道記念公園(大仏駅跡)・・・鴻池競技場・・・梅美台公園・・・赤橋・・・観音寺橋台・・・C57展示場・・・JR加茂駅

 大仏鉄道ってなに

             (注)JR関西本線は、現在のJR大和路線です。

JR奈良駅       ▼大仏鉄道記念公園(大仏駅跡)

 

鴻池競技場       ▼梅美台公園

 

赤橋・・・御影石と煉瓦との組み合わせの橋。 現在、この上は、道路です。

 

                鹿背山アパット(橋台)

 

観音寺小橋台・・・すぐ横をJR大和路線が走っています。

 

観音寺橋台・・・手前の橋台は大仏鉄道線跡です。奥はJR大和路線が走っています。

 

蒸気機関車「C57 56」 ニックネイムは『貴婦人』

JR加茂駅南側のモニュメント蒸気機関車の動輪)

このモニュメントは、 加茂町長の難波久士氏が木津川市の誕生を記念して、私費で建立し木津川市に寄贈したものである。

 

JR加茂駅


京都・山科の『忠臣蔵』の散策

2013年12月15日 | 文化・歴史散策

2013/12/15 京都・山科の忠臣散策に行ってきました

[ハイキングコース]JR・山科駅・・・瑞光院・・・元慶寺・・・大石神社・・・岩屋寺・・・坂上田村麻呂墓・・・西本願寺山科別院・・・JR・山科駅

瑞光院・・・元禄初期、赤穂藩城主の浅野内匠頭長矩夫人(瑤泉院)の母(寿光院)が、当院三世陽甫和尚の姪の関係になることから、赤穂・浅野家の祈願寺になっていた。元禄14年(1701年)8月14日、当時、山科に閑居していた大石内蔵助良雄が、主君、浅野内匠頭長矩公の墓を建立し、以後、墓参の都度、赤穂の同志と会し、密儀の場所とした。もと上京区の堀川鞍馬口にあったが、昭和37年(1962年)11月にこの地に移った。赤穂義士ゆかりの寺院である。

浅野内匠頭長矩公の墓と赤穂浪士46人の墓

元慶寺

 

大石神社・・・昭和10年(1935年)創建された。

 

 

岩屋寺・・・赤穂義士・大石良雄(通称大石内蔵助)の隠棲地

大石良雄の遺髪塚       ▼坂上田村麻呂の墓

西本願寺山科別院